海軍記念日

 

 皆さんは五月二十七日が何の日かご存知だろうか。
 戦前この日は「海軍記念日」として祝日とされていた。かの「日本海海戦」が戦われた日なのである。
 そこで今回、おなじみ「第三惑星委員会」の面々で横須賀にある記念館三笠を見学してきた。
 あいにくの雨模様だったが、当日は海戦記念式典ということで海上自衛隊や各国海軍のゲストが来艦していた。

三笠の要目(建造時)
排水量15,140t
全長132m
全幅23m
速力18kt
武装30cm砲4、15cm砲14、8cm砲20他

 三笠は1900年にイギリスのヴィッカース造船所で進水した。日露戦争では連合艦隊の旗艦として東郷平八郎司令長官が座乗し、日本海海戦の立役者となった戦艦である。
 19世紀末から20世紀初頭の軍艦が現存するのは極めて希で、三笠の他にはサンクト・ペテルブルグに革命記念艦として保存されている装甲巡洋艦アウローラぐらいである。奇しくも同じ海戦に参加した敵味方の軍艦が保存されている訳だが、世界でもおそらく類例がないだろう。

 知らない人のために説明しておくと、日本海海戦は明治三十八年(西暦1905年)五月に十七日、連合艦隊がバルト海から遠征してきたロシア第二太平洋艦隊(通称バルチック艦隊)を迎撃、これを粉砕した戦いである。単に日露戦争の終結をもたらしただけでなく、日本近代史の最もドラマチックな事件であった。
 今日でこそバルチック艦隊の技術的拙劣さや長期の航海による疲弊から、日本の勝利は当然であったと考えられている。しかし当時は戦ってみなければ勝敗はわからなかった。
 想像してみてほしい。38隻もの大艦隊が黒煙をたなびかせ、はるばる世界の裏側から刻一刻と日本めがけて押し寄せてくる光景を。それは黒船来航の折に日本人を戦慄させ、ひいては明治維新の原動力となった悪夢そのものであった。つまり幕末明治の歴史とは、明治三十八年五月二十七日の「此一戦」のための準備だったと言って良い。まさしく日本海海戦は明治国家の一大クライマックスだった。

 この戦いは世界史上に残る大勝利として知られている。38隻のバルチック艦隊のうち撃沈21隻、捕獲7隻、武装解除6隻。ロジェストヴェンスキー中将以下の司令部は捕虜となり、逃れたのは小型艦4隻に過ぎなかった。対する日本海軍の損失は小っぽけな水雷艇3隻。まさにワンサイドゲームである。
 この圧倒的な勝利は、日本を欧米と並ぶ列強の地位(それは今日もサミット参加国として引き継がれている)に引き上げた。また不凍港を獲得して海陸にまたがる帝国を築き上げるという、ピョートル大帝以来のロシアの野心は、この戦いで完全に潰えさった。それは帝国主義の最高潮に起き、歴史の潮流を東から押し返す象徴的な戦いだった。
 もちろん欧米列強の圧迫下にある中東やアジアの民族が、この戦いに溜飲を下げ、独立への勇気をかきたてられたことは事実だ。もっとも日本はこれ以後、欧米と共にアジアを植民地化する道を選び、やがて果てしの無い戦争に突入する。そして日本海軍も、あまりにも圧倒的な艦隊決戦の勝利に幻惑され、第二次大戦で大きな過ちを犯すことになるのだが。
 ともあれ三笠は、こうして今日の日本と国際社会を形作った歴史的事件の記念碑なのである。この艦の甲板の上で日本人は世界の歴史を変えたのだ。

 三笠は埠頭に埋め立てられた形で保存されている。敗戦後の荒廃で上構物の大半を撤去され、艦体以外のほとんどは戦後の復元である。そのため「記念館じゃなくて剥製」と悪口を言われることもあるが、そこはそれ現存するだけでも素晴らしいことである。
 太平洋戦争の末期、日本に飛来したアメリカ軍機が現役の軍艦と誤認して攻撃したが、ちっとも沈まないので「謎の不沈艦」と首をひねったそうである。そりゃそうだ。魚雷はみんな岸壁にぶちあたるだけだもの。
後部上甲板から入口を見る。黄海海戦の被弾箇所が赤、日本海海戦のが緑色で示されているが、熾烈な戦いをしのばせる。
日本軍の使用した機雷。地味ではあるが日露戦争でもっとも活躍した兵器の一つである。ロシアの名将マカロフはこの機雷によって戦艦ペトロパブロフスクもろとも爆沈し、日本も二隻の戦艦を失った。
15cm砲の砲郭(ケースメート)。これだけ大きな砲を人力で操作するのは大変だったろう(もっとも現存の砲はみなレプリカなのだが)。左はおなじみkodo氏。

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