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「宇宙創造概観」
古事記に依る 「宇 宙 創 造 概 観 」浅野正恭著  大正11年4月27日発行

    はしがき
 皇典古事記は、宇宙の始源、天地の大法則を、神話的形式を以て、人間に垂示された神啓である。故に、これを真解することを得れば、世事人事百般に対し、惑うことなく、迷うことなき指針と為るのであるが、其の神話的形式中より、天則、神意、哲理というようなものを求めることは決して、容易の業ではない。のみならず、其の真解し得たとするところのものも、亦各人の分相応に過ぎないものとなるが故に、必ずしも、一説を以て、他を律するという訳には行かない。そうであるなら、古来幾多の学者が、其の研鑽に従事したのであったが、古事記の真解は、これ以外に


   《一》霊と体
 霊と体、其の正体は果して何なのだろう。霊と体という語は日常的に使用されているが、未だ具体的説明が付いていないようである。私が、ここに此の研究を進めるに当たり、先ず第一に決めるべきものは、此の霊と体の定義である。この定義を決めずに、私の研究は一歩も先に進まないのである。私は先ずこれを解決したいのである。
 凡そ宇宙間に存在する森羅万象、万有一切は、千差万別、多種多様、ほとんど究極を知り得ぬ様相を呈しているが、しかしながら、ある意味に於いては、これは机上に列記可能であると言える。何故なら、宇宙の万有一切は、悉く八十余りの元素に帰着してしまうのであるから、化学実験室の試験管は宇宙万有の根元を包蔵するものとなるからである。地球以外の天体中には、地球上で求め得る元素の外に、尚幾多の元素があるかも知れないが、未だそれが発見されたと言うことを聞か無い。そうであるのなら、宇宙に於ける一切は、八十有余の元素から成り立つものであると言える。もし後日地球上から、あるいは他の天体から幾多の元素が発見されたとしても、私は其の元素の数の多少に重きを置くのものではないので、私の研究を進める上では支障はない。元素の数が増加すれば、私が今八十有余としているのを九十なり百なりと訂正すればそれで良いのである。
 この八十余りの元素は、ラジウムの発見以来、電子より成り立つものであることが明らかになった。この電子というものの組織は、陽電気を核とし一個あるいは数十個の陰電気がある一定の軌道を書いて、非常な速度を以てこの核の周囲を回転している。それは宛かも太陽を中心として、幾多の惑星が、その周囲を回転しているのと趣を同じくしているという。
 元素、電子がこの様に決定されたところで私は思う、宇宙間の万有一切を、何らかの方法に依って悉くこれを元素に還元できたと仮定するときは、宇宙万有はその形を喪失し、唯混沌とした八十有余の元素のみとなっていまうだろう。この元素を更に還元して、電子のみに成ったと仮定する時は、宇宙間には、所謂物質なるものが皆無となり、ただ果てし無く、電子のみが満ちる空間となって終わるであろう。つまり、この電子なるものは、陽電子+と、陰電子−とが結合するものである為に、この各種の電子は更にこれを還元して、単なる+と−とに分解し得るはずである。この+と−とは、その性質が正反対である為に、+と−を生じさせるところの本体なるものが必ず存在するに相違無いと推理できる。
 この本体なるものは取りも直さず、全く正反対の性質を備えているのであり、即ち+と−とを兼ね備える±でなければならないことは否定できない。即ち宇宙は、その無始の始源に遡るときは、終に混沌中和の±、一元に帰着してしまうのだ。
 以上の如く、宇宙は±の一元状態に根源を求め得たのであるが、これより此の始源状態を発足点として、万有育成の順序を私は新たに考察しなければならない。
 中和し混沌する一元の±が、発して万有となる第一段階はどうしても+と−との分離でなければならない。相反する二性の対立であって、そしてこの対立する二性が相互に交渉するものでなければ、何事も成り立たないということは明白な事実である。例えば、下なくしては上は有り得ず、右なくしては左は有り得ず、悪なくしては善は存在しないと同様に、相反する+と−が無ければ、万有は成立し得ない。
 この万有の発生に+と−との分離が過程の第一段階である。そこでこの+と−は如何にして分離するのであろうか。それには二つの解釈を与えることができる。
 第一は、一元である、±の統合した意志精神の発動する結果とするもの。第二は自然の志向性としてそうなったとするもの。しかしながら、第二の解釈は解釈と言うよりも、ただ外面的に宇宙を観察したものに過ぎない。例えば水素と酸素があり、それが化合して水となるのは自然にそうなったと言うのであれば何の答えにもなっていない。ただその現象を報告したに過ぎない。私はこれは水素と酸素との意志精神、言い換えると水素と酸素との性状の発現が水となるのではないかと考える。
 此処で述べている性とは。意志精神の特徴を指すものであって、凡そ物(物質そのをいうのでは無い)なるものが存在する以上、性の無いものは有り得ない。既に性があるのであるから、何らかの現象が起きないはずが無いのである。
 この様にして、一元の±は、その意志精神の発動によって、+と−との二元に分離するのである。即ち私は、いかなる場合も、現象が起きるのは第一の解釈に従うものであると信じている。一つ例を上げると、ここに電池があって、電池の性によって電流が起きるが、その両極を接し無ければ、+の電流も−の電流も無論起きない。つまり、電流は起きないが、+と−の電流を起こそうとする性は勿論存在するのである。+と−のまだ起こらぬ電池は、一元の±と状態に在ると言うべきであって、宇宙の一元状態も、このようなものであろう。
 即ち、宇宙第一次の意志精神は+と−との分離であって、私はこの分離された+を霊と呼び、−を體と呼称するものである。そして宇宙万有一切は、霊と體との結合と調和に他ならないと結論するものである。これを霊と體とに対する私が下す所の第一次の解釈である。此の霊と體とは他に陽陰、火水、男女等と称する事もある。更に言うと、キリスト教で十字を用いるのは、キリストの磔刑を象徴するものではなく、私はこの十字なるものは霊と體との結合、即ち+と−との結合を意味していると考えている。
 私達は便宜上、陽、火等を示す符号として+を使用するのであるが、この符号は寧ろ“|”を用いるぺきである。此の|を+と表記するのは−との混乱を防ぎたいからである。十字は+と−との結合する表象となる。そして又、十字は時間の表象である|と、空間の表象となる−との交差を示すもので、人間は常に時間と空間との交差点に立たされているのであって、何人も此の交差点に立つことからは逃れられない。右に行くも左に行くも、善を成すも悪を行うも、悟るも迷うも、一瞬の間や隙も此の十字から離れては有りえない。
 以上の如く、ただキリスト教のみでは無く、私達はこの十字の磔刑を常に甘受しなければならないのである。仏教の卍もこの十字の変形である。+と−とは常に宇宙の大根源を語るもので有り、宇宙の大真理はこの外には有り得ないと私は痛切に感じるものである。

   《二》造化の三神
 宇宙の森羅万象、万有一切は上述の如く、±の一元より分かれた+と−、霊と體との二元より成立するものである。そうであるなら、此の+と−、霊と體とは如何にして森羅万象、万有一切となったのだろうか。私が思うに、万有が既に生成して仕舞った末端の方から、科学のみを手段として少しずつ探究していくのでは、その精妙さに触れることは困難である。故にその進むべき方向は超理性の高所から求めなければならない。そして超理性の指針は、古事記の研究に依って求むべきものであると私は思う。古事記ははしがきにも述べた通り、神話の形式をとっている居るが、単に神話的記述でしかなかったとしても世界的には貴重な文学である。しかし、その様なことは真価ではなく、その真価は別に存んする。私は及ばずながら此の方面の研究を志して以来、宇宙の大真理が此の記録中に包蔵されていると信ずるに至ったのである。
 古事記の含蓄が、この如く広大にして神秘である以上何人が其の説明を試みたとしても、その全貌を語り尽くすという事は望みようも無いことである。それを初心の私が、しかも小冊子を以てこれに望もうとしているのであるから、無論多くの期待に答え得る訳ではない。唯、涓滴尚流を為すの、少しばかりの誠至を尽くしここに卑見を述べるに過ぎない天地の創造は、古事記には次のように述べられている。
『天地の始発の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神御産巣日神』
 凡そ天地は剖判してから、始めて天地と成るのであって、未だ分かれていないときは勿論、天も地も無い。分かれる以前の天地は、自ら分かれる以前の天地であるもので、特に説明の要は無い。故に天地が剖判するときを示すことによって、天地が分かれる以前の事も判るのではないだろうか。それが古事記が天地始発之時より記述されている所以である。であるなら、ここに言う天地とは、宇宙と同義ということである。宇宙は無始無終であるが、その無始の始源に於いて成りませる神が、天御中主神、次いで他の二神であらせられる。この三柱の神が所謂造化の三神であらせられる。
 この三柱の神の成りませる高天原とは、そもそも何を意味するのだろうか、これ迄に幾多の解釈が成されて来たが、未だ決着には達していないようである。天地が未だ分かれる以前に於いては、宇宙は混沌としている。故に三柱の神の成りませる状況も、この混沌に於いてであったに相違無い。そうであるのなら、造化の三神もこの混沌中の宇宙内に生じたものであって、決して宇宙の外に生じられたものでは無い。この宇宙内に生じられた事を啓示されてあるのが、即ち高天原に成りませると記されている所以である。高天原とは取りも直さず、宇宙そのものなのである。
 高天原なる意義に付いて一言付け加えるなら、天地が分かれようとする時の宇宙其の物は、三柱の神に他ならないのであり、宇宙即ち三神、三神即ち宇宙である。故に“高天原に神つまります”と祝詞にあるのは、宇宙には神が隅々まで満々ちているという意味になる。この意味が転化して、神の集合する地点を高天原と指称してしまったのである。此処で言う高天原は、即ち私達が住むこの宇宙自身を指すのであって、その意味での宇宙の外を意識するのであれば、其の宇宙の外に在るものは高天原では無い。
 天地初発の時に当たっては宇宙は混沌状態で、天もなく地もなく、日月星辰も無く、勿論、森羅万象の起こる以前であって、未だ+と−とが分かれていない状態を言う。+と−に分かれていない一元の±となる宇宙其の物が、即ち霊體一如が、古事記の天御中主神であらせられる。天御中主の天とは、天と地とが対立する天の意味では無く、宇宙其の物を言う。そうであるなら、天地未開の時の第一神、独一神が天御中主神であらせられる故に、其の天とは、天地が対立するところの天では無いと言うことは自明の理である。又、御中主とは、中心主宰の意志精神なのであるから、天御中主とは宇宙及び宇宙の統合精神と言うことになる。
 しかしながら、この一元の±が分かれて+と−とに成り、天地剖判して、万有が鬱生する今日に至っては天御中主神は、その存在わ失ってしまったかに思われるが、決してそうではない。±が分かれて+と−とになり、+と−とが種々の電子となり元素になったとしても、+と−は依然として+と−として存在するのであるから、それはそのまま天御中主神であらせられねばならない。
 ±、一元の混沌状態に於ける天御中主神は例えるなら、あたかも両極を接する前の電池のようなものであると推測できるのである。そして森羅万象を鬱然として蒸生させる、元宇宙に於ける天御中主神は、電池の積極と消極とを接続して、諸々の現象を生起させる電池の様なものであるのなら、其の未だ両極を接する前と、其の接する後とでは、勿論その働きを異にしている。そこでこれを区別する為に、天地剖判以前の天御中主神を静的天御中主神、剖判後を動的天御中主神と申し上げることにしょう。
 剖判以前の、±、一元の混沌の状態である静的天御中主神を、+と−との記号で表象するのなら図1のようになると考える。
 この静的状態より、動的様態に移行する起機は、前にも述べた様に、静的天御中主神の意志精神の発動に他ならない。そして、その動的となられる第一次は高御産巣日神、神御産巣日神の二神として顕現されるに始まる。私はこの二神の御活動は、御神名によって髣髴し得るものであると思う。即ち、神御産巣日神の神あるいはカとは、密やかなる幽玄、隠微なるものの意であって、結局は宇宙の内面を示している。また、産巣日とは結合、?醸、発酵、生産という意義がある。故に、神御産巣日とは、結合及び生産が内面的に遂行されていることを意味している。これらの意味に於いて、±の一元が分かれて+と−になったのは、単純なる+と−とになったのではなく、其の中に+と−との結合、即ち産巣日が内包するところのものでなければならない。そしてその結合が内
面的であるということは、能動的である+が受動的である−よりも内面に存在することに外ならない。これに於いて、神産巣日の結合は+と−とによって表象するときには、凡そ次の様な類型を成すであろう。図2。
 しかしながら一方に於いて、科学者は物質元素を研究する結果、元素は電子より成り、その電子は+を核として−がその周囲を回転していると説明しているが、科学者は物質の研究に依って、我が古事記の、神産巣日の類型の正体を突き止めたということになる。
 次に高御産巣日の高あるいはタとは顕著であることを示すが故に、+と−の結合である産巣日が外面的に遂行されつつある事を意味している。即ち高御産巣日は、神産巣日とは表裏内外正に相反するものでなければならない。其の表象は必然的に図3のようになるであろう。
 産巣日のこの様式は、単に物質を分析還元しただけでは決して得られるものでは無いから、所謂物質主義者は承知しないとは思うが、しかしながら、既に神産巣日の様式を認めている以上、これと相反するところの結合である、高御産巣日の様式を認めぬということは、あたかも−を認めて+を認めない様なものであるから、それについては大きな誤りが在ると感じざるを得ない。私は古事記の記述に依って、学術界の探究が今後必ずこの方面を開拓し得るに違いないと確信する。即ち学術界は今や物質の究極に到達し得たのであるから、正に霊的方面に突入すべき時機でなければならない。先学の士は恐らくこの点に着眼しておられることと察せられる。それ故、高御産巣日の探究に対する私の憶測は、未だ具体性には乏しいと言える。
 一元であるところの天御中主神が、動的状態に移られる第一次は高御産巣日神の霊と、神産巣日神の體との二元となり、霊體結合、?醸し万有ここに並び起きるに至のである。
図1
静的天之御中主
神産巣日
高御産巣日