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人間は死からよみがえって、永遠の生命へ入って行く(天界と地獄からの抜粋)

途中からの抜粋なので、読者の方々にとって、なかには唐突な言葉があるかと思いますが、おおよそを想像して頂ければと思います。)

 身体はその霊が霊界から得ているその霊の幾多の思考と情愛とに相応して、自然界でその機能を果たすことがもはや不可能となったとき、人間は死ぬのです。

これは肺臓の呼吸と心臓の鼓動とが停止するとき起こりますが、しかしそれでも、その人間は死ぬのではなく、たんに彼が世で用いるために持っていた身体の部分と離れるのみであって、その人間自身は生きているのです。

人間自身は生きているというのは、人間は身体から人間ではなくて、霊から人間であるからです。なぜなら霊が人間の中に考え、その考え《思考)が情愛と共になって人間を作っているからです。このことから人間は死ぬと、たんに一つの世界から他の世界へ移っていくにすぎないことが明らかです。従って死は聖言における内意では復活と生命の連続とを意味しています。

 

呼吸と心臓の鼓動とに霊は最も深く連なっており、つまりその霊の思考は呼吸に、その霊の情愛は心臓に連なっています、それで身体の内でこの二つの運動が止むとき、直ぐに分離がおこります。

肺臓の呼吸と心臓の鼓動であるこの二つの運動は、身体と霊とを結ぶきずなそのものであって、それが破られると、霊は霊そのものにゆだねられ,身体は、そのとき霊の生命を持たないため、冷たくなって,朽ち始めます。人間の霊が呼吸と心臓とに最も深く連なっているのは、生命の運動はすべて、全般的にも、また各部分においても、この呼吸と鼓動とに依存しているからです

人間の霊は、その分離した後は、身体の中にしばらくの間とどまっていますが、それは心臓の活動が全く停止するまでよりは長くはなく、その停止は人間が死ぬ病気の条件に応じて変化しています。なぜなら人によって心臓の運動は長く続くこともあるし、また長くないこともあるからです。この運動が止むとすぐにその人間は復活しますが、しかしこれは主のみによって行われます.

復活することにより,人間の霊を身体から引き出して、それを霊界に入れることが意味されていて、そのことは普通 กษよみがえり゛ と言われています。心臓の運動が停止しない中は人間の霊は身体から分離しない理由は、心臓は人間の生命そのものである愛の情愛に相応しておりーなぜなら愛から各人は生命の熱を持っているからです。この連結が継続しているかぎり、相応があり、そのことによって霊の生命が身体の中にあるということです。

 

人間はどのようにして復活するかは私に話されたのみでなく,生きた経験から示されもしたのです.私はそれがどのようなものであるかを知るために、実際の経験が私に与えられました。

私は身体の感覚の方面では無感覚の状態へ入れられ、かくて死んで行く者の状態へほとんど入れられましたが、思考とともに内的な生命は完全に存続していたため、そのとき起こった事柄とまた死からよみがえる者に起こる事柄とを認め、記憶にとどめたのです。

私は、身体の呼吸がほとんど取り去られ、霊の内的な呼吸が存続していて、それに身体のかすかな音のしない呼吸が連なっているのを認めました。そのときまづ心臓の脈拍が天的王国と連なったのです。(天界は三つのレベルに分かれている)なぜならその王国は人間の心臓に相応しているからです。

そこから来た天使たちも見え、ある者は遠くにいたが、二人が頭の近くに座っていた。このようにして私自身の知覚はすべて取り去られましたが、依然思考と認識とは残っていました。私はこのような状態で数時間いました。すると私のまわりにいた霊たちは、私が死んだものと思って退きました。香をたきこめた身体から発散するようないい香りもまたにおっていました、なぜなら天的な天使たちが居あわせると、死体から発散するものは芳香として匂い、霊たちはこれをかぐと近づくことはできないからです。このようにしてまた悪霊たちは人間がはじめて永遠の生命の中へ入れられるとき、その人間の霊から遠ざけられているのです。

頭の近くに座っていた天使は沈黙して、ただその思いを私の思いに伝えるのみでありましたが、その思いが受け取られると、天使たちは霊が身体からひきだされることができるような状態にいることを知るのです. 彼らの思いは私の顔をのぞきこむことにより伝えられました、なぜなら思考は天界においてそのようにして伝えられるからです。

私がそのとき起こることを知り,記憶しておくため、思考と認識とは私に残っていたため、私は天使たちが私の思いがいかようなものであるかを、それは死んで行く者たちの思いに似たものであるか、否かをーその思いとは普通永遠の生命についていかように考えているかということすが、-まず知ろうと願っており、また彼らは私の心をその思いの中にとめておこうと願っていることを認めたのです。

 

人間の霊は身体が息絶えるときのその最後の思いの中にとめおかれて,その後それが世にいたときに抱いたその全般的な、または支配的な情愛から発してくるいろいろな思いに帰って行くと、後に私に話されたのです.特に私の心の、ひいては私の霊の内部が,身体から、いわば引き出されるのを私は認めもし,感じることもできたのですが、これは主からなされるのであって、このようにして復活するのであると言われたのです.

的な天使たちは復活する者とともになると、各々の者を愛しているため、その者から離れないが、しかしその霊が天的天使たちと長く交わっていることができないようなものであると、彼は彼らから離れようと欲します、そうしたことが起こると、主の霊的王国からの天使が来て,その者たちにより光を用いることができるようになります、なぜならそれ以前は彼は何物も見ず、ただ考えるにすぎなかったからです。

これがどのようにしてなされるかもまた示されたのです。天使たちは、眼が開かれて,見ることができるように、左の目の膜を鼻梁の方へいわば巻いてとるように見えた.その霊には実際そのように見えるが、しかしそれは外観であります。その膜が巻かれてとりさられたように見えると、光が多少見えるが、しかしそれは人間がはじめて目をさまし、まぶたごしに光を見るときのように、かすんで見えるのであります.

このかすんだ光は私には空の色のように見えましたが、しかしそれは多少変化して見られると後で私は言われました。それから何かが顔からやわらかに巻き取られるように感じられ、それがなされると、霊的な考えが生まれてくるのです.顔から何かを巻き取ることも外観であります。なぜならそのことにより霊は自然的な思いから霊的な思いへ移ることが表象されるからであります。

 

天使たちは、そのよみがえりつつある者から愛に関係した考え以外の考えが起こらないように極度に注意して、それからあなたは霊であると彼に告げます。霊的な天使たちは光が用いられてからはその新しい霊が、その状態において望むことのできる一切の務めをその霊のために行ってやり,他生の事柄についてその霊に教えますが、しかしただその霊が把握することのできることしか教えません。

しかしもしその霊がすすんで教えを受けようとしないなら、その霊は天使たちの交わりから離れようとします。天使たちは実際彼のもとを離れるのではなく、その霊が自ら離れるのです。なぜなら天使たち各々の者を愛して,親切に務めを果たし,教え,天界に入れることをなにものにもまさって願い、そのことが彼らには最高の歓びであるからです。

 

そのようにしてその霊が自分自身を引き離すと、彼は善良な霊たちに迎えられ、またその交わりに加わると、あらゆる親切な務めが彼のためになされます。しかしもし世にいたときの彼の生活が善良な者と交わることが出来ないていのものであったなら、彼はその善良な霊からも離れようと願い、こうしたことが、世にいたときの彼の生命に全く一致している者と交わるようになるまでも続き、その一致した者とともになると、はじめて彼は自分自身の生命を見出すのです,そのとき、驚くべきことですが、世で送った生活に似た生活を送るのであります。

しかし死後の人間の生命のこうした初まりはただ、2,3日しか続きません。その後彼はいかようにして一つの状態から他の状態へと導かれ、ついには天界か、地獄か、そのどれかへ導かれるかは、以下に述べます、それもまた私は多くの経験から知ることができたのです。

私はある人達とその死後三日目に―その時、前に記したようなことがおこったのであるが、(449)ー語り,特にこの世で私が知っていた三人の人と話しをして、その人達に、今、あなた達を埋葬するため葬いの手はずがとられていると言った。私はあなた達を埋葬するために、といったのであるが、それを聞くと彼らは非常に驚いて、自分達は生きており、世で自分たちに役立ったものが埋葬されているのであると言った。その後で彼らは,自分達が身体の内で生きていたとき、死後のこうした生命を信じなかったことを非常に不思議がり、とくに教会内でほとんどすべての人がそれを信じていないことを不思議がったのである。

霊魂は身体の生命の後にも何らかの生命を持っていることを世で信じなかった人達は、死後も自分達が生きていることを知ると,非常に恥じるのである。しかしその不信仰を確認した人達はその人達に似た人達と交わって,信仰を持っていた人達から分離してしまう.その達の大半は奈落の何らかの社会に結ばれているが、それは彼らはまた神的な物【神】を否定して,教会の諸真理を嘲笑したためである。なぜなら何人でも己が霊魂の永遠の生命を否認するに比例して,天界と教会との事柄もまた否認するからである。

 

この著作の中には、人間が死後霊となってどのような生活をするのか、霊とはなにか、神は存在するのか、宗教とよばれるものは一体なにか、天界とは、地獄とは、人間の生の目的、この世とあの世との関係,愛とはなにか、真理とはなにか、などなど、、、が書かれています。読者もきっとヘレンケラーがサリバン先生をまちこがれたときと同じように、この著作の持つすばらしさを喜びを持って待つことと思います。

次のページは興味を持った皆さんのためのインフォメーションのページです。アメリカやカナダでの著作は英書になります。日本語への翻訳書については自分が知る限りでは、禅の鈴木大拙氏、柳瀬芳意氏,長島達也氏などの方々が訳されていますが、柳瀬氏はそのほとんどを翻訳していると思います。