例えば初めて見る製品がここにあったとします。まず最初の疑問は、この製品の目的は何かということです。さらに追求する人は、一体どのようにこれは作られているのだろうと考えるに違いありません。そのように必ず疑問には、WHYとHOWの2つの種類があります。
例えば今誰かが、ある目的地に出かけると言う場合に、そこに行く方法はいろいろなパターンが考えられます。目的地さえ押さえておけば、どの道を行こうと本質的な変わりはありません。しかし、もし目的地そのものが変わってしまった場合には、それ自体の意義が根本から変わってしまうのです。
今日まで人間とは何かと言う疑問で追及されていたのは、HOWに関する知識であり学問でした。
ここにおいてWHYを主軸とした知識の必要性が発生しますが、それがこの人間学を紹介させていただく理由です。
U 成長過程と人間学
生命ある存在はいかなるものも、いかにして生き続けるかを必死で模索しています。本能的に動物や植物は誕生から死にいたるまでHOWのみで終わっているように思われますが、人間はその成長過程において全く違った方向に分岐します。つまりある時期になるとWHYを考え始めるのです。
人間も幼い頃は動物や植物と変わらず機械的、あるいは本能的に生きています。生まれたばかりの赤ちゃんがおなかをすかせて乳をほしがるような行動は動物と変わりありません。ところが、その根本的な差は、少年期から青年期に至るとき発生します。人間は他の動物と全く違う方向に進み始めるのです。
WHY(理由、目的)とHOW(方法、手段)
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古来より人間とは一体何かと言う事が問われつづけて来ました。コンピュータ時代の今日においても、その疑問は未解決のままですが、その研究において重要なポイントがあります。WHYはなぜと言う事で理由あるいは目的を意味します。HOWはいかにと言う事であり、方法あるいは手段に関する事を指しています。私達がが何かを考えようとする時、そのWHYとHOWが重要な要素になります。ある目的地を目指して人が進むとき、そこに行く方法は色々ありますが、目的地さえ押さえておけば、どの道を行こうと本質的な変わりはありません。しかし目的地が変わってしまえばそれ自体の意義が根本から変わってしまいます。 今日まで「人間とは何か」に対する知識や、科学技術の発達においても、HOWのほうが圧倒的に多かったのです。ここにおいて、WHYの知識の必要性が発生するわけです。猫や犬はおなかをすかせても、危険があってもそれが保証されればそれで満足します。しかし人間は幼児期ならまだしも青年期になるとそれが満足されればされるほど、WHYの問題がクローズアップされて来ます。 科学に於いても、あくまで科学とは、物質がどのように(HOW)できているか、材料は何かなどを研究しているものであって、その起こり(WHY)に関しては、いくら科学が追求しても回答を得る事ができません。 それはもともと哲学や宗教の課題と言わざるを得ないでしょう。 科学の発達で、地球が小さくなる事によって、いまや人類は運命共同体となりました。一人の人の技術が、全人類にも影響を及ぼすようになりましたと同時に一人の人の悪事もテロや、コンピュータウィルスのように全地球的な影響を及ぼすようになりました。 さて例えば空手が5段になった人の場合、その人の精神はそれ以上にならなければ凶器になります。ところが肝心の学校教育も、精神的な道徳的な教育よりは圧倒的にHOWの知識ばかりを伝えるわけです。これでは科学が発展すればするほど危険な世の中になっていくのも当然だと言えるわけです。・・・
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科学的な考え方
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まず、最初にトライアングルの法則について説明します。これは科学的な思考をする場合の原則を示しています。科学的、合理的とは心地よい響きを感じますが、一体科学的、合理的とはどういうことを指しているのでしょうか。 それは原因と結果の係わり合いが、ある原則を満たしている場合の事をいいます。 では、ある原則とはどういうことでしょうか。それは「原因にないものが、勝手に結果に現れる事はない。」と言う事です。これは逆の捕らえ方をすると「結果として出てきた以上、必ず原因の中に含まれていたはずである。と言う事になります。 もう少し分かりやすく説明しますと、例えば、財布の中に1000円入れて買い物に行く場合1円から999円までの買い物ができます。最大1000円まで使えるわけです。もし1000円使ってその後に、もう100円出てきたら、「おかしい」と考えます。科学的、合理的考え方に反するわけです。 それは、「原因にないものが、結果に出てきた」からです。 すなわち私達が、物事を科学的、合理的に純粋に見つめていこうとするならば、「原因にないものが結果に表れることはありえない。」と言う原則に照らし合わせてみればよいのです。原因より高い結果が出てくる事はありえない」と言う考え方に沿っているか、反しているかと言う尺度に立ち帰ってみる必要があるわけです。
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2002年01月21日
00時35分37秒
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科学的な考え方2
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次にこういうことを考えてみましょう。粘土がありました。これで人形を作ります。そして人には粘土が勝手に人形になりましたと説明したら馬鹿にするなと怒られるでしょう。表面は原因よりも結果が大きくなっています。
しかし誰もが、この事実は科学的だと納得します。それはあくまで粘土が勝手に人形になったのではなく、原因は、粘土と作者の構想と技術にあってその結果として人形が出てきたのであくまでも原因は結果より大きい事には変わりはないからです。
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さて私達は今まで進化論というものを教えられてきました。この主張はご存知のように「猿が長い年月のうちに人間に変わった」と言う事です。しかしどうもそれだけでは科学的、合理的な考え方ではないのでは、とピンとくると思います。どうして低いサルから高い人間が生まれてくるでしょうか。すなわちどうして水が下から上に流れるのでしょうか。結果が原因より高くなると言う事は既にそれだけで非科学的と言わざるを得ないのではないでしょうか。
「何万年か立つうちに」と言う言葉は錯覚を起させます。何万年立とうと原因にないものが結果に出てくる事はないのではありませんか。最新式の自動車を砂漠に何万年もおいて置けばさびて砂になるでしょうが、砂が何万年立って最新式の自動車になったと言うのは聞いた事がありません。
こういう事実を科学的に判断するには、そうせしめたところの何らかの存在を認めなければなりません。2001年宇宙のたびでは、モノリスという周りのエントロピーを減少させ進化を促進させる黒い板があります。ニュートンが作った宇宙の模型は、偶然の産物ではないと彼が主張しています。そこには必ず人為的な操作が介在しているのです。
今日、宇宙物理学では、200億年以上前に、単純なエネルギーの塊が大爆発を起して、長い年月のうちにこの宇宙を形作ったと解釈しています。この宇宙の成立過程をよく見てみると、単純なものがより複雑になっています。素粒子から、原子、分子、そして鉱物、植物、動物、人間とこの広大の宇宙が変化してきたわけです。
明らかに原因より結果がより複雑に、より高次元になっています。これは原因になかったものが結果に出てきているわけですから、完全に科学という領域を越えた解釈になっているのです。先ほどの粘土が人形になるためには、そうせしめる意思の作用がなければならなかったように、もしこれを科学的に捉えようとするならば、必ず原因にそうせしめるものがなければなりません。
鉱物も植物も、元素やいろいろなものが集まってできていますが、それを徹底的に分解していくと、最後にはエネルギーになります。そしてこのエネルギーは、初めも、中間も、終わりもいつの時代も一定不変です.これを『エネルギー不変の法則』と言っています。
原因にないのに、理由も根拠もなく何かが出てくる事を認めたら、すべての学問はめちゃくちゃになります。勝手に何が出てきてもいいと言う事になるのですから。
そういうことを考えていきますと、結果がある以上、そうせしめた何かがなければ、科学と言う合理的な判断を否定する事になります。あくまで科学的に捉えていくとすれば、エネルギーそのものは変わらないのですからその背後に何らかの意思を認めない限り、非科学的になってしまうのです。原因から何かが出てくる場合、最高のものでも原因とイコールで、それを超える事は決してありません。
宇宙
一度しかない人生を誰もがよりよく生きたいと考えております。古来から人間には何か価値があるのか問われつづけてきましたが、この広大な宇宙の中で、何億年もの歴史の中で一瞬のみしか生きられない人間はごみのような価値もないようにも思われます。それゆえ真剣に人生を考えた人たちは、自暴自棄になってしまったような結論も多くありました。ではここにメスを入れてみましょう。
人間には必ず価値はあります。もしあなたは無価値だと言われれば、反発するか落ち込むでしょう。それだけ尊ばれるべき価値があると信じているからです。
では人間が如何に尊い価値ある存在であるかと言う事をこの人間学を通して説明したいと思います。
人間はそのように価値あるのだと自分では確信していても従来のような進化論的な考え方で行くと矛盾が生じるのです。我々は一般に先祖を崇拝しますが、自分のよりとおい先祖であるほどサルに近い・・・・(自分の親は自分よりもサルに近い、)とすればサルを祭りサルを最も崇拝しなければならなくなります。それよりも果たして価値という言葉そのものはどういうものでしょうか。時計の価値というとき、まず時計と言うものを必要とする存在が、主体に立ち対象であるものとして時計がないといけません。人間が時間を計るまたは、ファッションとしてどのくらい役に立っているかで価値が決まります。
価値というものは対象にあるものがそれを必要とする主体に対してどの程度役に立っているかを表す言葉です。 つまり価値というのは主体が確立しないと決まらないものです。人間が手にした時計は価値があります。しかし猿が手にした時計は、無価値です。それは猿が時間を知る必要を時計をとおしてはもたないからです。ですから価値は、その主体が必要とする目的に対して対象の立場でのみ決定されると言えるのです。目的と価値は主体と対象の行き帰りであって目的のないものには価値がないといえるのです。人生もそうでしょう?
さて目的と存在とはどちらが先にあったでしょうか。たまたま時計があったから時間を知りたくなったのでしょうか、時間を知りたくて考えた結果見つけたものでしょうか。例えばある目的である場所に行く時、目的が先に決まって体が後からついていくのです。では人間について考えてみましょう。例えば「目」モノを見るために必要な目はいつ作られるのでしょうか。それは母親のおなかの中にあって、まだものを見る必要のない時に既に形作られています。と言う事は、私達が生まれてきてモノを見る必要が出てきてから、目が生じるのでなく、やがて生まれてこの地球上で目が必要となると言う目的が先にあって目が存在するようになっています。
私達の体は非常に合理的に出来ています。そうなるべき目的、理由が初めからあると言う事がわかります。髪の毛は毎日伸びつづけます。ところが眉毛やまつげはある程度伸びれば止まります。口と耳の関係も合理的です。しゃべる言葉はちょうど聞き取れますし、自分でもわかります。耳は前を向いているし眉毛は目の上にあります。鼻は下を向いています。これが逆ならどれほど不便でしょうか。
さて人間の存在の目的は何なのか、と言う事を考えてみると人間の存在理由は何かと言う事になります。今まで科学や哲学は人間の存在の理由を見出そうとして、人間自身を分析してきました。時計の目的は時間を見るものだと言うのは知っているから分かるのであって、また初めて見たものでも何に使うものか推測できるのであって、試行錯誤で人間の目的を人間から推測しても的を得た答えには到達しにくいと思われます。と言うのは人間は、人間が存在する目的を考える以前から存在していたからであります。
ではまず、自分が存在する目的は何でしょうか。色々人生における目的を考えて生きていますが、誰一人として、自分が生まれようとして、生まれてきた人はいないのです。自分自身の存在に気づいたのは既にある程度に年齢になってからであります。同じように人間自身の目的と言うものは、人間自身が決める事が出来ないはずです。存在よりも先に目的があるはずですから。
判りやすい例をあげてみたいと思います。ある結果、たとえばカレーライスが出来たとします。このカレーライスの存在理由は何処で決まるのかと言うと既に、何も作る前から、製作者の構想の段階で決まります。それが実際の物となるために、なべや、コンロ、肉やたまねぎ、ルー等が必要になってきます。これをもっと分析してみますと、2つの問題が出てきます。それはHOWの問題です。方法や、材料がどのようだったかと言うことです。しかしこれをいくら分析しても、なかなか的を得た答えは出てこないでしょう。それは子供のものだったかお客様用だったか。またそれがカレーライスになると言う事は、どう分析すれば分かるでしょうか。
宇宙の一番初めは単純なエネルギーの塊だったと言われています。それがビッグバンによって膨張し、今日のあらゆる存在が生まれました。その一つとして人間があります。これを宇宙に存在する調和と美を奏でる存在、宇宙の心、仮に宇宙意思とでも言っておきます。もしこの宇宙の心、意思を認めないとするならばそれこそ原因にないものがどんどん出てくるのですから、非科学的、めちゃめちゃになってしまいます。
そうしてこの宇宙意思に自分自身が出てきた理由つまり存在理由を聞かない限り解答を得る事が出来ないというのは合理的な考えでありましょう。
そのように分析していきますとまず、最初の段階でこの目的は決定済みです。そしてその目的に従って、存在が姿を現します。そしてこの存在の価値は、この宇宙の心とどれだけ調和しているか、宇宙にどれだけ役立っているかによって決まりますから、宇宙の目的、宇宙の意思を主軸にしない限り存在の価値を認める事は出来ないと言う事になります。人間はたくさんの知識を得ていながら一番基本的な、「私の存在の目的は何なのか」が解決できていなかったのです。
この宇宙意思について何とか追求しようと人生のテーマにした人たちがいます。それは、哲学者、あるいは聖人と呼ばれる人たちです。彼らはこの宇宙の意思に触れて、例えば釈尊は仏、孔子は天、イエスキリストは父(神)と捉え、宇宙の背後に一つの人格的存在があると主張しました。言葉、時代背景、交流の度合いが違いますが、みな存在の奥にもう一つの意思的存在があると悟っていたのです。
人間の価値についてもう一つ述べてみます。善人悪人と呼ばれる人たちです。
テレビなどでは通常悪人と善人の熾烈な戦いが行われます。一番最後には悪人はきれいになくならなくてはなりません。いくら人間でもすべての人間が存在すべきだと言うわけではありません。出来れば存在しない方がいい人間の事を悪人と言います。
悪人とは存在する価値のない人間のことを言います。どういう目的で生きているかと言うと「自分さえ良ければ他の人はどうなっても良い」と考える人、他の人を傷つけてもなんとも思わない人は悪人と言われます。
ところが、人の迷惑になる事もいやだが、人のためになることも特にしない、他人とはかかわりなく生きる人たちがいます。こういう人を敢えて名づけるなら凡人と言う事が出来るでしょう。
次にあの人はいい人だといわれる人がいます。隣に病人が出ると行って助けてあげる。田舎から物を送ってくると皆さん一緒にどうぞといって他の近隣のために尽くす人、こういう人を善人といっています。
ところが、一つの国が危ない時にその国の運命を救うために命と財産をすべて投入して救った人、そういう人に対してあの人は善人だというくらいでは、その価値を表現しきれません。そういう場合はどういう表現を与えているかというと英雄という言葉です。英雄というには隣近所に尽くしたくらいではそう呼ばれません。ところが、英雄はある国のために生きたために他の国からは必ずしもそう評価されません。戦争の場合だと、逆に、敵だといわれるわけです。すなわち英雄は国境を超える事が出来ないのです。
ところが英雄よりももっと高い価値を与えられている人たちがいます。これはある特定の国ではなくて、どの国の人にもプラスになる生き方をした人です。人類のために生きた人は100年の内に何人か現れています。野口英世とかシュバイツァーとかです。
更に高い価値を与えられている人たちがいます。数千年に一人しか現れないような人たちです。聖人と呼ばれます。そう呼ばれる人は歴史を通して数えるほどしかいません。4大聖人とか3大聖人とか呼ばれ、教祖になっておられます。
偉人と聖人との違いは、人類の為に尽くすのは1番ではなく2番目になっています。1番は宇宙意思の為に生きなさいという考え方をしています。
これらを分析しますと、人間の価値というものは財産や地位によって決定されるのではなく、自分自身が生きている日々の生き方のターゲットが何を中心に生きているかによって価値が決まるということが理解されます。
ですから私達は朝起きて、今日一日何をするかというときに、どういう生き方で行動するかが問題です。「宇宙の心、意思」と簡単に言いますが、例えばキリスト教の創始者、イエスキリストの言葉を借りますと、あらゆる教えがある中で大切な事が二つあるといいました。
それは、第一は「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」、第2は「あなた自身を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」でした。これは、他の聖人の方々にも通用する考え方です。そう、見ますと私達のいき方のターゲットは宇宙意思を意識して生きなければならないということになります。その人がどういう価値観で生きるかが最も重要です。
以上のことで、必ず人間には何らかの価値が存在するが、その前に目的をはっきりと知らなければならないということが理解できたと思います。