人間は誰でも自己の欲望が満たされる時、幸福を感ずるのである。しかし欲望などと言えば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。と言うのは、その欲望が概して善よりは悪のほうに傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が、自分自身を不幸に陥れるものであると言う事をよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。これこそ正に、死の暗闇を押しのけて、命の光を探し求めながらつらく、険しい人の道を彷徨する偽らざる人生の姿なのである。いったい、不義なる欲望のままに行動して、本心から喜べるような幸福を味わいうる人間がいるのであろうか。このような欲望を満たすたびごとに、人間は誰しも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。その子供に悪い事を教える父母がいるであろうか。その子弟を不義に導く教師がいるであろうか。誰しも悪を憎み、善を立てようとするのは、万人共通の本心の発露なのである。
とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きる事のできた人間は一人もいなかった。それ故、聖書には「義人はいない、一人もいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(ロマ三・10,11)と記されているのである。 また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いを挑み、そして肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私はなんと言う惨めな人間なのだろう。」(ロマ七・22〜24)と慨嘆したのであった。 ここにおいて、我々は善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開すると言う、人間の矛盾性を発見するのである。存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性を持つようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性を持つようになった人間は、正に破滅状態に陥っていると言う事ができる。ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を受けた時からあったものとは到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。もし人間が、地上に生を受ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというその事自体不可能であったと言えよう。したがって、人間が持っている子のような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破壊状態のことをキリスト教では堕落と呼ぶのである。
このような観点から見る時、我々は、人間は堕落したのだと言う結論に到達する。と同時に、誰しもこの結論にたいしては反駁する余地がない世言う事もまた知るのである。人間はこのように堕落して自己破滅に瀕していると言う事を知っているが故に、邪心からくる悪の欲望を取り除き、本心から生じてくる善の欲望に従って、一つの目的を指向する事によって、それ自体の矛盾性を除去しようと、必死の努力をしているのである。しかし、悲しいかな、我々は、その究極において、善と悪とがそもそもいかなるなのかと言う問題を解くことができずにいるのである。例えば、有神論と無神論とについて考える時、二つのうちいずれか一つを善とみなせば、他の一つは悪という事になるのであるが、我々はいまだどちらが正しいかと言う事に対する絶対的な定説をもっていないのである。いわんや、人間は、善の欲望を生ぜしめる本心と言うものがそもそもいかなるものなのか、また、この本心に反して悪の欲望を起さしめる邪心と言うものが一体何処から生じてくるものなのか、さらにまた、人間にこのような矛盾性を持たしめ、破壊を招来せしめるその根本原因はいったい何なのかなどという問題に対しては、全く無知なのである。それ故、我々が悪の欲望を抑え、善の欲望に従い、本心が指向する善の生活をなすためには、この無知を完全に克服して、善悪を判別できるようにならなければならないのである。
人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、我々人間が無知に陥ったと言う事を意味するのである。然るに、人間は、心と体との内外両面からなっているので、知的な面においても、内外両面の知をもっているわけである。したがって、無知にも、内的な無知と外的な無知との2種類がある。内的な無知とは、宗教的に言えば、霊的無知を言うのであって、人間は何処からきたのか、生の目的とは何か、死後は一体どうなっているのか、さらに進んで来世や神などと言うものは果たして存在するのか、また既に述べたように、善とか悪とかいうものは一体何なのかなどという問題に対する無知を言うのである。また、もう一つの外的な無知とは、人間の肉親をはじめとする自然界に対する無知をいうのである。すべての物質世界の根本は何であるか。また、それらのすべての現象は各々どのような法則によって生ずるのか、という問題などに対する無知を言うのである。人間は有史依頼今日にいたるまで、休むことなく、無知から知へと、無知を克服しようとして心理を探し求めてきた。その際、内的無知を克服してない敵地に至る道を見出すべく内的心理を探求してきたのがすなわち宗教であり、外的無知を克服して外的知への道を見出すべく外敵心理を探求してきたのが科学なのである。このような角度から理解すれば、宗教と科学とは、人生の両面の無知を克服して両面の知に至る道を見出すべく両面の心理をそれぞれ探求する手段であったと言う事を知る事ができるのである。それ故に、人間がこのような無知から完全に解放されて、本心の欲望が指向する善の方向へのみ進み、永遠の幸福を獲得するためには、宗教絵尾科学とが統一された一つの課題として解決され、内外両面の真理が相通ずるようにならなければならないのである。
実際の人生の行路において、人間が歩んできた過程を二つに大別してみると、その一つは、物質による結果の世界において、人生の根本問題を解決しようとする道である。このような道を至上のものと考えて歩んできた人は極度に発達した科学の前に屈服し、科学の万能と物質的な幸福を誇りとしている。しかし人間は、果たしてこのように肉親を中心とした外的な条件のみで、完全なる幸福を得る事ができるであろうか。科学の発達が極めて安楽な社会環境を築き、しかもその中において、人間が、極度の富貴と栄華とを楽しむことができるとしても、これだけで、果たして人間のその内的な精神的欲求までも、完全に満たし得るであろうか。肉身の快楽にふける俗人の喜びと、清貧を楽しむ道人の喜びとは、全く比べ物にならない。王宮の栄耀栄華をかなぐり捨てて、心の住み家を探し求め、所定めぬ求道の行脚を楽しむのは、釈迦一人に限った事ではない。心があって初めて完全な人間となり得るように、喜びにおいても、心の喜びがあって初めて、肉身の喜びも完全なものとなるのである。今ここに肉身の快楽を求めて、科学の帆を揚げ、物質世界を航海する一人の船頭がいるとしよう。彼が理想とするその岸に到達したとする。しかし、同時にそこが彼の肉身を埋めねばならない墓場であると言う事を彼は知るに至るであろう。それでは科学が真に行くべきところは何処であろうか。今までの科学の研究対象は、内的な原因の世界ではなく、外的な結果の世界であった。本質の世界ではなくして、現象の世界であった。しかし、今日に至っては、科学の対象は、外的な結果的な現象の世界から内的な原因的な本質の世界へと、その次元を高めなければならない段階に入ってきているのである。故に、その原因的な心霊世界に対する論理、すなわち、内的な真理なくしては、結果的な実体世界に対する科学、すなわち外的な真理も、その究極的な目的を達成する事ができないと言う結論を得るに至ったのである。今や、科学の帆を揚げて外的な真理の航海を終えた船頭が、今また一つの宗教の帆を掲げて、内的な真理の航路へとその舳先を変えるとき、ここに初めて本心が指向する理想郷へと航海を進めていく事ができるのである。
人間が歩んできた今ひとつの過程は、結果的な現象世界を超越して、原因的な本質世界において、人生の根本問題を解決しようとする道であった。この道を歩んできたこれまでの哲学や宗教が多大な貢献をなした事は事実である。しかしながらその反面、それらが我々にあまりにも多くの精神的な重荷を負わせてきたと言う事もまた否定する事のできない事実であろう。歴史上に現れたすべての哲人、聖賢たちは人生の行くべき道を見出すべく、それぞれのその時代において、先駆的な開拓の道に立たされたのであるが、彼らが成し遂げた業績はすべて、今日の我々にとっては返って重荷となってしまっているのである。この事について我々はもう一度冷静になって考えてみる必要があるのではなかろうか。哲人の中の誰が我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。聖賢の中の誰が人生を宇宙の根本問題を解決し、我々の歩むべき道を明確に示してくれたであろうか。彼らが提示した主義や思想は、むしろ我々が解決して歩まなければならない種々様々の懐疑と、数多くの課題とを提起したに過ぎなかったのである。そうしてあらゆる宗教は、暗中模索していたそれぞれの時代の数多くの心霊のいく手照らし出していた蘇生の光を、時の流れとともにいつしか失ってしまい、今やそのかすかな残光のみが、彼らの残骸を見苦しく照らしているに過ぎないのである。
すべての人類の救済を標榜して、2000年の歴史の渦巻きの中で成長し、今や世界的な版図を持つようになったキリスト教の歴史を取り上げてみよう。ローマ帝国のあの残虐無道の迫害の中にあっても、むしろますます力強く命の光を燃え立たせ、ローマ人たちをして、十字架に付けられたイエスの死の前にひざまずかせた、あのキリストの精神は、その後どうなったのであろうか。悲しいかな、中世封建社会は、キリストを生きながらにして埋葬してしまったのである。この墓場の中から、新しい命を絶叫する宗教改革ののろしは空高く輝き始めたのであったが、しかしその光も激動する暗黒の波を支えきる事はできなかった。初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民達が貧民窟から泣き叫ぶ時、彼らに対する救いのかん声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったときmこのように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者達が現れたとしても無理からぬ事である。このようにして現れたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。彼らの十伝を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。これは甚だ寒心に堪えないことであった。のみならず、すべての人類はみな同じ父母から生まれたと言う教理に従って、それを教え、かつ信じているキリスト教国家の国民達が、皮膚の色が違うと言うただそれだけの理由を持って、その兄弟達と生活を同じくする事ができないという現実は、キリストのみ言葉に対する実践力が失われ、灰色に塗られた墓場のごとく形式化してしまった原下のキリスト教の実情をそのまま浮き彫りにする代表的な例だと言う事ができよう。
しかし、このような社会的な悲劇は、人間の努力いかんによって、あるいは終わらせる事ができるかもしれない。けれども、人間の努力をもってしては、いかんともなし得ない社会悪が一つある。それは、淫乱の弊害である。キリスト教の教理では、これはすべての罪の中でも最も大きな罪として取り扱われて異tるのであるが、しかし、今日のキリスト教社会が、現代人が陥っていくこの淪落への道を防ぐ事ができずにいると言う事は、なによりもまた嘆かわしい異実情と言わなければなるまい。今日のキリスト教が、そのような世代の激流のなかで、混乱し、分裂し、背倫の渦の中に巻き込まれていこうとする数多くの命に対して、手を束ねたまま何らの対策をも立てることができないというこの現実は、一体何を意味するのであろうか。それは、将来のキリスト教が、現代の人類に対する救いの摂理において、いかに無能な立場に立っているかと言う事実を如実に証明するものと見なければならないのである。
それでは、内的な真理を探し求めてきた宗教人たちが、その本来の使命を全うする事ができなくなった原因は、一体何処にあるのであろうか。本質世界と現象世界との関係は、たとえて言うならば、心と体の関係に等しく、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、そして、主体的なものと対象的なものとの関係を持っているのである。心と体とが完全に一つになってこそ完全なる人格を作ることができるように、本質と現象との二つの世界もそれらが完全に合致して初めて、理想世界を作ることができるのである。それ故、心と体との関係と同じく、本質世界を離れた現象世界はありえず、現象世界を離れた本質世界もありえないのである。従って現実を離れた現象世界はありえないが故に、真の肉身の幸福なくしては、その心霊的な喜びもありえないのである。しかしながら、今日までの宗教は来世を探し求めるために、現実を必死になって否定し、心霊的な喜びのために、肉身の幸福を蔑視してきたのである。しかしながら、以下に否定しようとしても否定できない現実と、離れようとしても離れる事ができずに影のように付きまとう肉身的な幸福への欲望が、執拗に修道者たちを苦悩の谷底へと引きずっていくのである。ここにおいて、我々は宗教人たちの修道の生活の中にも、このような矛盾性のある事を発見するのである。このような矛盾性を内包した修道者たちの破滅、これがとりもなおさず今日の宗教人たちの生態なのである。このように、自家撞着を打開できないところに、現代の宗教が無能化してしまった主要な原因があると思われるのだある。
さて、宗教がこのような運命の道をたどるようになったのには、さらにもう一つの重要な原因があるのである。それは科学の発達に伴い、人間の知性が最高度に啓発された結果、現代人はずべての事物に対して科学的な認識を必要とするようになったにもかかわらず、旧態依然たる宗教の教理には、科学的な解明が全面的に欠如していると言う事実である。すなわち既に述べたように、内的な真理と外的な真理とが、いまだに一致点に到達できていないと言うところに、その原因があるのである。宗教の究極的な目的は、まず心をもって信じ、それを実践する事によってはじめて達成されるのである。ところで、信ずると言う事は、知る事なしにはありえない事である。我々が聖書を研究するのも、結局は真理を知る事によって、信仰を立たせるためであり、イエスが様々の奇跡を行われたと言うのも、彼がメシアである事を知らせて、信じさせるためであった。ここにおいて、知ると言う事は、すなわち、認識すると言う事を意味するのであるが、人間はあくまでも論理的であると同時に、実証的なもの、すなわち科学的なものでなければ、真に認識する事はできないので、結局、宗教も科学的なものでない限り、よく知ってそれから信ずると言う事が不可能となり、宗教の目的を達成する事はできないという結論に到達するのである。このように内的真理にも論証的な解明が必要となり、宗教は長い歴史の期間を通じて、それ自体が科学的に解明できる時代を追及してきたのである。
このように、宗教と科学とは、人生の両面の無知を打開するための使命を、各々分担して出発したが故に、その過程においては、それらが互いに衝突して、妥協しがたい様相を呈したのであるが、人間がこのよう面の無知を完全に克服して、本心の要求する善の目的を完全に成就するためには、いつかは、科学を探し求めてきた宗教と、宗教を探し求めてきた科学とを、統一された一つの課題として解決する事のできる、新しい真理が現れなければならないのである。
新しい真理が表れなければならないと言う主張は、宗教人たち、特にキリスト教信徒達にとっては、理解しがたい事のように思われるかもしれない。なぜなら、彼らは、彼らの持っている聖書が、それ事態で完全無欠なものだと考えているからである。もちろん、真理は唯一であり、永遠不滅にて、絶対的なものである。しかし、聖書は真理それ自体ではなく、真理を教示してくれる一つの教科書として、時代の流れとともに、漸次高められてきた心霊と知能の程度に応じて、各時代の人々に与えられたものであるために、その真理を教示する範囲とか、それを表現する程度に応じて、時代によって変わらざるを得ないのである。従って、我々はこのような性格をもっている教科書そのものを、不動のものとして絶対視してはならないのである(前編第3章第5節参照)。既に述べたように、人間がその本心の指向性によって神を求め、善の目的を成就するために必要な一つの手段として生まれたのが宗教であるとするならば、あらゆる宗教の目的は、同一のものでなければならない。しかしそれぞれの宗教の使命分野は、民族により、あるいは時代によってそれぞれ異なるものであり、それに伴って、上述のごとき理由から、その教典も各々異なるものとなってしまったので、各種各様の宗教が生まれるようになったのである。すなわち、教典と言うものは、真理の光を照らし出すともし火のようなものであり、周囲を照らすと言うその使命は同一であっても、それ以上に明るいともし火が現れた時には、それを気として、古いともし火の使命は終わるのである。既に論じたように、今日のいかなる宗教も、現世の人々を、死の影の谷間より命の光の元へと導き返すだけの能力を持っていないと言う事になれば、いまや新たな光を発する新しい真理が現れなければならないと言えるのである。このような新しい真理のみ言葉がやがて与えられると言う事は、聖書の中にも数多く記録されている(前編第3章第5節参照)。
それでは、その新しい真理は、いかなる使命を果たさなければならないのであろうか。この真理は、まず、既に論じたように、宗教が探し求めてきた内的真理と科学が探し求めてきた外的真理とを、統一された一つの課題として解決し、それによってすべての人々が、内外両面の無知を完全に克服し、内外両面の知に至ることができるようなものでなければならない。また堕落人間をして、邪心が指向する悪への道をさえぎり、本心の追求する善の目的を成就せしめる事によって、善悪両面への指向性を持っている人間の矛盾性と、前述のような、宗教人たちが当面している修道の生活の矛盾性とを、克服できるようなものでなければならない。堕落人間にとって、「知る事」は命の光であり、また蘇生の力でもある。そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである。無知からはいかなる情緒も生じえない。また、無知と無情緒からはいかなる意思も生ずる事はできないのである。人間において、知情意がその役割を果たす事ができなくなれば、そこから人間らしい、人間の生活が開かれるはずはない。人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。それ故、この新しい真理は、神の実在性に関する事は言うまでもなく、神の創造の心情を初めとして、神がご自身に対して反逆する堕落人間を見捨てる事ができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教える事のできるものでなければならない。
善と悪との二筋道を指向する人間達の相克をはらんだ生活によって形成されてきた人類歴史は、ほとんど闘争に明け、闘争に暮れてきた。その闘いは、財物を奪い合い、土地を奪い合い、人間を奪い合うなどの外的な闘争であった。しかし今日に至っては、このような外的な闘いは、漸次、終わりつつあるのである。そして、民族を差別せず、一つの所に集まり、一つの国家を作り、今日においてはむしろ戦勝国家が植民地を解放し、彼らに列強と同等な権限を付与して、国連加盟国とする事によって、みな等しく、世界国家の実現を企図しているのである。のみならず、不倶戴天の国際関係さえもが、一つの経済問題を中心として緩和され、さらに一つの共同市場体制を形成していくと言う実情にある。特に今日の文化面に置いては、各民族の伝統的な異質性を克服して、東西両洋の距離を越えて、何らの障害もなしにお互いが交流しあっていると言う実情である。しかし、我々の前には、避ける事ができない最後の闘いがまだ一つ残っている。それは、とりもなおさず、民主主義と共産主義との内的な理念の闘いである。彼らはお互い恐怖すべき武器を準備して、外的な戦いを挑んではいるが、実際のところはこの内的な理念の闘いに勝利するために、心ならずもこれらの外的な武器を用いているに過ぎないのである。それではこの最終的な理念の闘いにおいて、どちらに勝利がもたらされるかと言えば、神の実在を信ずるすべての人は、誰しもそれは民主主義だと答えるであろう。しかし、既に論じたように、今日の民主主義は、共産主義を屈服せしめえる何らの理論も実力も持ち合わせてはいないのである。ゆえに、神の救いの摂理が完全になされるためには、この新しい真理は今まで民主主義において主唱されてきた唯心論を新しい次元にまで昇華させ、唯物論を吸収する事によって、全人類を新しい世界に導きえるものでなければならない。同時にまた、この真理は、有史以来のすべての主義や思想はもちろんの事、あらゆる宗教までも、一つの道へと完全に統一しうる真理でなければならないのである。
人間が宗教を信じようとしないのは、神の実在と来世の実相とを知らないからである。いかに霊的な事実を否定する人であろうと、それらの事が科学的に証明されるならば、信じまいとしても信じざるを得ないのが人間の本性である。また現実世界に人生の究極の目的をおく人々は、誰しも、最後にはむなしさを味わわずに入られない。これまた人間の天性の発露であり、何人と言えども避ける事のできない感情である。それ故、新しい真理によって、神を知るようになり、霊的な事実に直面して、人生の根本目的を現実世界に置くべきでなく、永遠の世界に置かなければならないと言う事を悟る時、誰しもがこの一つの道を通じて、一つの目的地に歩み、そこで一つの兄弟姉妹として、相まみえるようになるのである。
それでは、全人類が、一つの真理により、一つの兄弟姉妹として、一つの目的地において、相まみえるようになるとすれば、そこにおいて築かれる世界とは、どのような世界なのであろうか。この世界こそ、悠久なる歴史を通じて、人生の両面の無知から脱却しようと身もだえしてきた人類が、その暗黒から逃れでて、新しい真理の光の中で相見え、一つの大家族を形成していく世界なのである。ところで、真理の目的は善を成就するところにあり、そしてまた、善の本体はすなわち神であられるが故に、この真理によって到達する世界は、あくまでも神を父母として侍り、人々がお互いに兄弟愛に固く結ばれて生きる、そのような世界でなければならないのである。自分一人の利益のために隣人を犠牲にする時に覚える不義名満足感よりも、その良心の呵責からくる苦痛の度合いのほうがはるかに大きいと言う事を悟る時には、決してその隣人を害する事ができないようになるのが人間誰しもが持つ共通の感情である。それ故、人間がその心の深みからわき出づる真心からの兄弟愛に包まれる時には、到底その隣人に苦痛を与えるような行動は取れないのである。まして、時間と空間を超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神ご自身が父母となられ、互いに愛する事を切望されていると言う事を実感するはずのその社会の人間は、そのような行動を取る事はできない。従って、この新しい真理が、人類の罪悪史を清算した新しい時代において建設するはずの新世界は、罪を犯そうとしても犯す事のできない世界となるのである。今まで神を信ずる信徒達が罪を犯す事があったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が実在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なく地獄にひかれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、誰が敢えて罪を犯す事ができようか。罪のない世界がすなわち天国であると言うならば、堕落した人間が長い歴史の期間をかけて探し求めてきたそのような世界こそ、この天国でなければならないのである。そうして、この天国は、地上に現実世界として建設されるので、地上天国と呼ばれるのである。
ここにおいて我々は、神の救いの摂理の究極的な目的が、地上天国を建設するところにあるという結論を得た。先に、人間が堕落していると言う事実と、この堕落が、人間創造以後に起こったことでなければならないと言う事実を明らかにしたが、今、我々が神の実在を認識した立場から見ると、人間始祖が堕落する以前、創造本然の世界において、神が建設されようとされた世界が、いかなるものであったかと言う事に対する答えは、自明だと言わなければならない。その事に関しては、前編第3章において論ずるはずであるが、その世界こそ神の創造目的が成就されるところの地上天国なのである。しかし人間は、堕落する事によってこの世界を作ることができず、罪悪世界を作り、無知に陥ってしまったために、堕落した人間は、長い歴史の期間をかけて、内外両面の真理を探し求め、無知を打開しつつ、善を指向し、絶えず神の創造本然の世界である地上天国を渇望してきたのである。我々は、ここにおいて、人類の歴史は、神の創造目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であると言う事実を知った。従って、その新しい真理は、堕落人間が、その創造本然の人間へとかえっていく事ができるように、神が人間を初めとして、この被造世界を創造されたその目的は一体なんであったかと言う事教え、復帰過程の途上にある堕落人間の究極的な目的が、いったい何であるかということを知らしめるものでなければならない。また人間は果たして聖書にかかれているように、文字通り、善悪を知る木の実を取って食べる事によって堕落したのだろうか。完全無欠であるはずの神が、一体そうして堕落の可能性のある人間を創造され、全知全能の神が、彼らが堕落すると言う事を知っていながら、どうしてそれを食い止める事ができなかったのか。また神はなぜその創造の権能によって、一時に罪悪人間を救う事ができないのであろうか等々、実に、長い歴史の期間を通じて思索する人々の心を悩ませてきたあらゆる問題が、完全に解かれなければならないのである。
我々が、被造世界に秘蔵されている科学性を調べていくと、それらを創造された神こそ科学の根本でなければならないと推測されるのである。ところで、人類歴史が、神の想像目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であると言う事が事実であるならば、かくのごとくあらゆる法則の主人であられる神が、このように長い復帰摂理の期間を、何らの計画もなしに無秩序にこの歴史を摂理なさるはずがない。それ故、人類の罪悪歴史がいかに出発し、いかなる公式的な摂理過程を経、また、いかなるかたちで終結し、いかなる世界に入るかを知ると言う事は、我々にとって重要な問題とならざるを得ないのである。それ故、この新しい真理は、これらの根本問題を一つ残らず明白に解いてくれるものでなければならない。これらの問題が明白に解明されれば、我々は歴史を計画し導いてこられた何らかの主体、すなわち、神がいましたもうと言う事を、どうしても否定する事はできなくなるのである。そうして、この歴史上に現されたあらゆる史実が、とりもなおさず、堕落人間を救おうとしてこられた神の心情の反映であったと言う事を悟るようになるに相違いない。
またこの新しい真理は、今日の文化圏を形成する世界的な使命を帯びているキリスト教の数多くの難解な問題を、明白に解いてくれるものでなければならない。知識人たちは、ただ単純に、イエスが神の子であり、人類の救い主であられるという程度の知識だけでは、到底満足する事ができないので、この問題に対するより深い意味を体得するために、今日まで、神学界において、数多くの論争が展開されてきたのである。それ故、この新しい真理は、神とイエスと人間との間の創造原理的な関係を明らかにしてくれるものでなければならない。のみならず、今まで難解な問題とみなされてきな三位一体の問題に対しても、根本的な解明がなくてはならない。そうして、神が人類を救うにあたって、何ゆえその一人子を十字架につけ、血を流さなければならなかったのかと言う問題も、当然解かれなければならないのである。さらに加えて、イエスの十字架の代贖によって、明らかに救いを受けたと当然信じている人々であっても、有史以来、一人として、救い主の贖罪を必要とせずに天国にいけるような罪のない子女を生む事ができなかったと言う事実は、彼らが重生した以後においても、それ以前と同じく、原罪が、その子孫にそのまま遺伝されていると言う、有力な証拠とならざるを得ないのではなかろうか。このような実証的な事実を見る時、十字架の代贖の限界は果たしてどのくらいまでなのかと言う事が、大きな問題とならざるを得ない。事実、イエス以後2000年にわたるキリスト教の歴史の期間を通じて、イエスの十字架の血によって完全に赦罪することができたと自負してきた信徒達の数は、数え尽くせないほど多かった。しかし実際には、罪のない個人も、罪のない家庭も、罪のない社会も、一度たりとも存在した事はなかったのである。のみならず、先に論じたように、年月がたつに従って、キリストの精神は次第に衰微状態に陥っていくと言う事が事実であるなら、今まで我々が信じてきた十字架の代贖と、完全なる贖罪との間に、結果として現れた事実の面で、不一致があると言うこの矛盾を、一体何によって、またいかに合理的に説明する事ができようか等等、我々を窮地に追い込む難問題が、数多く横たわっているのである。それ故に、我々が切に待ち焦がれている新しい真理は、これらの問題に対しても明確に解答を与えうるものでなければならないのである。
また、この真理は、イエスがなぜ再臨しなければならないか、この再臨は、いつ、何処で、いかになされるのか、またその時に、堕落人間の復活はどのようにしてなされるのか、天変地異が起こり天と地とが火によって消滅すると記録されている聖書のみ言葉は、一体何を意味するのか等々、象徴と比ゆによって記録されている数多くの難問題を、かつてイエスご自身が直接話されたように、たとえをもってではなく、誰しもが共通に理解できるように、「あからさまに」解いてくれるものでなければならない(ヨハネ16・25)。このような真理であってこそ初めて比喩と象徴によって記されている聖句を、各人各様に解釈する事によって起こる教派分裂の必然性を使用し、それらを統一する事ができるのである。
このように、人間を命の道へと導いていくこの最終的な真理は、いかなる経典や文献による総合的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも編み出されるものではない。それ故、聖書に『あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王達について、予言せねばならない』(黙10.11)と記されているように、この真理は、あくまでも神の啓示を持って、我々の前に現れなければならないのである。しかるに神は既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人のお方を遣わしたもう他のである。そのお方こそすなわち文鮮明先生である。先生は幾十清掃を、有史以来誰一人として想像だに及ばなかった蒼茫たる無形世界をさまよいあるきつつ、神のみが記憶したもう地と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれた。人間として歩まなければならない最大の試練の道を、すべて歩まなければ、人類を救いうる最終的な真理を探し出す事はできないと言う原理を知っておられたので、先生は単身、霊界とに句会の了解に渉る置くマンのサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさる事によって、天倫の秘密を明らかにされたのである。
ここに発表するみ言葉は、その真理の一部分であり、今までその弟子達が、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したに過ぎない。時が至るに従って、いっそう深い真理の部分が継続して発表される事を信じ、それを切に待ち望むものである。
暗い道をさまよい歩いてきた数多くの生命が、世界のいたるところでこの真理の光を浴び、蘇生していく姿を見るたびごとに、感激の涙を禁ずる事ができない。いち早くこの光が、全世界に満ち溢れん事を祈ってやまないものである。
創造原理