三景艦始末記
鉄の怪物来航す
「スプートニク・ショック」という言葉がある。スプートニクとはソ連の打ち上げた世界最初の人工衛星のこと。ソ連に人工衛星の打ち上げで先を越されたアメリカの受けたショックは絶大なものがあり、追いつき追い越せとアメリカは宇宙開発に狂奔して月まで行ってしまった。
こんなふうに技術的劣勢を見せつけられると、国家というものは挽回すべく、およそ正気とは思えぬ反応を示すものである。
かつて近代日本でこれに類する衝撃を与えたものが二つある。ひとつはペリーの黒船来航であり、もうひとつが明治24年(1891年)に我が国に来航した、中国の二隻の軍艦「定遠」「鎮遠」であった。

鎮遠
定遠級の要目
| 排水量 | 7,310t |
| 全長 | 91m |
| 全幅 | 18.3m |
| 速力 | 14.5ノット |
| 武装 | 30cm砲4、15cm砲4、7.5cm砲2 |
| 装甲 | 装甲帯356mm |
ドイツのフルカン造船所で建造され清国北洋艦隊に配属された定遠級は、東洋初の本格的な装甲戦闘艦(厳密には中央砲塔艦と呼ばれる近代戦艦の前駆であるが)であった。船体中央の二つの砲塔には口径30センチの巨砲を合計4門搭載し、砲塔や船体側面は30センチのぶあつい装甲に覆われている。
日本は明治維新から三十年足らず、その海軍力は軍艦というより大砲を積んだ蒸気船と言った方が早い。最大の「扶桑」も排水量三千トンの老朽艦でしかない。よちよち歩きの日本海軍にとって、二隻の装甲艦は怪物としか言いようのない代物であった。
時まさに朝鮮半島をめぐり日清の関係は暗雲がたちこめつつあった。二隻の軍艦の名前を合わせてみれば「遠きにあるを鎮定する」である。大清帝国から見て遠い国、しかも海軍力で鎮圧する国がどこか…言うまでもないだろう。
二隻の巨艦の来航は、日本海軍だけでなく国全体にショックを与えたようである。
だが当時の日本には、こんな巨艦に対抗できる軍艦を建造する技術も、購入する金も無かった。
限られた金と技術で、いったいどうやってドイツ製の巨艦に対抗したらいいのであろうか? それはやはり科学の力である!
二隻で一組、合体戦艦
そこでお呼びがかかったのがフランスだった。
いったいなんでフランスと思われるかもしれないが、十九世紀までフランスは世界の科学技術先進国であった。最初に自動車や気球を作ったのはフランス人だし、メートル法もフランスだし、『海底二万マイル』のジュール・ベルヌもフランス人なのだ。
当然ながら軍事技術でもフランスは世界の最先端であった。もっともそれが役に立ったかとというと別問題で、フランスの兵器は見るからに変テコだったり、発想が妙だったり、まともでも運用がダメダメだったり、まさに奇想技術の華なのである。まともにお勧めできるのはミラージュ戦闘機ぐらいのものだ。
そんなことをまだ知らない日本海軍が、鎮遠級対策に引っ張り出したのがおフランスの造船技師エミール・ベルタン。軍艦設計者として定評のあったベルタンは、日本海軍のために特別な軍艦を提案し設計した。定遠と戦い勝利することだけを目指した決戦兵器である。それが「松島」「橋立」「厳島」の三隻の海防艦、通称「三景艦」であった。

松島
松島級(三景艦)の要目
| 排水量 | 4.278t |
| 全長 | 89.9m |
| 全幅 | 15.4m |
| 速力 | 16ノット |
| 武装 | 32cm砲1、12cm砲12 |
| 装甲 | 甲板40mm |
麗しき日本三景の名がつけられた三隻の軍艦は、しかしながら見事にその名前を裏切る異形な艦であった。排水量は僅かに4千トンちょっと、定遠級の半分の大きさしかない。そのわりには幅と高さがある船体。フランスらしい余裕のある設計というものだが、グラマラスと言えば言えるだろう。
この小さな船体に、なんと定遠級を上回る武装を載せた。じつに口径32.5cmの巨砲を1門、どかんと甲板上にすえつけてあるのだ。まるで宇宙戦艦ヤマトの波動砲みたいである。
まるで芸術の国フランスのデザインセンスとはとても思えないかもしれないが、この時代のフランス軍艦はどいつもこいつもこんなプロポーションだったのである…。

厳島
同型とは言いながら「松島」と残りの「橋立」「厳島」は、主砲のすえつけ箇所に違いがあった。例の巨砲が、松島だけ後ろについているのだ。なぜかと言えば、「三景艦」は最初は「四景艦」の計画だったらしい。つまり前方に主砲を積んだ艦と後方に積んだ艦がペアを組むわけだ。確かに二隻合わせれば8千5百トン、32.5cm砲2門で鎮遠級に匹敵するのだが、まるで合体超合金みたいな発想である。だったら最初から一隻にすればいいんじゃないか?
なんで四隻目が建造されなかったかというと、やっぱりこの艦の設計思想が変なことに日本海軍が気づいたためである。
なにしろ最強の武器である32.5cm砲がデカすぎた(というか船体が小さすぎた)。横に向けると船体が傾いてしまうし、発射すると反動で艦首が回ってしまい。そのたびにいちいち舵を切り直さないと転覆しかねないのだ。
船体が小さいので弾丸の搭載数も少ないし、弾込めにも手間がかかる。巨砲が重量を食ったおかげで残りの武装は貧弱だし、装甲は紙みたいにペラペラなのだ。
そんなこんなで日本海軍は、国がのるかそるかという時に、国家財政が火の車だというのに、歴史に残る駄作を作ってしまったのである。よりによって三隻も!

橋立
ちなみに帝国海軍の拡張計画は、発足したばかりの帝国議会の一大政治争点だった。有権者は全人口の1%に過ぎなかったが、選ばれた議員は海軍の拡張に軒並み反対。第二回選挙では政府の選挙運動への干渉でなんと百余名の死傷者を出したが、それでも反対派が多数の議席を制したというから、議会政治が未熟なのかそれでも進歩したというのか評価に困る。そんな折に出来ちゃったのが三景艦なのだ。もっと強力でまともな戦艦をはやく作らないと国が潰れるが、このままいっても予算案は議会に潰される。
やむなく帝国政府は、全官僚の給与を一割削って新造軍艦の建造費を捻出することで議会の反対を切り抜けた。いきなり給料一割天引きとは、これまた官公労の強い現代では考えられない暴挙だが、国際連合なぞないこの時代、国家の独立を維持するにはなりふり構っていられなかったのである。
煙も見えず雲もなく
ともかく作ってしまったものはしょうがない。明治27年(1895年)に日清戦争が勃発すると、日本海軍は三景艦を主力として清国海軍との戦いに臨んだ。連合艦隊の旗艦は松島である。
8月17日、両国海軍はついに衝突。これが「黄海海戦」である。
予想通り定遠・鎮遠の両艦は、日本の砲弾を弾きかえして猛威を発揮した。30センチの巨弾を食らった松島は大穴が空いて一挙98人が戦死する惨劇となった。この時、瀕死の水兵・三浦虎二郎が「まだ定遠は沈みませんか」と上官に尋ねたエピソードから、「煙も見えず雲もなく」の出だしで有名な軍歌『勇敢なる水兵』が作られることになる。だが彼の願いも空しく、定遠と鎮遠は沈まなかった。数百発の命中弾を浴びながらも、その装甲はびくともしなかったのだ。
そして当然と言うべきか、三景艦の巨砲は全く役に立たなかった。のべ4時間半の海戦で発射された回数は松島4・橋立4・厳島5の合計たった13発というから、一時間に一発発射したかどうかだから当たるはずがない。見事なまでの駄目っぷりである。
それでも日本が勝利したのは、やはり当然というべきかイギリス製の新式巡洋艦と速射砲の活躍のおかげであった。清国艦より高速で走り、発射回数の多い中口径砲が、巨艦以外の清国軍艦を叩きのめしたのである。ジャブをたえまなく浴びせて押し切ったわけだ。他の艦が沈んでしまえば、いかに巨艦が残っていても北洋艦隊は手足をもがれた獣のようなもの。北洋艦隊は戦意を失って威海衛軍港に退却した。日本海軍に沈没した艦がなかったのは僥倖と言ってよいだろう。
結局、威海衛の軍港を夜襲した水雷艇隊の魚雷によって鎮遠は討ち取られた。さしもの重装甲艦も、艦底部の防御という弱点を最新兵器の魚雷に衝かれたのである。北洋艦隊司令官・丁提督は日本海軍に降服を申し出ると毒杯を仰いで自決、ここに日本最大の脅威は滅び去った。
生き残った定遠は日本海軍に捕獲され、しばらく日本の軍艦として使用された。十年後の日露戦争には三景艦と共に参戦しているが、技術の進歩はこれらの軍艦をあっという間に三流の老朽艦に追いやったため、いずれもたいした働きはしていない。当然ながらこれ以後、フランス式軍艦が導入されることはなかった。なお松島は明治41年(1908年)に事故で沈没したが、残りの艦は全て天寿を全うし廃艦となっている。
戻る