主観と客観の問題


3:主観と客観のとらえ方
 哲学者デカルトの「われ思う、故にわれあり」という言葉はあまりにも有名です。なぜ、哲学の名言が出てきたのか違和感を感じる方も少なくないと思います。しかし、デカルトにしろパスカルにしろ、あるいはニュートンにしても哲学的考察から科学的方法論を生み出した先哲といえます。つまり、科学と哲学とは本来密接な関係を持っているはずのものです。これは、自然科学が先端研究になればなるほど倫理学や哲学に踏み込んだ問題を避けて通れないことからも実感できるのではないでしょうか。
 話しは戻りますが、先ほどのデカルトの言葉は質的研究の背景にある重要な概念になっています。すなわち、デカルトの先ほどの言葉は、質的研究の「主観と客観」に関する主張を支えているのです。「われ思う、故にわれあり」とは次のような意味です。

  たとえば、目の前にある石ころが本当にそこに存在していることを誰が証明できる
  だろうか。この世の中のすべてを疑ってみると、結局のところ、“存在を疑っている
  自分”がいることだけは否定できないことに気付くだろう。


つまり、あらゆる“存在”を疑えても、意識している自分自身の“存在”を否定することはできない、ということです。いいかえれば、客観的存在は疑えても、主観の存在は否定できない、ということです。デカルトはこうした“主観の存在”を「否定できないもの」として位置付けたのでした。
 一方、フッサールは「現象学」という哲学の一分野を確立し、世の中のあらゆる現象を主観でとらえることの意義を主張しました。これが質的研究の「主観と客観」論を支えています。不思議なことですが、デカルトもフッサールもいずれも数学の巧緻性に惹かれた数学者でした。一見すると、主観の余地のない(かのような)数学の研究者が、客観とは縁遠い(かのような)人間の認識の問題にのめり込んだというのは何とも皮肉なことです。それはともかく、フッサールはデカルトの意識の問題を発展させ、「自分の外にある客観が存在することは誰にも証明出来ない。ただ、客観や真理と信じて疑わない主観が存在することは否定できず、その信じて疑わない確信の条件をたどることが重要だ」と主張したのです。つまり、現象を説明する場合、完全な客観、あるいは真理というものがあろうがなかろうが、“なぜ主観がそう確信しているかを記述することに意味があり、重要な作業なのだ”といったのです。
 ここが重要です。つまり、人の主観を利用する質的研究はその主観性のために批判されてきました。しかし、そもそも“客観的であること”を突き詰めてみれば、“主観的でない客観”などそうお目にかかれるものではないことに気付きます。その意味で「客観」との対比として「主観」をとらえるのではなく、「主観」の延長線上に「客観」が見え隠れしていると説明した点が重要なのです。質的研究は“主観的”です。しかし、それは「非科学的」であることではありません。むしろ、主観と客観の関係から理論付けた、きわめて科学的なものであるといえます。そして“客観性”を否定しているわけではなく、客観性は存在証明できないものとしてとらえ、主観を通して“非実体”としての客観に近づけると主張しているのだということも忘れてはなりません。

4:恣意的?作為的?それとも主観的?
 「質的研究は客観を否定しているのではなく、主観の重要性を主張している」と述べました。しかし、“主観の重要性を主張する”という言葉の中には、“主観を利用する”という積極的な意味が内包されています。実は、“主観を利用する”という作業は案外難しいことなのです。なぜなら、研究対象の中から“何らかの理論(意味)”を見出すためには、調査者のアンテナ(これを「理論的感受性」といいます)の感度の良さが必要になってくるからです。感度が悪ければ「宝の持ち腐れ」にもなりかねず、また、感受性によってはデータの解釈も随分と変わってきてしまいます。それに、研究を進めていくうちに理論が構築されるためには重要な情報をもたらす標本も必要です。せっかくインタビューしたのに、集めたい情報を持っていない参加者を選んでも意味がないわけです。質的研究はお金がかかりますから、できるだけ効率的な調査をしなければなりません。したがって、情報源として価値のある(これもある意味「理論的感受性」かもしれません)標本を集めるため、質的研究では“理論的サンプリング”という標本抽出が行われます。
 もっとも調査の初期は無作為でも構わないのですが、調査を進めながら徐々に有用な情報源に的を絞っていく作業、これが理論的サンプリングです。ですから、理論的サンプリングでは調査者の“勘ばたらき(理論的感受性)の良さ”が重要になります。しかし、この過程は、しばしば「恣意的だ」とか、「作為的だ」「主観的だ」と批判されます。「主観的」なのは承知の上なのですが、「恣意」とは“思いつき”だそうですし、「作為」とは“偽ってこしらえる事”なのだそうで、質的研究に好意的な筆者として受け入れるには偲びない。そこで、理論的サンプリングはよく「purposive sampling」として説明されることから、「purposive=合目的的」という言葉を提案したいと思います。「合目的的」とは“ある目的にかなっているさま”ということらしいので、理論的サンプリングのニュアンスを伝えるのにおさまりがいいようですが、いかがでしょう。
 さて、このように理論的サンプリングは合目的的に行われますが、その重要性には量的研究のサンプリングとは違ってもっと奥深いものがあります。というのは、量的研究では調査が開始される時点でサンプリングの内容とサンプル数が決められていて、すべてのサンプルが集められてはじめて分析がおこなわれます。それに対して、質的研究ではサンプルが集められるたびに分析がおこなわれ、このサンプリングと分析は“なんらかの理論が見えてくるまで(この状態を「理論的飽和状態」といいます)”続けられます。ですから、調査が始まってしまえば脇役のようになってしまう量的調査のサンプリングとは異なり、質的研究では調査を進めていく上でもその方向性を左右する重要な役割を担っているのです。したがって、一般化を前提とした調査であれば余計のこと、“適切な理論的感受性”に基づいた理論的サンプリングがおこなわれなければなりません。理論的感受性が“適切”でなければ、そこから得られた結論も作為的になりかねないという危うさは質的研究はもっています。




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