| 【成立】 |
「百人一首」というのは、百人の歌人の歌を一首ずつ集めたもの、という意味の普通名詞である。 一人で百首歌を詠むことは平安時代から行われて来たが、百人の秀歌を選んで百人一首という形式に仕立てたものは、ここに述べようとする、いわゆる「小倉百人一首」が最も古い。 こののち中世・近世を経て現代に至るまで、それを模倣した「百人一首」が実に多く撰ばれたが、長い間、人々に愛されて来た<元祖>「小倉百人一首」(古くは「小倉山荘色紙和歌」と呼ばれたのだが)を凌駕して親しまれたものはついに出現しなかった。 そこで、ただ「百人一首」といえば、「小倉百人一首」をさすようになったのである。 この「小倉百人一首」(以下、普通名詞と紛れない限り「百人一首」という)は鎌倉時代の初めに、歌人藤原定家が選定したものと推定されている。 定家の父俊成は、平安末期に新しい芸術的な歌風を樹立した大歌人であるが、定家はいっそうそれを押し進めて若き後鳥羽院の支持を受け、『新古今集』の撰者の一人となって、十三世紀(鎌倉時代)初頭の、いわゆる新古今歌壇でめざましい活躍を行ったのであった。 ただ『新古今集』は五人による複数撰者(源通具・藤原有家・同定家・同家隆・同雅経)による撰集であり、しかも最終的には院の合意を得ねば選歌も受け容れられない所があり、定家はそれに対して不満を抱いていたようである。 歌人としてもすぐれていた院は同時に王者であり、定家は卓抜した詩人・芸術家であったが、一人の廷臣に過ぎなかった。 承久二年(1220)定家の歌会に提出した歌が院の怒りにあって定家は勘当される。 しかし何が幸いになるか分からぬもので、翌年起こった承久の乱で院が隠岐に配流された後、京都政界で大きな権勢を振るった九条家(定家が長く出入りしていた権門)と西園寺家(当主の公経は定家室の弟)との後援を得て、定家は歌壇の第一人者たる地位を確保した。 官途も権中納言正二位に至り、後堀河天皇から『新勅撰集』の独撰を命ぜられたのであった。 文暦元年(1234)十一月、定家は、前関白九条道家・摂政教実父子の命によって『新勅撰集』の草稿本から、後鳥羽院・順徳院の歌を除き、翌年三月清書本が道家に進められて、撰集の事業は終了した。 当時、承久の乱の主謀者である両院はそれぞれ隠岐・佐渡に存命しており、道家父子は幕府を憚ってこの措置をとったのである。 その年(九月、嘉禎と改元。1235)五月二十七日、定家の日記『明月記』に、 予、本より文字を書く事を知らず、嵯峨中院の障子色紙形、 故に予書くべきの由、彼の入道懇切なり。 極めて見苦しき事と雖も、なまじひに筆を染めて之を送る。 古来の人の歌各々一首、天智天皇より以来、家隆・雅経に及ぶ。(原漢文) とある。 定家の子為家の妻の父である宇都宮頼綱(法名蓮生。宇都宮の豪族)から、嵯峨中院のその山荘(別荘)の障子色紙形を染筆するように頼まれ、天智天皇から家隆・雅経に至る各一首を染筆して送った、というのである。 これが「百人一首」と関係があるらしいことは容易に推察されるであろう。 戦後発見された「百人秀歌(嵯峨山庄色紙形京極黄門撰)」という写本がある。 京極黄門とはいうまでもなく権中納言(黄門)定家のことである。 この書は「百人一首」と非常に近い内容だが、配列の順序が少し違っており、また「百人一首」に見えない、次の四首(少し表記を変える)、 よもすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひん涙の 色ぞゆかしき(一条院皇后宮) 春日野の下 もえわたる 草の上に つれなく見ゆる 春の淡雪(権中納言国信) 山桜 咲きそめしより 久方の 雲ゐに見ゆる 滝の白糸(源俊頼朝臣) 紀の国の ゆらのみなとに 拾ふてふ たまさかにだに あひみてしがな(権中納言長方) があり、逆に「百人一首」の74(憂かりける)、99(人も愛し)、100(百敷や)がなく、差し引き、「百人秀歌」は百一首存するのである。 「百人秀歌」が草稿で、「百人一首」となったのか。 また上記『明月記』の記事は「百人一首」についてなのか。、「百人秀歌」なのか、研究者の間に多くの議論がある。 その内の一つの筋を記しておくと、定家は前年十一月の『新勅撰集』をめぐっての事態を思い、武家の別荘に貼る色紙としては両院の歌を除いた「百人秀歌」を送ったのではなかろうか(上記『明月記』の記事)。 定家と後鳥羽院とは上に述べたような、屈折した感情はあったにしろ、定家が両院の歌を評価していたのは確かであり、後に「百人秀歌」を改訂して「百人一首」としたのではなかろうか。 「従二位家隆」という表記は嘉禎元年九月以降のものであり、その後の成立であろう。 但し「後鳥羽院」「順徳院」というおくり名は両院他界後のものであり(後者のおくり名は建長元年、1249)、現在書冊としてみるような形になったのは、かなり後(建長元年以後)のことであろう。 「百人一首」の成立問題には上記の外に多くの推測があり、それらについては「参考文献」に挙げたものを参照されたい。 因みに、「百人一首」の歌はすべて勅撰集から採られているが、後鳥羽院・順徳院の二首のみは、定家没後に、その子為家が撰んだ『続後撰集』にみえる歌である。 そこから・「百人一首」は為家が「百人秀歌」を改訂して成ったのではないか、という説もあるが、おそらくこの二首は、初め定家が『新勅撰集』に入れておき、やむなく削ったものに含まれていたのであろう。 従って「百人一首」は定家の撰と推定して間違いないであろう。 なお若干の問題を付記しておこう。 頓阿という南北朝時代の歌人が、「嵯峨の山荘の障子に、上古以来の歌仙百人のにせ絵を書きて、各一首の歌を書きそへられたる」と述べており、似絵(肖像画)を伴っていた可能性もある。 また、世に「小倉色紙」といわれるものが伝えられるが、白紙や反故紙や装飾紙などに書かれており、「憂かりける」「人も愛し」「百敷や」の、「百人一首」にしかない歌の色紙もあり、これが嵯峨山荘の障子に貼られたものとも思えない。 字は定家様であるにしても微妙な相違があるとされ、定家筆ということにも説があって、どういう段階で、あるいは何時ごろ書かれたものかについても今後の研究が待たれるものであろう。 |
| 【歌風】 |
「百人一首」の歌は、すべて『古今集』から『続後撰集』に至る十の勅撰集に入っている。 そして百首を勅撰集の部立(分類)によって示すと次のようになる。 春6首 夏4首 秋16首 冬6首 恋43首 羇旅4首 離別1首 雑20首 その歌風については、わずか百首ではあるが、簡単に述べ尽くせぬ複雑なものを持っている。 恋歌が多いということは、王朝風の優艶な気分をみなぎらせているが、一方に、思いを沈潜させた述懐歌があり、印象鮮明な叙景歌、素直に心情を表出した叙情歌があって多様な歌風である。 そして全体的に流麗な声調を持つ歌が多い。 おそらく定家は、自ら評価した秀歌と、和歌史上の重要歌人の歌という二つの面を考慮して選んだのではなかろうか。 もちろん有名歌人で入っていない人もいるが(例えば、六歌仙の一人大伴黒主とか、梨壺の五人の一人である源順とか、和歌六人党中の実力者藤原範永とか、近代では源三位頼政・寂然・宮内卿・俊成卿女とかいう人びと)、基本的には定家が晩年(七十四歳)の好尚にしぼって選んでいるのである。 定家は若い頃の元久期(新古今時代)と、晩年の貞永期(新勅撰時代)とを比べると、晴れの歌(公的な場に出す、創作詩的・文芸的な歌)を本位とする態度と、それを詠出するための観念詩的な作歌手法は全く変わらなかったが、美的情調は希薄化し、淡色化したといわれている。 「百人一首」は確かに新古今的であるよりは新勅撰的な方向を指している感はある。 が、七十四歳の、長い歌人的蓄積からの選出であって、一筋縄で括れぬ複雑多様な傾向と深い奥行を持った秀歌撰となっているのである。 |
| 【影響】 |
定家が没して二世紀を経た室町時代に至ると、作歌人口が増大し、歌人たちは厖大な古典和歌を熟読して歌を作るということが困難になった。 彼らは適当な分量の秀歌撰(詞華集)によって、古典和歌(特に八代集)のエッセンスを知り、その精神を身につけて作歌しようという欲求が存した。 そこでおのずから取り上げられたのが「百人一首」であり、とりわけ武家歌人や連歌師に好み詠まれ、多くの注釈書が書かれるようになる。 江戸時代に入ると、貝合せやうんすんかるたなどの影響を受けて、十七世紀の中頃には歌かるたとして遊ばれるようになり、同時に王朝和歌の入門としてもてはやされた。 現代に至るまで、和歌は「百人一首」、散文は「徒然草」が古文入門として双璧であることは変わっていないが、これも、「百人一首」の選定眼の高さを示すものであろう。 さらに中世から現代に至るまで、異種百人一首とか変わり百人一首とか称される「百人一首」類似の書が多く成立した。 その時代時代の好尚に合致した秀歌撰(足利義尚撰の「新百人一首」や昭和十七年の「愛国百人一首」もここに入るであろう)、道徳的教訓的なもの(「道歌百人一首」など)、狂歌的なもの(「犬百人一首」や大田南畝の「狂歌百人一首」など)などの種類があり、「百人一首」の影響力の大きさを如実に示しているのである。 最後に一言しておきたい。 「百人一首」の歌は勅撰集から採られているが、その歌が勅撰集の中に置かれた位置で、撰者がその歌をどう解していたかがわかる。 ところが、定家が、一首を単独で取出して解釈すると、勅撰集中に置かれたのとは違って解釈されている場合がある(21 30など。) それは定家の注した『顕注密勘』といった『古今集』の注釈などによって知られるのだが、、「百人一首」を定家撰の秀歌撰としてとらえた場合、その解釈と鑑賞が誤っているとはいえない。 島津忠夫『百人一首』などはその立場による注釈である。 本書は通説に従いつつ、右の立場も考慮して注を付した。 |
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井上宗男 |