私の視点
若光たちは、養蚕はじめ高い農耕技術をもってこの地の開拓に努めたといわれています。
私は高麗一族が修験道をおこなっていたとの記録があることから鉱山技術にも長けていたと考えていますが、このことは別項の、高麗山聖天院として項を起こして説明したいと思っています。
今のシーズン、近くの巾着田には彼岸花が群生していますが、私の隣町大磯は若光が上陸した地点ですが、駅の裏の高麗山にも彼岸花の群生地が有ります。なにか関係が有るか知れませんが未調査です。
埼玉県の高麗神社は高麗王(コマノコキシ)若光を祀っています。
若光は高句麗からの渡来人で、日本書紀に高句麗からの使節の中にその名が見えますので、天智天皇の時代、666年に日本に来たと考えられます。
続日本紀によれば、大宝3年 王(コキシ)の姓をもらいます。
716年に大和朝廷は駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7ヶ国から高句麗人1799人を武蔵の国に移住させ、高麗郡をつくり、若光を郡の長官に任命したと言われています。
高句麗の王族 高麗王若光を祀る : 埼玉県の高麗神社
高句麗は現在の朝鮮半島の北方に紀元前1世紀頃に建国されたと言われている騎馬民族の国家です。
7世紀になると朝鮮半島は百済、新羅の三つ巴の戦いになり、そこに日本や中国が参入し、戦乱の時代を迎えました。日本と百済の連合軍が白村江で敗れたのもこのころの話です。
高句麗は668年に新羅と中国の連合軍に攻められ滅亡します。想像するに666年に日本に来た若光は高句麗への帰国のチャンスが無いまま日本に住み付いたとおもわれます。
高句麗の滅亡にともないその前後に多くの高句麗人が日本に渡来したことも想像に硬くありません。