心霊現象の一つとしての輪廻転生

なぜ人はこの世に生まれ、死んでゆくのでしょうか?

わずか、数十年の喜怒哀楽を味わうための人生なのでしょうか?
何故、愛し合った伴侶や家族との別れがあるのでしょうか?
死ぬほどの努力をして習得した「学問や資格」は死後どこへ行ってしまうのでしょう。
自ら望んで生まれてきた訳ではないのに、何故、苦しみがあるのでしょう?

さて、それでは一体、人間は何の目的があって?この世に生まれてくるのでしょうか?
ここでは、そんなお話に焦点を絞ってお話を進めて行きたいと思います。

そうです、輪廻転生のお話です。

一般には、人の一生を話す時は、どうしても誕生からのお話になってしまいます。 私は、話をより解かり易くするために「死んだらどうなるか?」からスタートさせて頂きたいと思います。

●●目次●●

 死んだらどうなるか?
 「死」の気付き
 「死」の自覚のない霊魂
 初七日とは?
 改めて「死」の再認識を
 49日とは?
 輪廻転生と課題
 三界(幽界・霊界・神界)の構造
 課題はどうして決められる?
 三界での修行
 子供が親を選ぶ
 課題についての補足
 自殺するとどうなるか?


死んだらどうなるか?
さー、人間は色々な形で「死」を迎えます。

人が死ぬとはどういう現象を言うのでしょうか? 死の定義とは?
医学的には心臓が停止した時とか脳波が云々といわれておりますが、心霊的には「魂が“魂の緒を離れて”離脱した時を「死」としております。 霊魂とは、よく「球形の光の玉のようなもの」だと言われますが、私が以前目撃したものは「光の玉に尾」がついていました。 魂の緒(たまのお)は人体の「お臍」と「霊魂」を結び付けている「剥かれた干瓢の皮」のような形をしたものだそうです。

医学的な死と霊的な死は同一でない場合があります。特に最近では延命処置が取られますので「病院での死の判定」の方が「霊的な死の判定」よりも2日も3日も遅いことがあります。 生きている人間の魂は肉体と「玉の緒」と呼ばれる透明の糸を束ねた形の紐で「お臍」と繋がっているといわれております。 いよいよ、最期の時が近づいてきますと魂は「玉の緒」を糸のように引きながら天空高くゆっくりと上昇し、最後には点となり宇宙に融合するように見えなくなってゆくそうです。

死へ旅立つ人に立ち会った方はいらっしゃいませんか?
息を引き取る瞬間に「眉間に皺を寄せ」少し苦しそうな表情をされることがあります。 この瞬間が魂と繋がっていた「玉の緒」が切れた瞬間のようです。

「死」の気付き
さて、科学でも証明することが出来ない現象は無数にあります。
ごく身近なところでは、「風邪をひく」ことすら科学的には説明できないそうです。 ですから、心霊現象のように、一般には五感で感ずることの出来ないことを論じ観ずるには、本人が体験するか推論しかありません。
従って、これからのお話を科学的に証明することは出来ませんので、「推論」ということでご承知ください。

「死んだら判ること」なんですけれど・・・・・ 取りあえず、霊的なお話ですから「死」とは肉体から魂が離れた時と致しましょう。

では、本題に入ります
人間=肉体+霊魂(命)+精神(心)・・・霊魂=潜在意識と言われておりますが、私には命=潜在意識の意識と言う部分で、この表現に抵抗があります・・・と仮定するならば、数式を書き換えると
人間−霊魂=肉体+精神= → 考える能力を持った肉体 → 死体以外に存在しない
人間−精神=肉体+霊魂= → 生きる力を持った肉体 → 植物状態の人間
人間−肉体=霊魂+精神= → 考える力を持った霊魂 → 意識ある霊魂となります。

つまり、人間が死んだら「意識のある霊魂」と「屍」になります。 植物状態の人間は、本人以外は五感で理解することが可能ですが「意識のある霊魂」とは、どんな状態を言うのでしょうか? 人間は命があるから「生きている」のですが、「命」の実態は五感では知ることの出来ない「光のような形?をした意識体とかエネルギー」などと言われております。

さて、今、あなたが死んだとしましょう・・・・ 人間が死ぬと「自分が死んだことに気付く機会」は3回あると言われております。
第1の機会:死んだ自分の周りに人が集まって「自分が死の宣告を受けている時」
第2の機会:自分のお葬式を天空から眺めている。
第3の機会:死んだことに気付かない自分が何時もの通り「誰かに話し掛けても相手にしてくれない時」・・だそうです。

ところで死の自覚を「機会」と表現しました。 それでは、第1〜第3の機会に死んだことに気付かないとどうなるのでしょうか? 「意思を持った霊魂」=俗に「お化け」になってしまう訳です。 じゃー「お化けになって何が悪い! そんな馬鹿げたことが信じられるか!」とお怒りの方もいらっしゃいますでしょう。はい、おっしゃる通りです。 私から、そういう方の考えを直して頂こうなどとは毛頭考えておりません。

ただ、ひょっとしたら、それは「真実」ではありませんよ・・と申し上げているのです。 もし、「死」を「何もなくなる無の現象」と捕らえておられる方がおられましたら、引例の計算式とは「違っていますよ」と申し上げているのです。

「死」の自覚のない霊魂
1.それでは、死んだことに気付かない魂はどうなるのでしょう? 「死んだことに気付かない」とは「生きていると思っている」ということです。 従って、取る行動も「生きている時」と何ら変わりがありません。

ご自分の葬儀の時ですら「おいおい、何やってんだよー、その写真は俺じゃないかよー。よく見てくれよ、俺はちゃんと生きてるよー」という具合です(第2の機会)。 家族揃っての食事の時もそうです。 「何で俺の食事は無いの? そこは俺の席だよ!」等と家僕に声を掛けるそうです。ところが、霊魂の発する波長は生きている人間には通じませんから、一向に「生きているつもりの死んだ人間」の意思は伝わりません(第3の機会)。

ここで、改めて「死んだこと」に気付けば幽界へ行くことが出来るのです。この「幽界へ行く」ことを仏教では「成仏」と言っております。 以上は「死んだことに気付かない」例ですが、実は他にも幽界へ行くことの出来ない霊魂がおります。

2.それは「死んだことは判っているが何かに対する「執着」があって今生から離れられない霊魂のことです。「死んだ後も何かに執着する」とは、例えば「残してきた子供が不憫」だとか、もう一度だけでも「Aさんに会っておきたかった!」とか・・「あの人を一生怨む」などです。こういう思いを残して亡くなった人達は、この後、どういう道を辿ることになるのでしょうか? 前世の因縁などという言葉がありますが、この辺りから輪廻転生も大きく関わりを持ってくることになるのです。つまり、過去世での「執着」が生まれ変わっても解消されていないのが因縁となるのです。

3. 最後は、死んだことは知っているが、どうして良いかわからない・・というような霊魂です。最も多いのが「死んだことは解かったがどうしてよいか解からない」場合です。 これは、死後の世界のことを過去世を通じて不勉強だったため行き先が解からないことを意味しております。例えば、墓地に行くと「人魂(火の玉)が出る」などと言われますが、あなたはどう思われますか?「うん、そう思う」と答えられた方は、死後間違いなく3.になります。 何故なら「死んだらお墓に奉られるものだ」と言う風に思っておられるからです。

さあー、何はともあれ、死んだ人の魂は「意思のある霊魂」として初七日を迎えます。人を怨む「怨念」のような感情は別として、霊界では一般的な執着は「解消」するような対応をちゃんとしてくれております。

初七日とは
初七日は、死んで幽界に行くであろう人の魂が「現世に未練を残すことがないように」好きなことを好きなだけ出来、叶えてくれる「ご褒美の1週間」だそうです。 例えば、初恋の人にもう一度会っておきたかったとか、新婚旅行で行ったハワイの海をもう一度みたいとか・・

こんな経験を身近な人から聞かれた方はいらっしゃいませんか?
ある夜、親戚の叔父さんの夢を見ました。 普段、特に気に留めてもいなかったので、何故だろうと思いながら出勤しました。 そうしたら奥さんから会社に電話が掛かってきて「昨夜、叔父さんが無くなったという電話がありました・・・」 これは亡くなった叔父さんにとって初七日に与えられた「何でも好きなことが出来ることの1つ」と考えられます。 特に夢の中では叔父さんの「世話になったね」というような挨拶がある訳ではありませんが「印象深い」映像となるようです。

「死ぬことは、生きて課題を克服したことへのご褒美である」・・と私の愛読書には書かれております。
何年も、いや、何十年もの生涯は誰にとっても平坦な道ばかりではありません。 それどころか「何で自分は、こんな目にばかり会うのだ!」と愚痴の一つも言いたくなるような人生もありましょう。 だから、「死」はご褒美だとおっしゃっておられるのです。

「慾」は地球上にしかありません。ですから霊界に行けることは、「慾」が必要なくなる世界に行くことを意味しています。 「慾」が無い世界へ行くことが何故「ご褒美」か?って・・・ 悩みや苦しみの元は人間の「欲」だからです。 「慾」が不要ということは「何でも叶えられる」ということで、苦しみがないということなのです。 これが、執着を残さないように霊界が与えてくれた摂理の一つです。

但し、褒美をいただけない「死」もあります。 それは「自殺」です。
「死ぬと全ての苦悩から逃れられる」と思って自分の命を絶つ訳ですが、現実は「意識を持った霊魂」になるだけで何事も「全く解決」しません。 「死んだら、何もかにも無くなってしまう」と思ったのに無くならないのです。 それどころか、人に対する意思の疎通が自由でなくなりますから、一層苦しむことになります。

改めて「死」の再認識を
よく、誰それの死を乗り越えて・・・等といわれます。 生まれてきた以上、死を迎えるのは当たり前のことなのに・・ 昔から、特に日本人は「死」を忌み嫌ってまいりました。 近年になって、やっと死後の世界を解説した書籍が翻訳のものを主にした形で日本の書店にも並び始めました。 生まれた以上、死は誰にでもやってきます。だとしたら、死に対する知識や学びがあっても良いのではないでしょうか?

最近でも、お葬式の時に、亡くなった人の家の入り口には「忌中」と書いた紙を簾に貼って、張り出す習慣があります。 大昔は「流行り病」といわれる伝染病などでの死が多かったため、他と隔離する意味でこのような習慣が残されたのでしょうね。 「いまわしい」とは己の心と書くんですがねー。

心霊の学びとともに、誕生を祝うように「死」を祝う日がやってくるかも知れません。 事実、今生で死を迎え幽界へ戻った霊魂は「大歓迎」で迎えられるといいます。 そして、心霊治療という「奇跡」も輪廻転生の「気付き」のきっかけとして起こります。。

49日とは
49日の解説の前に、補足しなければならないことがあります。
それは、死ぬ時は1人ぽっち?・・ということです。
いいえ、一人ぽっちでなんかありません。
死者・・肉体を失っただけの人間にとっては、取り敢えずは未知の部分を歩み出すことになりますが、道案内の介添えをして下さる方、それは「背後霊様達」です。 背後霊は色々と役割が別れていて、どのような人にも最低3人(体?)の背後様が付いています。

1.守護霊:「生まれる前から、死んだ後」もずーっと一緒にいて何かとお世話をしてくださいます。 本人以上に本人を知っていると言われています。
2.指導霊:歩み行く人生の・・例えば職業とか趣味とかの応援とアドヴァイスを絶え間なくして下さっております。
3.支配霊:5年先、10年先の思想上、特に心霊に関する方向付けを司るといわれております。

よく、亡くなったおばあゃんが背後霊に・・などと言われますが、余程のことがない限りそうではないようです。 ただ、非常に霊格の高い霊魂では、死後直ちに「補助霊」という形でお手伝いをされるとのことです。 その他にも、ご先祖様や縁のある方々が大勢で幽界の入り口で出迎えて下さるそうです。

本題の「49日」に入ります。
初七日を終えて8日目には次の「カリキュラム」が待っております。

カリキュラムの第1の課程は「過去世の反省と評価」です。 この時には、背後霊様達の面前で「今、死を迎えた人」の「直前の世の生きざま」が走馬灯のように画面に映し出され「何故そうしたか」という動機の説明を求められるそうです。 よく、悪いことをすると「地獄へ落ちる」とか言いますが、この時が「地獄」だとのことです。 つまり、人間の本質は愛ですから、特に「人の心を傷つけた」言動に対しては厳しく「その動機」の説明を求められるそうです。 動機を求められる程に「他人の心を傷つける」とは余程の自我を発揮したのでしょうか・・? この説明を「させられる」過程が地獄だと言われております。

カリキュラムの第2の課程は「今後どうするか?」と、意見を求められます。 つまり「もう一度、人間に生まれ変わりますか?」という質問に答えなければなりません。 何故、こんなタイミングで問われるのでしょうか? 悩み=欲だとしますと、生まれ変わるということは「悩むため」に生まれ変わることを意味します。 しかも死後間もない時期に、この答えを問われるのは「辛いことを鮮明に記憶している時期であるからこそ勇気ある選択」となるのです。

人間の欲が、仮に仏教で言う「108つの煩悩」とするならば、今人間として生まれてきている人は108つの煩悩の内のいくつかを学ぶことを課題としている・・といえます。 カリキュラムの最後は、「今後のオリエンテーション」です。 霊界での勉強方法とか、新しく生まれ変わる人には次の課題が討議されるそうです。

輪廻転生と課題
それでは、108つの慾を輪廻転生する「生涯」の中で、どのように与えられるのでしょうか? その前に、輪廻転生する回数はどれ程なのでしょう?。 300回位とか7〜8回という説や、いや1,000回以上などとする説があります。

私の経験では、数百年前からの人間の平均寿命を40年とし、死後、改めて生まれ変わるまでの期間を約150年とすると、1回の生まれ変わりに200年を要することになります。 150という数字の根拠はある人過去世を霊査したところ、前世が180年前、前々世が400年前、その前が不明で4世前が830年前でした。 そうすると、大体7回〜8回生まれ変わると108つの欲を達観することが出来るようになるのかなーと私は思っています。

もっとも、体験しなくとも理解出来る「慾の克服」は、地球上で体験しなくても良いわけですから、実数はもっと少ないのでしょうか? 49日を終えて カリキュラムを終えて幽界に入りますと地球上の「お別れ」と違って、辛い課題を無事克服してきた霊魂の「大歓迎会」が開催されます。 ご先祖や最近亡くなった方々が全員(成仏している人の魂だけ)が出迎えてくれます! そして永い永い幽界での修行が始まります。幽界での修行を終えると霊界に入り、更に高度な修行に入ります。

さー、あなたは 
1.もう一度人間に生まれ変わって続きの課題に挑戦されますか?それとも、
2.もう辛い人生なんて「いや!」と挑戦を拒みますか?
我々には、どちらの道も選択することが出来ます。

先ず1.を選択された方、それは向上心に燃え、我欲を捨てて他人のために喜ばれる人(魂)になりたいと欲する大変なエリートです。 2.を選択された方、きっと直前の人生が辛いものだったのでしょうね。 でも、直前の人生が4度目の生まれ変わりであったとしたら、これから4度目の人間としての課題に挑戦しようとしている人の補助霊として、その方の守護霊様の指示により、その人が「その人生での課題を克服することが出来るように」お手伝いする道も残されていますし、4度目の人間としての課題を終えたまま、幽界に残っていることも出来ます。

さて 1.を選択した人は幽界での修行を終え、平均的には50年後に霊界に入ります。 霊界では5回目の人間として生まれた時の課題の選択や、解決方法などが瞑想を通じて学習するとのことです。 毎日毎日「心地よい、何の不安も欲望もない、心穏やかで時を忘れてしまうような環境のなかで、楽しくて楽しくてしょうがない学習」だそうです。 でも、時々、地球に残してきた身内や子供達やお友達や・・・そんな人たちの消息が気になります。 心に思えば、たちどころに彼らには判りますが、やっぱり家族の傍に言って、一緒にお話をしたいという望みを掻き捨てることは出来ません(愛情として)。

お彼岸・お盆・命日は有給休暇のようなものです。 これは修行しなければならないけれど、傍にもいってやりたい!自分の気持ちを伝えたい!・・という心の葛藤を振り切って、何の迷いも無く「地球に下りてこられる」という意味での休暇なのです。

横道に反れますが、私の母が無くなって新盆の時の出来事です。 3月末に亡くなった母は4ケ月後に「新盆」を迎えました。 49日を終え成仏したこと(幽界に入る)を確認しておりましたので、8月13日の朝、簡単にお飾りをしている祭壇に向かって母に話し掛けました「お母さん! そちらの様子はどうですか? ちゃんと勉強してますか? お母さんには私の気持ちが判っていると思うので、お盆だからといって特別なことはしませんけれど、頑張ってくだしね」と。 そうしましたら、その夜、母の夢をみました。 母曰く「あなたの気持ちはよーく判るけれど、やっぱり何かしてほしかったわ・・」。 私は14日に家内にこの夢の話を告げ、盛大なお供え物をし、改めて気持ちの至らなかったことを詫びて、新盆を行いました。

ついでにもう一つ。 幽界や霊界でのご先祖さまの修行・学習の状況は上記の通りです。 私たちが悩んでいること、困っていることは充分承知です。 解決の方法も知っています。 でも、教えてあげることは出来ないのです。 何故ならば、あなたが、今、直面していることは、生まれる前にあなたの背後様と相談して、解決の方法も教わって来ているからなんです。

よく「死ぬ気になれば何でも出来る・・というのはいい加減な「死ぬ気」ではありません。頭の中が真っ白になって自分ではどうしようもなくなった時に「霊界で教わった解決方法を思い出させてくれる」のです。 たとえ、現在抱えている課題が途方に暮れるような困難であっても「必ず解決できる」ように事前に学んできているのです。 「その人に解決できないような課題は決して与えていない」とあなたの背後様がおっしゃってます。

さあ、あなたは、5回目の人間として生まれ変わることになりました。 仏教の通説のように、おおよそ、死後50日位で現世に別れを告げ幽界へと旅立って行きます。 幽界へ旅立つということは輪廻転生を悟り、次なる「魂の修行」に挑戦するか他の人の補助霊になるか等の新しい進路に進んで行くことを言います。

死後の世界には幽界・霊界・神界の三つの世界があるというのが通説ですがそれ以外にも、実はもう1つの「世界」が存在します。 それは「幽現界」と言って現世(地球上)と幽界の中間に位置する世界です。

三界(幽界・霊界・神界)の構造
人が死ぬ時に 
1.何かに執着を持っている 
2.恨みを持っている 
3.死後の世界を知っている 

4.死んだら皆な無くなって終わり 
5.死んだらお墓に入るの
・・等と考えていた人の内、幽現界に入るのは 3.の人だけです。 1.2.は現世に残ります。3は幽界にすんなりと入ることが出来ます。4.の霊は浮遊霊と呼ばれ「さまよい歩く」霊となり 5.の霊は場合によって地縛霊のように、その場所を通っただけで霊障を表すようなことにもなります。

尚、背後霊に成れるのは霊界まで到達し何百年のも修行が出来た霊とされております。

さて、幽・霊・神界のことを一まとめのにして「三界」と言いますし、三界にいる霊魂のことを総称として「三界の諸霊」という表現を用いたりします。 心霊の書物などを見ますと、この三界をバウムクーヘンや年輪のように「層別」に図示されていますが現実はそのようではありません。 説明する上で「説明し易いよう」に三層になっているだけです・・・このことは非常に重要だということが後で判ります。

これらの三層は「融合して一体」になっています。 それどころか、現世も三層=三界と同じところに所在しております。 今、あなたはコンピュータに向かって、この「怪しげ」な文章をご覧になっていらっしゃいますが、そこが幽界であり霊界・神界であり、そして現世なのです。 人工衛星でも遥かに及ばぬ「宇宙の彼方」のような印象を持ちかねませんが、実は、そうではないということです。

ただ、厳密には空気の濃度のように、地表から離れて行けば行くほど神界に近づいて行きますので、色彩も地表に近い程灰色をしておりますが、上層に至るほど黄金色になり、神界はまばゆい程の白光色をしているそうです。

これを事例で説明してみましょう。
今、平均的な知識のある小学生・大学生・社会人・韓国人である通訳の4人が韓国を訪問したとします。 初めての国ですから戸惑うばかりです。 小学生は最初は何処の国なのか判りませんでしたが商店らしいお店に「キムチ」が沢山並んでいるのを見かけました。 そして「韓国」かも知れないと思いました。 大学生は友人に韓国の留学生がおりましたから、ハングル文字もアンニョンハセヨという挨拶くらいは聞いて知っておりました。 社会人は韓国とも取引のある商社に勤務していて日常の会話は勿論、ハングル語は何不自由ないほど精通しておりました。 ・・という例では、小学生は現世・大学生は幽界・社会人は霊界・通訳は言語どころか韓国の全てを知っていると仮定して神界の人(霊)という感じです。

本当は、融合した同じ空間に属しているのに霊格(実際には、格などありませんが便宜上使用します)の差によって感じることも考えることも違うという意味です。 尚、地球上で生活するためには肉体が必要ですが、幽界では肉体を脱ぎ捨てて幽体となりそれぞれ霊体・神体となって三界での修行を行います。 よく九死に一生のような話の中で、奇跡的に生還した話などでは、本来は幽界までのことしか判らない霊格なのに、突然何かに引かれるように助かったなどという例では神界からの「ヒラメキ」が授けられたのかも知れません。

三界での修行
さて、三界での修行ですが、殆どが瞑想に費やされるそうです。 瞑想を重ねる程に至福の幸せを感ずるといわれております。 望みは全て叶えられます(三界の規範内で)から次第に慾を失って行きます。 お酒も飲み放題! タバコを吸ったって誰も文句は言いません。 「ああせ!こうせ!」なんて勿論ありません。時間の感覚がありませんから「あせり」もありません。 肉体がないから痛みも病気もありません。

時は悠々と流れ、霊妙に奏でられる音楽が静かに流れ、五月の太陽が燦燦と照り輝く草原で一人瞑想に更っている・・と、その時! チ〜ンと鐘が鳴って聞きなれた声・・・ 「ご先祖様、今日は朝から腰が痛くて動けません。なんとか治してくだしませんでしょうか・・あっ、そうそう、今日は孫の高校受験の日です。  どうか合格させてやってください!!」

・・・・ 仏前に向かって「頼みごと」をするのは、霊界のご先祖様にとっては修行の邪魔になるようです。 頼まなくても、成仏されているご先祖であれば、必ず、子孫が良くなるように見守っていてくださいますので、今生に生を受けたことに感謝し、逆に「ご先祖様も頑張ってね!」と励ましの言葉を掛けてあげてください。

死後の世界を正しく理解すれば今生よりも自由な、幸せな世界に戻ることになるのです。 そう思えば、目前で亡くなった人の「長い間の修行、ご苦労様!今度、天国でまた会おうね! 私のこと迎えに来てね!」 って声を掛けてあげられるのではないでしょうか? 「もっと、やりたいことがあったろうに・・」などと嘆くことはありません。今生でやらなければならない課題を終えたから霊界に戻れたのですから。

逆に、三界から現世に人に何かを伝えたい時には、最初は一生懸命声を掛けるのだそうです。 でも波長が異なるから通じません。 結果、ラップ現象や霊障となって表れることになります。 心霊写真など、いい例です。

課題はどうして決められる?
前世での課題を終え、初七日で今生に未練を残さないように、思い残すことが無いように全てのことが叶えられ、生前のヒヤリングを受けて「もう一度人として生まれ変わることと、次世での課題を選択し幽界に入る・・までが今までの粗筋でした。 そして、人間の感覚で約50年間を幽界で100年間を霊界で過ごします(平均的な霊魂の場合)。

これらの期間を通じ、次に生まれるであろう新しい人生の「シナリオ」が先ず用意されます。 次いで、来るべき人生の課題が順に書き込まれて行きます。 例えば、過去世で非常に幸せな結婚生活を送っており「夫婦なのに何故いがみ合うのかしら」など、実際に体験して見なければ、理解出来ないことを体験するのに30歳頃に「口もきかないような夫婦喧嘩をする」と書き込まれます。 或いは、家族が死ぬってどんな感じ何だろう・・・という疑問に応えるために42歳の時に家族の内、お爺さんが亡くなる・・といった具合です。

ただ、どのような課題であっても、その課題を克服するために、必ず「考え方・解き方」をその時に教わっているといわれています。 何時か、ご相談に来られた方にこの説明をしておりましたら、その方から次のような再質問がございました「考え方や解き方を教わってくるのなら、何も生まれ変わってまで体験する必要は無いのでは?・・」と。 そこで、改めて、その内容を背後霊様にお聞きしましたところ、次のように解説を頂きました。

例えば次のような課題が20歳の時に与えられる。 「ここに2本の羊羹がある。1本を半分に切り、もう一本を4等分する。この半分に切った羊羹と4等分された羊羹をたす(+)とどれ程の量の羊羹になるか」。 1/2と1/4の羊羹を+すると・・・・と頭の中で描き、頭の中で羊羹を並べ「お〜、3/4だ!」と直ぐに解答が出せます。 そこで背後霊様が念を押します「わかったかい? +しなければならない羊羹を並べて長さを計ればいいんだよ」と。 なーんあだそんな簡単なことか! 20歳位の時に、こんな課題を与えられたら包丁で切って、並べて計ればいいんだ!。

そして20歳の頃、羊羹の課題が出されます。 そして、包丁と物差しを持ってくると答えられることを、潜在意識が知っていますから、直ぐにそれらを用意します。 ところが、「15,235に切った羊羹と8,035に切った羊羹を+すると幾つになるか?」と・・ちょっと厄介な課題が出されます。
おおお・・1本の羊羹を15、235等分するだって?? →この、羊羹を切る過程が「困難に直面」することになります。 ここで「通分」みたいなことを思い出すか考え付けば容易に課題を克服できるのですがね・・・

108つの慾のうち、既に克服していまった課題は潜在意識の中に刻み込まれた絶対に忘れることは無いそうです。 仮に慾の種類が108つあったとしますと7回の生まれ変わりでは平均15の慾を学ばなければならないことになります。

子供が親を選ぶ
さあー、今あなたは幾つかの課題を携えて 「その課題の全てを顕現してくれる環境・・親を背後霊様と一緒になって霊界から探す過程」に入ります。 もし、あなたにお子さんがいらっしゃったとしたら、あなたは自分のお子さんに「選ばれた」のです。 もしあなたが親に何らかの反抗心を持っていたとしたら、それはあなたに対する霊界からの課題であり啓示だと思って間違いありません(親が勉強をさせられる場合も勿論あります)。

ただ例外があります。 生まれてきたお子さんに俗に「障害」というハンデキャップ(これも正確には個性であって魂のレベルでは皆同じです)を背負っている場合です。 この場合にはその「親」に対して及び「社会全般に対して」何らかの霊界の意思が働いていると考えられます。 何よりも、そういったことに耐えられる(解かり易く表現しましたが、正確には克服できる)特別な親にしか、そういうお子さんは授かりません。

即ち、そのお子さんを通じて、他の人の何倍もの学びをされ、その学びを通じて、更に何倍もの人達が救われている事実を知ることが出来ます。

課題についての補足
既に重複して何度も説明をさせて頂きましたので付言に留めさせて頂きます。
先ず第一に「全ての人間に平等に与えられる」ということです。 よく「神様、どうして私だけがこんなに不幸なのでしょう!・・」などと嘆く言葉がありますが、それは偶々、今、その課題に直面しているだけのことであって他の人は既に終えている課題かも知れませんし、これから直面しなければならない課題なのかも知れません。 ですから因縁がどうこうではなくて、巡り合わせと考えられます。

第二には慾を「忘れろ」とか「諦めろ」とか「我慢しなさい」と言っているのではありません。 ではなくて、乗り越えなさいと言われている訳です。 7回目を終える頃には、きっと何に対しても執着を持たなくても済む・・悩みの少ない人生になっているのでしょうね。

第三には、再三記述いたしましたが、その人にとって「クリヤー出来ない課題」は与えられていない・・ということです。

自殺するとどうなるか
余りの辛さに自殺を試みたとします。 自らの命を絶とうと試みる人は「実行」出来た人の100倍にもなるということです。 つまり、約1%しか成功していないということです。 1%という数値が、高いのか低いのかは解かりませんが、更にこの1%の内半数は死霊の憑依現象のようです。

1.憑依現象でなくて死んだ人 →例えば、濡れ衣を着せられて「潔白を証明する」などと考えて自殺した人がいたとします。 「死ねば濡れ衣のことも無くなって楽になる」「皆な無くなって無になる」・・と思って死を選んだのですが、例の引き算 人間ー肉体=霊魂+精神 ですので魂と意思は残っていますからありもしない罪まで「おっかぶされて」益々不利な状況に立たされてしまう。 しかも、一生懸命弁解しようとしても言葉が通じないから弁解すら出来なくなってします・・。 死んで幽界にまで辿り着ければ「真犯人」も解かるのでしょうが、益々不利になる自分の立場から真犯人に怨念を持つようになる・・ そうなってくると、疑いを晴らすどころか怨念という執着を持つことによって幽界へすら行く道を絶たれてします。

結局、怨念を持った因縁霊となってさまよい歩くか真犯人にストーカーとなって付け狙うかのような生活となります。 一方、霊界からの評価は「課題を放棄した」という意味で「動機」を査問されるのは必至です。 今までのお話のように「何故自らの命を絶ったのか」が執拗に問われます。 これは、この人だけの問題ではなくて類魂の全ての人に「やり直し」が必要となるからです。 いずれにしても、もう一度、人間に生まれ変わることを約束させられ、同じ嫌疑を掛けられような人生を迎えることになるそうです。

2.憑依によって「自殺」してしまった場合 は、結果として自分の意識は1.と同様ですから、怨念を持っていなければ浮遊霊となり、救いを求めて近親者に助けを求めることになります。 霊界の配慮としては1.程重くはありませんが「自殺しようとした」という部分で動機を問われるとともに「やり直し」の人生を迎えることとなります。

 

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