草稿1 

 

数と有機体

Lー類魂には固体のイメージがあった。なんも何億もの類魂が集まって、全体になっているという。それなら統計力学的に扱えるのではないかと考えた。類魂を気体の分子に見立てる。類魂という全体も気体の分子のように振舞うのであれば、心霊科学にも科学的手法の糸口が見つかるのではないのか。しかも論理形式を探れば、現界の物理学にも繋がるのかもしれない。

しかし本質的に重大な問題がある。あたりまえのことですが、霊を物理量と同様に扱えるかということです。つまり数なのです。現界の物理学と心霊科学には数の概念に相違があるのではないか。

Rー私は数学は完全に観念の産物だと思っていた。その意味では霊的認知に深く関係するのではないだろうか。数学者が帰納演繹するときは内的世界に入っていくと思うんだ。私の経験では

数学の証明問題を解くのと、霊視するときの心理状態は似ている。数は、内的世界の中で次々にゲシュタルトされて、そしてある空間になる。この内的世界にあって、ビジョンする数が、私達が問題にする数だろう。科学はこのビションの数と物質現象を対応させて、物理量としている。それにも関わらず、科学的懐疑は精神世界を否定しなければならない。皮肉なものだね。

Lービジョンの数と物理量の数はどう違うのか。ビジョンの数は、物理的実体ではないからといって、全面的に否定することは出来ない。そうしてしまうと、物理の命取りになってしまう。数学的技術なくしては現代物理学は成り立たない。つまりこれは、哲学的には確実性の問題なのです。

Rー言語ゲームなのだね。有機体を語るのに君がなぜ数の概念から入ったか解かったよ。計算をするときに紙に書いて計算をする。このときの数は記号だ。しかしそれをこころの中で、暗算した場合はどうなのかということなのだね。衆人は紙に書かれていると同じ過程が心の中にもおきていると考えるだろう。物理学者は脳細胞の活動電位が、量子が計算すると思っている。

つまり、心にはビジョンではなく記号が詰まっていて、それに外界からの感覚刺激が対応している(感覚与件)しかし数とは何か今一度考え直すと、外的感覚と対応する記号でしかないと

言い切れないものがある。紙に計算をするときは、始めの計算を見ながら次の手順を行うから、感覚に対する反応のように見える。しかしこの計算を進めるのは、この人が計算の仕方を知っていているからなのだ。つまり、計算の過程を紙に書く以前に、この人には、計算という行為全体のゲシュタルトが心にあった。数の概念には、認識論的には二つの側面があって、一つは記号としてみる。もう一つはゲシュタルトとして見ても正しいはずであるということだ。

それで、物理学者は数は単なる記号に過ぎないというが、数の本来の姿がゲシュタルトであったなら、それに対応する物理量もゲシュタルトしていてもよいのではないか、そうでなければ=で結べない。これを否定するとしたら、

記号としての数と、物理的対象を対応することが絶対的真理であるという根拠がなければならない。何故、科学は数の記号的意味だけにとらわれているのだろうか、数のゲシュタルトする側面はなぜ否定されなければいけないのか。そして、数のゲシュタルトが認められた場合、どんな物理的対象に対応するのだろうか。それが、有機体、自己組織化する系なのだね。

Lー現場の研究者は数学を道具として使って、あまり便利がいいので、その哲学的洞察を怠っています。そのお陰で、今私は仕事していますが。自己組織化する系と、以前の物理が対象にしていた物理量とは数の概念が違うのです。それにも関わらず、今まで通りの古い考え方で、自己組織化を探求してはいけないのです。そうしないと人智学(超心理学も)のような論理の袋小路に陥るでしょう。物しか見えない眼鏡をいくら磨いても、物しか見えない。物理学者は物だけ見ていれば仕事になりますが、私達はそこに安住しているわけにはいかない。私達が先ずそこから脱出しなければならない。

数がゲシュタルトするとはどんなことか、もうすこし哲学的に考察しましょう。 

2001年03月19日 19時57分51秒

 

 

無題

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1『Die Philosophi der Freiheit』Gestaltについて平面的に見るか、立体的に見えるかで論理の筋道が違ってくる。

シュタイナーはGestaltを認めながら、何故か事象の特異点を見ていた。

2シュタイナーの思考論と志向性、心の哲学p.632 スピノザの直観知

3 Monad論は物霊を示す。その訳は?カルマ論の否定、カルマは原型概念の一種つまり哲学的には誤謬である。

心霊科学は、まことの哲学をOSにもつ霊学なのよ。それを忘れてはならない。

心霊科学はサイ科学や、超心理学ではない。これらの分野の0Sは物質科学なの。

 

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エホバの証人が言った

 なぜ世界は平和にならないのか、

 なぜ人は殺しあうのか、

私に言わせれば、そう思うのは迷いの世界にいるから、

平和に暮らすにはどうしたらよいのか、

子供を罪人にしないようにちゃんと育てよう。

なぜじゃなくて、実行よ、自分の出来る範囲で

実践するしかないの。

 

行為論p483 p945

 

争いは、差別や偏見、誤解からくる。なぜそうなのかというと、

人は原罪を持って、神から離れた存在であるから。戦争や犯罪が起こるのはその証拠。

 

「両親が子孫を残すと言うのは絶対的な権利だ」と

クローンの医者は言う。子供にはナチュラルに生まれる権利は無いのだろうか。子孫を残す権利は生命の尊厳に優先するのだろうか。あれは生命操作なのだ、不妊治療と言うのはいいわけだ。「不妊の人は子供の出来ない苦しみは、子供のある人にはわからない」という

でもそうではない、不妊の苦しみと、生命操作は別の問題。親戚に、養子を迎えて、充実した家庭を営んでいる叔母が居ます。盲学校の先輩夫婦で、病気が遺伝すると分かっていても、子を産んだ人が居ますが、それは「子孫を作る権利」で生んだのではないです。一緒に生きる家族がほしかったからです。自分の遺伝子を残す権利のために、生命を操作するという人たちとは、まったく心境が違います。生命操作を不妊治療と称する人は、不妊に対して必要以上に被害者意識があるのだと思う。世の中にはもっと大変な宿命を持って生きている人間も居るのだと感情的に理解できれば、高いリスクを犯して生命操作をしようとは思わないでしょう。普通の人間ならね。

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2001年03月08日 00時01分29秒

 

 

私の試みは、

私の霊が試みようとしていることは、神道と人智学を結びつけて新しい霊学を作ろうというものです。

ここは日本なんだし、私たちは日本人なのだから不自然ではないと思います。

まったく異なるかのような二つのものを結び付けるにはどのような学問手続きをするとよいのか、

似ているからと言って安易に受け入れると、後で学問的に行き詰まって自己崩壊をします。

それが、まさに心霊科学なのです。

先生が仰られたことはよく心得た上でやっています。

私の霊は精神の科学と地上の学問を区別せずに、なんというか、これは一つのいのちなのだという考えで統一的に論じようとしています。ぶっ飛びの世界と地上の学問を滑らかに結び付けたい。

これも私の重要なテーマの一つです。霊能者はぶっ飛びの世界と、物質的現実世界の板ばさみの中で、押しつぶれそうになる自我を常に奮い立たせなければなりません。

この「滑らか」は数学の専門用語でもあります。

霊学のセンスのない工科の先生でも論理的に筋道を立てて説明するとわかってくれます。

理系の思考法の利点なのです。つまり、理性なのです。理性に訴える霊学が必要です。

理性に訴えて、丁寧に主張するとぶっ飛びを受け入れてくれます。それは数学的に帰納演繹する思考法を身につけているからです。理系の先生は方程式を見ただけで、その対象のすべてを把握できます。それはその式の中にその対象の論理的背景が示されているから、そして理系の先生の思考にもそれと同じ論理の場があるから、その式を思考することが出来ます。そういうことを無意識にやっているわけです。

つまり、この論理の場なのです。神道と人智学を根元で結びつける論理の場をそれぞれから取り出して示し、さらにこの二つは同じ論理的形式をもちますと論証しなければならないのです。

そうすることによって初めて、この両者はリンクできるかもしれないと言うことになります。

この論理の場を見出すためには体系を一度ばらばらにして、本当はどんな構造をしているのか、

命題論理的にはどうなっているのか分析しなければいけません。

それを人智学と神道、両方に対して行います。人智学者てここまでやった人はシュタイナーも含めていないでしょうから、川崎が苦しみます。

神道も神道哲学という分野は無いのです。神道の命題論理は何なのかなどとは、まともな人間は

考えないのです。だからそれも川崎の苦しみです。

霊界は神道と人智学をしっかりと結び付けたいのです。だって、ゲルマンと日本の天使さんの大元は同じなのですから、その霊的真実をまともに受けても壊れない、強固な霊学がほしいのです。

だから、どうして日本の人智学者がやってくれないのかな、と感じています。

ゲルマンと日本の神さまは同源なのです。これだけは信じてほしいです。

地元の利なのかどうか分かりませんが、日本の霊たちの方が強く出るのです。私はいつもドイツ人の味方です。神道にはカルマ思想がないのですが、それをどう克服するか悩みの種でした。

日本の霊は「カルマは無い。迷っているだけだ」と言います。カルマを否定する哲学を持ってきて、

ウィトゲンシュタインの言語ゲームなのですが、私の自我の中で論争するのです。それが半年位続きまして、参りました。どちらも正しいのです。人間の持つ二つの属性だからです。

これを解決したのが、もっと厳密に理性に訴えるという仕方です。やはりそれは数学的に帰納演繹

しなければならないということで、先生に話してもだめかな、

先に述べた、内部観測論やアフォーダンス理論は認知科学の最先端に関わる分野です。

ドイツ人は新しくて、ハードなものが好きです。

この調子で、ある先生と三ヶ月ほど議論したことがありましたが、突然その先生のご先祖様が現れまして、「もうやめいくれ」と抗議されました。それは、その先生が私と話しているうちに、ご先祖様の意向にそぐわない考えを持ち出したからなのです。 

2001年03月05日 09時25分59秒

 

 

心霊って何?

心霊は理屈ではない、まこと。人を利用することに理屈をつけて正当化できるのは、ここが現界だから。たとえば、出世して、偉くなって社会の役に立とう。別に偉くならなくても役に立つ方法はあります。うんと金持ちになって、家族に楽をさせよう。金持ちになっても、他人を思いやる心が無ければ、家族はちっとも楽にはならない。

 

地球の初めの生物は、生物学的にはみんなメスだったのよね。

宇宙の初めの太霊も、もし性別をつけるなら母性だと思う。オスはメスの進化の過程で分かれた。

その母性を哲学的には、実有という。宇宙を無であると主張するのは、オスだから。宇宙太霊が母性なら、絶対無じゃない。実有なの。

 

ダーウィンの進化論は複雑系の自己組織化のこと。シュタイナーの一元論とはどう関係しての?

人智学全体を見た場合、それは多分、内的知覚の体制化じゃないかと思う。それによって自我が作り変えられていくということ。しかし、ここで大ミスね。物理的対象の自己組織化と自我の体制化を同一視してはいけないのよね。

 

うちの霊たちは物理的対象を、ツブツブ概念と言うの。複雑系の科学は、事象をつぶと解しているらしいよ。しかも、そのツブが唯一の実在で、ツブ以外の実体は、観測できないから認めないの。

観測って言うのはツブとツブの間の作用力なの。

 

ツブとツブの間にだけ作用力があるように見える、と霊は言う。つまり事象はツブの姿で存在しているのではない。ツブって極値。グラフの頂点のこと。その極値がどっさり集まって複雑系になる。

それで、そのツブツブでしかない現実を、ウィトゲンシュタインは家族的類似性といっている。

でも、その先がある。なぜ家族的類似性があるのだろうか。複雑系の科学はそこまでは突っ込まないの、だって観測さえ出来ればいいのだから。観測できると「大発見だ」とぬか喜びするけど、2,3

ヶ月すると過去の人になっちゃう。それはやっぱり、複雑系で用がすんでしまうと思い込んでいるから、もう少し物事を突っ込んで考えようとしないから。

 

ツブは別の言い方をすると、概念とも言う。概念は概念だけでは存在しない。シュタイナー的に言うと、概念を包囲する内面をビジョンするというわけ。

 

人は、外的事象のツブに包囲されて、人自身もそれに応じてツブになっているというのは科学的事実。そうではなくて、人を包囲するのはツブではなく、言語ゲームなのだと、ウィトゲンシュタインは言う。

 

シュタイナーの言う自我はアシカビのことらしい。そしてそれは、宇宙の内的世界によって体制化し成長する。

 

外的物質的環境、霊的カルマ的環境、霊体が作り出す環境、そして脳…、自我を取り巻く入れ子構造になっている。段階的構造ではないよ。フォルダの入れ子なの。

 

科学的懐疑に対抗して、人智学的懐疑と言う言葉を出したかったそうね。懐疑の形式というのは論理学に立脚したものだから、百年前では無理だったのね。論理学の進歩を待たなければならなかったから。

 

Gestaltする系には、無や解脱は原理的にありえない。釈迦の悟りという要求は、宇宙をビックバンにまで遡って、それは無かったことにしてくれと言っているようなもの。釈迦が一人だけで解脱することは出来ない。つまり、体制化する全体には個は無い。釈迦が系から独立して存在することは出来ない。ある一人の人間が悟ったと主張しても、その悟りが及ぶ霊的範囲と言うのは限られている。現界では聖者と評価されていても、人霊は人霊。聖霊や神とは霊的な身分が違う。

 

シュタイナー、     1861年2月27日

ホワイトヘット、    1861年2月15日

ウィトゲンシュタイン、1889年4月26日

ヒットラー、      1889年4月23日、生まれだって、

 

私たちは、霊界の違いを超えてチームになったのだ。無用な心配は捨てて、先に進むしかない。

互いに信じていくしかない。

 

刺激に対応して反応すると言う。物理的刺激を受容し、その結果として行為があると信じられている。言語ゲームを論理学に持つ霊学はそう考えない。

人は概念(物理的刺激、情報)に従うのではなく、利用して活動する。同様に、自我が内的知覚するビジョンは、物理的刺激に対する知覚とは違う。内的知覚においては、知覚は反応ではない。

概念は、人体も含めて、宇宙の内面によって利用される器なのだ。だから、ビジョンは単なる知覚ではなく、制御の情報を含むはずである。その制御の情報をまこことという。人智学者はどう考えるかな。

 

現界では死刑になればそれでいいけど、そのあとが問題。どんな極悪人でも、いずれは向上しなければならないときがくる。人智学やっている人には、この話は分かるかな、あの人はこのまま故国に生まれ変わると、あまりにも業が重すぎて、向上するのが困難だから、東南アジアに生まれ変わればいいという話だったのね。アジア人は直接にはあの人には因縁が無いから。

丹念に業消しをするには、平凡な一般人の人生がいいんだって。それで地道にカルマに耐えても、たっぷり千年はかかるだろうというの。あの人のやった罪から考えるとそれはいい話なのに、「自分はドイツから離れたくない。アジア人にはなりたくない」と天使さんに頼んだらしいのよ。

でも、今ドイツに戻ると面倒なことになるらしい。ヨーロッパには不穏な動きがあるの、霊界にも現界にも。悪魔さんがあの人を探しているらしいよ。あの人を教祖に祭り上げて、教団を作ろうとしているんだって。それで、私の霊団に居る。なんでだよー、もう一度言わせー、何であいつがここに居るの。霊の話だとこういうこと、たとえ悪霊に唆されていたとしても、行為してしまうと自分の業になるの。それは自分自身の努力で浄化していかないとだめなのね。でもあんまりにも業が重いと、せっかく生まれ変わっても、死産したり、殺されたりしてなかなか丁寧な業けしができないの。何か災難があると一度に業は消えるけど、荒削りの仕上がりになるから、霊界から見ると利用価値が無いんだって。業消しは、量より質なんだって。神の役に立つ人間になるには、自我の隅々まで行き届いた浄化をするの。ジャーどうするかというと、

どんな人間にも、何かしら長所はある。それを伸ばしていくと高級霊に繋がっていいる。その長所をいかして、誰かの背後霊になるの。指導霊とも言う。担当している人間が努力して向上すると、その指導をした霊も一緒に向上できるの。業は業として残っているけれども、指導霊になってその人間に尽くした部分は、レベルアップして高級になれる。それを徳積みとも言う。

生まれ変わって、業のために過酷な人生をすごさなければならなかったとしても、その高くした部分のお陰で何とか身を立てて生きていけるようになるの。一芸に秀でるとか、どん底の中でも、雑草の様に強く生きていくというのがこれにあたる。ただし、すべての例がこれに当てはまるのではありません。中にはこんな霊も在るらしいです。

それで、あいつか゛私の所に居るのよ。初め見たときはあいつに見えなかったの。ドイツ人だとは感じたけど。公表されている写真よりもやせて、すらっとしていて、ひげも無いし、軍服も着ていなくて、

どう見ても、サラリーマンのおやじって感じなの。霊界にはめられたのよ、完全に。

何も災いが起きなければいいけど。ヨーロッパの人は、日本人が想像できないほどあいつを恨んでいるから… 

霊は直接のカルマ的関係がないから、何も無いと言うの。今の所は何も無いけど、油断はしていないからね。

 

イエス様は、イエス様を信じ、必要としている人の所には必ず降りているはず。人間がビジョンする力が無いだけなの。神学校の専攻科を出た神学博士以外の人間には、キリストに付いて語ることは出来ないというのは、信仰の道に外れているでしょ。でも、実際には、信者としては同じなのに

「何も知らないくせに黙っていろ」と言う。やっぱり人間なのよ、神父の資格をもつと、一緒にエリート意識も持ってしまうのだろうか。すべての方がそうではないでしょうけれど、

 

霊学は一般の学問のように、カリキュラムを組んで習するものではない。そういうやり方をするとエリート意識の温床になる。神様のお仕事をするには学歴は関係ないの。でも、やっぱり現界は学歴にこだわる。どこかの大学の名誉教授や外国の大学を出た宗教学者じゃないと霊をかたる資格がないとしたら、私はもっとも、ふさわしくない人間ね。低学歴で無職の、口が悪い女だから、

でも、大学行かなくてよかったとおもう、もしいっていたら、これはやっていない。ぜんぜん違う暮らしをしていたと思う。

共通一時受けなかったから、選択科目は好きなのにしたの、物理1、2と数3ね。お陰で理系の専門書が何とか読める。物理学者の指導霊の要求にもついていける。大学受験を考えたら、この科目は難しいから選択できないもの。大学行かなくてよかったと、心から思える今日この頃。人生はやってみないと分かりません。

 

多分、シュタイナーはこれを間違えて理解している(?_?)

Gestaltを静止させてみていたのよ。ある一瞬の静止画面を見て、その中に描かれている人と環境の関係を分析したのかな。主体→客体、刺激→反応、原因と言われるもの→結果と言われるもの、

この方程式は、静止画面だからなの。一枚目、二枚目、三枚目と一枚ずつ見ていくと、原因と結果が連なっているように見える。

原因と結果と言われているものが、自我にアフォードし、系全体がGestaltしていく。

現界、霊界、現界、霊界といちいち止めてみているから、カルマを考えてしまう。自分の子供時代を前世とは言わない。つまりそういうことなの。現界から宇宙を見ているからなの。霊界に居たままで、自我の成長を展望すると、段階的な切れ目は無くて、滑らかに成長しているはず。この滑らかは数学の専門用語だからね。(`_´ )ゞ了解!

つまり、imaginationとintuition の違いなの。

 

シュタイナーの一元論とウィトゲンシュタインの一元論はどう違うの?

シュタイナーの一元論の一元とは、原型生物なの?

原型生物を一般化したのが、有機体の入れ子構造。そして、言語ゲームは事象の入れ子構造。

 

霊視、ビジョンは観察に基く知識ではない。まことの哲学にリンクするのよ。

シュタイナーに狩衣を着せてみたいの。きっと似合うよ、(^-^)v

 

物質科学は、観察し、分析して知識の確実性を得る。ビジョンはどうなのかな。霊視は観察ではないよ。intuition なの。視覚イメージを重視しすぎると、霊学は先に進まないのよ。

 

霊視してそのあとどうするの、何のために霊視するのだろうかとうこと。(∵)きょとん

まことの哲学は、intuition に結びつく実践哲学なの。人として生きるための哲学なの。だからそのための霊視なのです。としたら、観察による知識ではないのよ。実践知と言うの。

 

家族的類似性と数の概念。人智学は数をどう考えてる?数の象徴じゃなくて、数学の哲学なの。

自我の数学やるなら、これが最大の問題。何が数なのか、ということ、(-_-;)おいおい

 

なぜ事象には家族的類似性があるのか、それは結局、数の概念を問わなければならない。

とことん霊学を究めると、数の概念に行き着く。これについては、川崎はシュタイナーよりもっと理系の霊学してると思う。イってなきゃ霊学じゃないもんね。(=^_^;=)ひやあせ

 

ビジョン、霊視は演繹なのよ。数学の証明問題を解くみたいに、沢山の見え方がある。つまり、ビジョンがゲシュタルトする。

 

数学的存在は観念ではない。じゃー何なんだ。

数が記号ならそれに対応する物理的対象も記号なのだろうか?

複雑系の数は閉じている点。Gestaltする系の数は開いている点なんだって。

そういわれてみるとそうかも、

 

確実性を認識しようとする。それが物理的手法に因らない場合、ビジョンと言う。

その認識の確実性を問う、つまりビジョンの確からしさを問うのであれば、認識論になってしまうのだろうか。分かりやすくいえば、人智学的ビジョンは超心理学なのかといっているの。

そうじゃないのよね、ビジョンは超能力ではないよ。シュタイナーが生きていたら、川崎と同じことを主張するはずよ。人智学は超心理学の一部ではないよってね。

 

つまり、新しい哲学に基ずく人智学はこう説明するだろう。

観念論と言うのは、外的に起こっている物事・物理的対象で構成される事象は、自我の出自という、存在論的な問いより先んじることは無い。あるいは、内的なものが外的なものに優先すると主張する、のであれば間違っている。独我論になるからだ。言語ゲームの立場からは、このような観念論は否定される。これは、象徴哲学の拒否を意味する。何らかの霊的原因があって、この物質現象が在るのではない。ある象徴を霊的に帰納するのは無意味なのだ。これはGestaltなのだ。 

2001年03月05日 00時01分07秒

 

 

 

物霊によってカルマの正体が明らかになって、カルマは絶対の法則ではないことがわかる。シュタイナーは物霊を霊視していた。それは当然。だって、霊的感覚器官は物霊で出来ているから。ルーディは身体の感覚器官に依存した認知の仕方をする。それは、人智学の初歩の段階なのだけれど、その認知の仕方が世間に広間ってしまって、scientia intuitiva、直観的認知が疎かになっている。scientia intuitivaはまことが働く場。

 

どの霊体に自我を置くかで、働きかける天使がちがう。自我が自力で、主体性をもってそこへ向かうのではない。しかし、天使に来て頂く準備は、人間の側が責任を持って整えなければならない。

 

霊たちは人智学からカルマ論を除いた部分、天使論とアカシックレコードを心霊科学の物霊論として組み入れたいと言うの。これはそのための手続きなの。心霊科学的懐疑は、神による査定だって。だから、自分にはとても出来ない…

 

アルプスの山の神使(天使)を見て感じた、ゲルマンの民族魂ていうのは、大和魂みたいなものらしいよ。騎士道なの。

 

カルマって言葉を導入したこと自体、魔(フェンリル)にやられていた。人の人生を苦と楽で分類するところがルシファーに付け込まれるところ→確かめる、人間なんだから、病苦や痛みがあってあたりまえ。それを贖いや罪と考えるのはおかしいのでは。シュタイナーはどう考えるのか。その考え方は、いつも言っているけど障害者差別につながるのよ。

アーリマンは、徳を実体化する作用力。だから外見上は物が集まるように見る。私たちは現界に居るから、物の動きが見やすい。その為にカルマ的関係が目立つと考えられる。だから、ルーディは「アーリマンの悪を浄化するために、キリストがカルマの恵みを与えた」と言っている。

しかし霊は「このときカルマを見てはいけない。それはカルマではなく、降臨したキリストによって体制化し、成長する自我なのである。成長はカルマではない。ゲシュタルトなのだ。カルマがあって成長するのではない。ゲシュタルトが次のゲシュタルトをそくする」→アシカビという。

 

アーリマン=創造の力、凝固する、物事を実体化する→気を消費する⇒虚→だから補す  

ルシファー=依存?する相手への従順、依存する相手に支配されたい、依存する相手を美化し、英雄視する。また、そんな心理状態になると依存していると言える。信者が、教祖の全てを美化して信じきる様に。権力に依存する志向の在る科学偏重の風潮。アーリマンにとってルシファーは徳。アーリマンとルシファーは共依存の関係?

 

ガイスト

(ドイツGeist )霊魂。精神。The Geist of thing. 物霊概念は、唯物論の危険がある。充分に気を付けて進めること。物質によって霊体が作られていくことになるから、其処だけに注視すると、唯物論になる。

 

審神者はマイスターなのかな。Meister そう言われてみればそうかも。

 

カルマ的関係の正体は、共依存。霊的にも心理的にも未熟だということである。

 アーリマンは、陽虚。

 ルシファーは、陰実。かな、→カルマの証?だとすると、カルマとはなにか、東洋医学の証はゲシュタルト。だから、病気の診断名とは違う。そのバランスを保つのがキリスト。肩こりはアーリマンだって。湿布をして柔くする。ルシファーとの関係でカルマがあるように見える。物霊なのよ。

 

私たちは、自然を体制化、Gestalt して見るが、もし科学の法則や原理がGestalt であったなら、私の言うGestalt は観念論ではなくなる。なぜなら、私たちは環境から体制化を享受して、その営みがあるのではないか。

さらに、その環境の中に私達が生きているということは、この宇宙と同じ形式をもって、宇宙をビジョン(思考)し、行為する。そしてそれが人智学の出発点。

Gestalt する本質=世界の内面、概念(外的)世界と同等の権利をもつて実在する。

これをどう論証するといいの。

 

世界の内面は、神道神学でいう「まことの世界」シュタイナーはそれを自由の道といっている。シュタイナーの『Die Philosophie der Freiheit』とまことが結びつくということは神道神学と西洋哲学が接近することでもある。

 

分散系は、概念を列挙しただけの見せ掛けのGestalt 。その見せ掛けのGestalt が、外的世界の実験科学的事実であるからといって、真正のGestalt 理論が正しくない、また、カントの認知論が間違っていると結論することこそ、間違っている。

 

見せ掛けのGestalt しか観測し得ないのに、複雑系こそ科学的真理であると決め付ける所に重大な誤謬がある。その誤謬とは百年前に当時の天才たちが議論し尽くしたことなのだ。その同じ問題を心霊科学でも再論するわけね。

 

物理的対象である概念というのは、ウィトゲンシュタインの言う示す道具なの。逆に言うと道具である限りにおいては物理的実体性を持つのかな。じゃなくて、持つかのように見える。そこで、シュタイナーのビジョンをどう考えると良いのか。

カルマの実在性は別にして、 Anthroposophyではカルマを、法則としながらも、実際には物理的対象のように扱っている。カルマは法則の実在性というより、道具なのよ。自我が成長するための道具と考えたほうが論理的に正しいのではないだろうか。

 

シュタイナーの時代ではまだ、Gestalt と物理的対象の明確な区別が出来ていなかったの。だから、進化論的一元論に関して。見せ掛けのGestalt を霊的進化の段階と思ったのかな。

 

直示する目的というのは、直示している物が目的ではない。現界に居ると、物を追う思考習慣から離れられない。物だけを見てしまう。既存の科学は物だけしか見ない体系。その象徴が複雑系。複雑系は各極値間の集まり方の分析しかしない。それが何を意味するのかは考えない。

つまり複雑系の科学は人間の生き方や存在意義には関係しない。

 

直示するときに、既存の科学は直示される物理的対象の、信憑性や形状をその対象とする。しかし、直示の目的は物理的対象の確実性ではない。直示するときの物理的対象はcarry なんだって。運んでくれるのなら外的な信憑性はどうでもいいの。将棋のコマのように。人と人の間を行き来するの。それはコマ自体に意味があるのではない。プレーしている人間が、ルールを作って意味をたせている、だから、コマを分析してもコマの中に、棋のルールや、コマの意味はない。

では、なにを運ぶの?それは、 Anthroposophyの言う思考なのよ。言語ゲームな訳。思考の正体が言語ゲームだとすると、カルマではない。

 

人智学が新しい霊学を必要としているのではない。心霊科学がゲルマンとシュタイナーを必要としているの。それなら遠慮なくゲットさせてもらいます。

 

既存の科学の方法というのは、物理的対象の確実性を求める為に、その対象の形状や組成を分析するというも。シュタイナーはこの方法をそのまま霊学に使用したの。

詰まり、対象である霊体の形状=ビジョンと、組成=業を分析した。今述べた、言語ゲームの考え方をすると、霊体の、詰まり思考の確実性=カルマ的分析は問題ではなくて、神のコマになって、神にプレーしてもらえる人間になるって事でしょ。scientia intuitivaなのよ。接神なの。

 

scientia intuitivaによる認知はビジョンではなくて、直示。これこそ究極の言語ゲーム。カルマが無意味になる境地なの。いつまでも、遣ったの遣られたのって、もたもたしていないで、はじめからintuition を高めればいいのよ。intuition の中に居れば業は自然に浄化されていくもの。

 

ヒットラーはエックハルトの霊系だそう。Mystikには避けて通れない問題だと思う。

霊学ってどうして政治的になっちゃうのだろう。私は右も左も嫌い。どっちにしても神から離れていくだけよ。社会運動って、自力で出来るんだという自負心がある。霊的な事柄を成就するには、神に寄り添う心がないと駄目。結局、インテンション認知が必要なの。人間が外的環境を力で変えても、神が頭を立てに振ってくれないとどうしようもないもの。 

 

直示の目的は、物理的対象を以って、相手の思考を体制化すること。判りやすく言うと、演劇や絵画。シュタイナーはそれを狙ったのよ。でも、人智学の目的は、外的環境によって、思考を体制化することではないはず。ゴルゴダの丘なの。

 

ビジョンは、自分の思考が体制化されて、内的知覚になっているのだから、つまり、自分の知覚内容がGestalt の対象となっているから、示せない。それは、既存の科学の対象ではないと言うことである。既存の科学は精神や心をその対象としてはいけない。現界において、他者の知覚を体制化するときは、物理的対象を示さなければならない。それが、生前のウィトゲンシュタインの哲学

の言う、直示の意義。

             

エリザベス・アンスコム、「インテンションの考察」とシュタイナーの思考論を比較しよう。

同じだと思うけど、ルーディはどう思う?アンスコムがあなたの代りに哲学してくれたのよ。

 

一人称の命題「私は〜する」を早急に分析せよ。インテンションの認知と行為、及び思考と自由意志を考察すること。

 

 

人智学を心霊科学にアドインさせよう。どうやって?そこで『Die Philosophie der Freiheit』を「まことの哲学」へ体制化するんだって。

次の項目を確認せよ。

・主題がGestalt である事は判る。それをシュタイナーはどう理解していたのか。

・シュタイナーは『Die Philosophie der Freiheit』を記述したのではなく、直示したのである。そうであるなら、後はまことを見つけると良い。まことは言語ゲームに属する言葉であるから、記述したり検証したりする事柄の中には含まれていない。直示する場としての『Die Philosophie der Freiheit』であるのなら、その中にまことが含意する可能性がある。

という理屈になるそう。

 

『Die Philosophie der Freiheit』→一元論→Gestalt →まこと、それは神によって体制化される自我が、環境に与えるある種の実在。今この時を生きるにはどうすると良いのか、まことを尽くすしかないだろう。

 

所で、自我を数学的に表現すると、『構造安定性』と言うらしい。そう来ると思った。理系の頭で霊学する連中。自我の数学か、なるほど。百年前には出来なかったことね。

 

類魂のカタストロフィー理論は、霊団の物理学者が強引に、類魂をダイナミックスしたものなの。類魂を気体の分子に見立てて、統計力学的に処理したの。哲学上の重大な問題を無視して進めたものだから、ルッキ―は反対だったの。人智学者ならどう考える?

そうか、それが自我の数学なのね。何々、自我の数学ウイザード!それ本気なの。

 

次の項目をチェックし、       次へ、

・数学的構造を有する→目覚める自の出自。即ち言語ゲーム

・構造安定性を有する→体制化するモナド 

・分岐集合を有する。→弁証法的進化の段階

      

@覚醒する自我とは何か、それは開く系といことだろう。この世界に開く自我を持つ人間は、言語   ゲームのCarry となり、神のコマとなる。

AどうしてGestalt するのだろうと考えた。それは、立体的な自我。自我が奥行きを持つからなのだ。では、その中身はどう構成されるのか。ライプニッツのモナド論は、奥行きを持つ自我において、より,理解できる。   

B一段一段昇っていくと、太源に帰す様にイメージしてしまう。しかしこれは奥行きのある自我なのだ。見かけの弁証法に惑わされてはいけない。なぜ弁証法が可能なのか、弁証法の背景を知る必要がある。弁証法の只中に居座りつづけるのではなく、それを展望せよ。

後は、カタストロフィー理論のテンプレートに従ってコマンドすると良い。

     @自我の何を数として扱うのか、自我の数直線。

     A滑らかな構造を持つ自我。何に対して滑らかなのか、神に対してである。つまり、        scientiaintuitivaの場となる自我。自我に隠された平常要因。それが、モナドで構成され、神に開かれた時空。

     B同様に、自我に含意するかの様に見える分裂要因。それがカルマの法則。

 

これは霊学なのだから、初めから接神を中心に据えないとだめ。内的知覚を得てからそれから接神ではない。初めから接神が目的なの。接神と言う目的なしに、イマジネーションの行をするの

は、霊学上のまとを外す。キリストの密儀が無ければ人智学は無意味よ。

それで、イマジネーションはカスプのカタストロフィーの分裂要因なの。だとすると、分岐集合の周囲にカルマの状態が出現すると考えられる。統計力学ではマックスウェルの法則と言う。つまり、カルマはこの世を支配する絶対の法則ではなくて、状態関数の、ある値なの。人智学者ならどう考る?

 

自分の内的知覚、自分のビジョンにとどまり続けると、対象へ依存する傾向が出てくる。それが接神の妨げになる。天使を観ようとするあまり、逆に天使から遠ざかる結果となることもある。つまり、依存と憧憬は表裏の関係なのだ。神には全託をしても、依存はしない。しかし、その様な行のあり方は難しい。よくわかっている筈の人智学者でも、個人崇拝に陥ってしまう。

 

 

モナドろん【モナド論】

ライプニッツのモナドに関する形而上学説。彼によれば、宇宙は、広がりも形もない不可分な実体モナドから構成されている。このモナドは互いに作用し合うことなく独立して小宇宙をなすが、宇宙は最高のモナド、神によってつくられた予定調和に従って統一されている。単子論。

 

物霊をモナドに言い換えよう。その手順、

1、モナドとは何か、ライプニッツのモナドをまとめる。

2、ゲシュタルトするモナドを主張する。

3、小山類魂論の物霊はゲシュタルトするモナドであると指摘する。その決め手となる論拠を示す。物霊がゲシュタルトするモナドなら、宇宙は絶対無ではない。小山理論に反論する。つまり、物霊を認めながら、神は無であると結論するのはおかしい。

4、モナドとシュタイナーの霊体論。それがアカシックレコードなの。

モナド=物霊で、類魂論とアカシックレコードをリンクする。

 

業とエーテル体⇒イデア⇒原型⇒内部観測による全体視野

それは物霊の定義づけ?

 

高い自我とアストラル体⇒intuition ⇒まこと⇒自然法爾

   ‖

ゲームの世界    意味の世界、言語

この二つの様式は、別のものようだが人間存在の要素なの。スピノザの言う、属性。

「この一冊で哲学がわかる」p126沢山ある属性の中に、カタストロフィーを形成するものがある。→弁証法

 

徳と業は、モナド(物霊)のアスペクトなんだ。相対的な相。だから、徳積みは、最高善であるまこととはいえない。それは小山論の文中にもある。方便なんだって。

 

 

自我業生

同じレベルで見ていると、自我が主体的に思考を行為しているように見える。しかし霊性の高いところから人の自我を見下ろした場合、全く違った状況が見えてくる。

 

次々と生じる自我=業生は、類魂のゲシュタルトであって、そのゲシュタルトの類似的形相に対して、私たちが(勝手に)一貫性を感じているだけで、普遍で、完全の絶対唯一のイデアと言う実体はない。さらに、霊性の高いところでは(守護霊)、人の自我が生じたと思われるときに、それは高次の霊が、次ぎの自我から次の自我へと注意を向けていくだけのことで、つまり、守護霊があるゲシュタルトをフレームし、そこに自我が体制化される。その自我だけを見ると主体性があ

るように見えるのではないだろうか。 

 

 

進化論的一元論

進化論的一元論に対する。霊のコメント、「法則や原理といったものは、その現象が実際に起こるか、起こらないかに依存するする。それがゲシュタルトであるならどう考えると良いだろう。法則や原理を想定(求める)するのは無意味となるだろう」…どうして?

  

一元論といえば、そうかもしれない。物は浄化されてグラールになるから。そこで神と結びつくから。しかしそれは原理や法則という意味の一元論ではないから、シュタイナーの言う統一性でいいのかもp43 。いや統一性ではない。成長なのよ。進化とも違う、進化というのはつまるところは、優生学的に良い心身をもつということである。成長は違う。五体不満足のものであっても、その霊学的役割は充分に果たし得る。人間存在の内的価値を認めること→自由の哲学の方針(理念)で

あるなら、アスペクトとゲシュタルトの世界である。

 

進化論的一元論とは  、

つまり、あるひとつの太源が段階的に分裂し形態を変えていくこと。活動する自我の観点から考えると、これは分枝図ではなく、事象の入れ子構造ではないかな。

ホロンも分枝図のようだけど、事象の構造(活動する生命体)から考えると、入れ子になっている。事象の入れ子=活動的実在なのかしら。

 

I.エクスプローラの表示だと分枝図に見えるけど、実はフォルダの入れ子構造。器の中に、また器がある。同様に考えてカルマの様に見えたビジョンは、実はカルマではなく、その対象を包囲するゲシュタルトであったと説明する。シュタイナーが探求しょうとしていた自由への道は言語ゲームの世界=まことであったことを論証する。その上でカルマを否定する。 

 

 

Die Philosophie der Freiheit

コンピュターのソフトウェア風解説、

『Die Philosophie der Freiheit』のreadme    

・履歴 シュタイナーの哲学の専門書。1894年初版。

・背景となる形式 否定神学およびMonad 論。

・作動環境 精神の科学がインストールされている事。従って物質科学においては保証されない。つまり、物質科学と同じ場では論じる事は出来ない。

・インストール 本エディションは以下のファイルよりなります。

a進化論的一元論:設定ファイル。カルマ論に設定してあります。

bアポロン的接神論:本体ファイル。

自我に新しフォルダを作り、そこにbを開いてください。自己解凍します。そうしますと、思考論のツールバーに「自由の道」が表示されます。

アンインストール 一端開くと、人間の力で削除する事は出来ません。霊界が必要とした場合にしか認められません。

・使用方法 先ず思考を起動し、そのプラグインととして使用します。

思考の世界に在り、本エディションを使用すると、非霊的なものと、霊的なものが混在する外的世界(物質世界)の中から、簡単に霊性をエクスプローラ出来ます。それが、シュタイナーの言う自由の哲学なのです。

・カスタマイズ 本エディションはユーザー各位の自我に合わせて、設定を変えることができます。

・パグ 自由の哲学は、自我の内側から外的世界を観察したものであるから、逆の立場で批判しようとする場合は、多くの誤謬を招きます。

・その他 同包されておりませんので、別途ヘルプファイルを入手してください。入手方は、 

 

 

 

....であるなら、霊的知覚は理性によって吟味されなければならないのである。それゆえに、心霊に対し何らかの科学的方法を講じなければならない。

 

…このゲーテの引用文によって、ここで私達の望む洞察が全て語られている。つまり、概念と有機体。また、物質的実体とゲシュタルトする本質である。ゲーテは、ニュートンに始まった科学とは違う論理的背景を持つ科学があることに気付いた人であった。

 

ランダムという意味の自由意志はない。自由及び意思は言語ゲームに属する言葉。これらの言葉を使用することによって、人は内的世界を知らなければいけなくなる。

つまり自由意志というのは、内的世界を認め、そこに参入することでもある。

 

『Die Philosophie der Freiheit』→キリストに向かう  

まことにも達する→高級霊によって体制化される自我            

世界像でもある類魂が、その人にとって世界像になる、

それがカルマに見えるのはなぜか。アシカビはグラールのユニット、徳でも在る。 

 

 

【体制化される自我】

体制化する自我。言語はその典型。ゲシュタルトする言語。体制化するビッテ。ドイツ語全体がビッテを体制化する。あるいは、ビッテがドイツ語全体を体制化する。どっちの言い方が正しの?

霊が、プリーズ・ビッテと言ってくる。どうも先にビッテと言った方が勝ちみたい。霊能者は基本的には、お人好しなの、人様のお願い事はつい聞いてしまう。私の霊はそこに付け込んでくる。私は貴方の担当する人間なの、守ってもらう立場なのは私の方なの、判る。体制化される、する自我。あるいは凝集、それによる自我。『Die Philosophie der Freiheit』の中で、ゲシュタルト的本質はどのように語られているのだろうか。

 

世界樹→アシカビー降りる→物霊の塊→アカシックレコード→四つの体、各期間に神が働きかけて体が出来る応神天皇=ニニギ=キリストはアシカビの一つ、各体に降りて人を進化させる。

宇宙の進化は、浄化の過程でもある。人を構成する体にアシカビが降りて進化するというのは、低い物霊を向上させ浄化させること。

 

神によって体制化される自我、つまり高我は神のゲシュタルトである。

 

【神の存在証明】

映画「コンタクト」を見て、

心霊は物質科学的に証明する対象ではない。証拠が無ければ無意味というのが物質科学の方法論。つまり、既存の科学によってその存在が証明されるのならそれは、物質なのであるということ。霊の正体は物質であると仮定して、検証するのであれば、サイ科学や超心理学の方法はは正しい。それで、神や霊は物質ではない、では何なのだろう?が心霊科学の出発点。

カール・セーガンは心霊や宇宙人は、トンデモ話として否定しているけど、自身はそういう内容の小説を書いている。有名な科学者だとトンデモにならなくて、一般人だとトンデモになるのだろうか、「コスモス」の頃のセーガンは良かったけど、晩年は合点がいかない。心霊を否定している人に、宇宙の神秘とか、生の感動などは語ってほしくない。サイコップの学者こそ物質科学の中か

ら出てこなければいいのよ。

これで一線を引いたの。心霊科学は科学にして、科学にあらずなのです。それじゃ、どんな科学なの? 

 

 

接神の行

接神の行で、日常的に気をつけなければならないのは、所謂、もらう。それって何なのだろうと何年も考えていた。

私はどうも、相手の心の奥底を感じて、嫌な思いをすることが多い。私の日常を見ていれば判るでしょうけど、人との付き合いは最低限度にしているの。相手自身が自覚していない低い想念を観てしまうの。初めは私の側に問題があると思っていたの。もらうのは、もらう側にも原因があると言われている。だから、私の業が普通の人より深いから、自分の中から沸いてきたものが、もらっている様に観えたのだ、と考えていたの。でも、その状態が20年も30年も続くのはおかしいから、統一してよく観察してみた。そう、あなたと接してから、はっきり自覚できた。これはビジョンなんだって。

接神の時に、もらう感覚が、鏡を合わせた中の像の様に、限りなく連なる。これは、知覚なのよ。見ているだけなの。景色と同じなの。そこにむさ苦しい景色の写真が紛れていただけなの。罪や苦ではないの。この意味、わかる?

いつまでもビジョンの世界にとどまっては居られない、いずれはそこから離れる時が来る。

接神は観察するものではない。つまり、ビジョンではない。アンスコムの言う実践知なのよ。それをエックハルトから引用しよう。あの本の中にあるのだろうか。

 

接神の行の本義、

大神は人間ではなく、国に降臨する。土地に降りて、その土地に鎮まる。世界宗教の神は、結局、鎮まる国が無いから世界中放浪している。倭姫が伊勢ノ大神を背負って彷徨った様に。その過程で信者が増えただけのこと。信奉者の数を増やしても、霊性が磨かれなければ駄目。人間が、真に霊性を高めるには、そのような場が必要。

日本の神は、この国土に降臨し、鎮まっているから、他国に放浪しない。だから、世界宗教のように布教する必要が無い。つまり、世界宗教の神はまだこの地上に降臨していない。キリストの神は降りるチャンスを失った。日本の神界ではゴルゴダの丘は失敗したと評価している。大神が降臨する国は、向こうでは千年王国と言うらしい。ヒットラーもドイツを千年王国にしたかったらしいけれど、ユダヤの神のほうが数段上だった。国はユダヤが作った。イスラエル。イスラエルにユダヤの神が降臨したら、中東紛争は無くなるだろう。でも、まだゴタゴタしているのは、ユダヤの大神が降臨していないからでしょう。

 

霊視(ビジョン)なのにフォームを見ようとしている。プラトンもそう。

霊は物質的なものではないのに、物質的感じから離れられなかった。

超心理学やサイ科学も同様。霊は物質ではないと判っていながら、物質科学から抜けられない。でも、自分たちは、精神や霊も物質と同じ物と解して研究していくのが方針だ。と宣言するのであればそれはそれでいい。学問、思想は自由だからね。私は超心理学やサイ科学とは違う方法で、心霊科学をすすめます、ということなのよ。この分野の研究目的は何ナノ。霊性を高める為の知識を提供してくれるのだろうか。この分野が悪いと言っているのではなく。心霊科学に役に立つかどうかと言うこと。象徴の考え方と同じかも。霊界の状況が現界に反映されて、民族風習や、宗教になるけど、それに霊性の全てがあるわけではない。現界の学問なのだ。民俗学や、宗教学に霊は居るのだろうか。

宗教学や民俗学を究めても、真の霊は見えない。だって、現象的に現れて、形になっているものに基づいて、精神世界を推理していくのでしょう。それは、竹筒で外の景色を見るようなもの。それはそれで、それが正しいと思って研究するのはいいの。でも、心霊科学には必要ない分野だと思う。竹筒で霊界を見ても、空なんじゃないの。現界に形として現れているものをフィルターにして霊界を見ようとする。とうぜんだけど、真の霊界は見えない。

現界の学問、超心理学、サイ科学、そのたの物質科学、宗教学、民俗学等に依存してはいけない。物質的に現れたものを探求の中心においてはいけない。

プラトンのイデアと同じ間違え。心霊科学は物質的実在を頼らずに(シュタイナーのビジョンも)直接霊を見る。じやなく、体現する。 

 

 

「自由の哲学」、ホロン,まこと、

心霊科学的懐疑とは,神のゲシュタルトに気付くこと=畏敬の行

神のホロンの一部になること。人自らが,神のゲシュタルトを他社に与える、神の器になること。それをまことと言う。実例を挙げる。

 

裏の世界にも、表の顔をする人間がいる。霊学の密儀にはエリートはいないよ。

学歴を見せびらかす奴がいるよ。

哲学とミスティックでは、人に負けないようにしよう。(`_')おらおら

 

行為が次の行為の原因となるのではなく、物霊が行為を体制化する。

 

宗教学や民俗学は現界のカテゴリー人が勝手に思い込んで作った学問。そこには霊的真理はないよ。でもそれにこだわると言うのは、肩書き主義なのだ。そんな連中と戦わないといけないのだろうか。あの人たちは世間に認められたくて、霊学を捨てたのだ。無視していいよ。

 

エッダ、1200年 スノッリ

 

人智学はホロン構造なの。これも考えてみよう。もっとも根本的な部分がそうなの。自我と民族魂。天使の位階。

 

シュタイナーの人智学の、霊学的に絞り込めていないところを指摘してみよう。

ゲルマンの運命信仰、その他は?

@カルマと言うインドの言葉を使用した。

A自我に対する認識が不十分。ヒエラルヒアの自我ではなく、活動する自我。

 それの分析は無意味。

B人間の宇宙における存在意義を明らかにしていない。人間はなぜ創造されたの か、その全てがカルマに拠るものではないはず。

 ゲシュタルト、アスペクトを認めるのなら、カルマの法則は存在しない。

 

 

ユッグドラシルはクリスマスツリーの原型らしいよ(^-^)vブィ!(^O^)

ユッグドラシルには、天神が降りてくるはす。依代,ひもろぎ、だからお供えをするの。そして、天の神からの啓示,智恵を授かる。

つまり、時代霊は世界樹に降りる。日本の神のように。

オージンは土地神、国津神の司祭なの。ゲルマンの民族霊の代表者として、神事をつかさどる。

 

地下他界、

  根の国の川=サスラ姫

  三途の川=脱衣婆

  運命の泉=ノルン→シュタイナーのカルマ論へつながる。そのカルマを作り変えて,宇宙をまこと化していくことが、人間の役目。

日本のように、天津神が国土に鎮座して、常駐していたら、絶対的運命思想にはならないと思う。

ユッグドラシルは天へのアンテナ。なのにどうして、神が降りないで、ラグナレクになっちゃうの。人は一度生まれるとその運命は変えられない。どうしてそんな信仰が出来たのか。グラールがなかったの?どうして?

 

周囲から注目されて自分を保てる人は、生きていくのに徳積みが必要なタイプ。徳積みは特別なことではない。日常生活の中での一寸した思いやりが、徳積みです。施設に行ってボランティアしなければ徳積みにはならないというなら、徳積み誇りじゃないだろうか。だいたい、徳が欲しくてボランティアすること自体おかしい。弱者に対する思いやりや、多少なりとも社会に貢献したいという真心があるからボランティアするのです。そういう真心やまことを徳積み論で駄目にして欲しくないです。

神様は、自分を守るための徳積みは問題にしません。真心とまことなのです。

徳積み誇りをする人は、ボランティアが出来ない立場の人間をみくだしているようです。でも、施設に行ったり、災害現場にいって、活動できる人は体が健康で、経済的にも安定しているからできるのです。自分の生活を守るので精一杯で、派手な目立つ活動が出来ないひともいます。そんな苦しい生活をしている人に「業が重いから、なにもできないんだ」と非難するのは全くのお門違いです。

 

悪の行為に対して、悪と言うのであって、業に善悪はない。その行為をするかどうかが問題。

 

親が死ねば、その死に対する徳ができるから、その徳で子供を出世させるという。その理屈は類魂論的には可能。でも、それが家族の正しいありかただと思うのかしら。

それでも出世したいのだろうか。そういう子供がいるとしたら人格を疑うよ。まことの道は親を敬う教えです。子供の出世のために親を犠牲にするのはおかしい。当人は了承しているからいいと言うだろうけど。それこそ屁理屈、魔境なのよ。現世的利益のために、家族や他人を利用することは、まことに反する。それを言い訳するのは、魔がいるから。

戦国武将は天下を取るためには親兄弟を殺した。立身出世には家族を犠牲にしても当然の考え方をしている。それは神の道から外れる。天下を統一して、世の乱れを無くすとか、名が残るなら、子女は犠牲になっても本望と言うのは、都合の良いいいわけ。欲のために人を踏みにじるという事実には変わりない。

 

順風満帆の人生ももしかすると、霊に利用されているだけかもしれない。その場合用がすむとお払い箱になる。だから、徳積みをして、高級霊を引き止めて置くそうだ。そんなの小賢しい。正々堂々、まことを尽くすのよ。

 

外国の心霊科学と日本の心霊科学の明確な違いはまことの哲学。外国の心霊科学は外側だけ科学らしく装っているが中身がない。魂のない心霊科学。

 

心霊科学とまことの哲学。

まことの道は心霊学徒の道。心霊科学的懐疑はまことの道を開く。

仏教哲学は非心霊的である。釈迦の教えにはまことはない。なのにどうして日本に仏教が定着したのか、ドイツ人の弁。

神道のまことのままでは、普遍的ではないので、他宗から非難されてしまいます。ですから、哲学して、一般化する。

「釈迦の教えは正しい。心霊科学は間違っている。私は仏教を実践する」とおっしゃるのなら、それはそれでよいのです。思想、信仰は個人の自由ですから。私の言いたいのは、心霊科学と仏教的なものは区別すべきと言うことです。

 

外的に与えられて、霊性が高められると言うことはない。つまり教育や政治によって人々の内的世界を開眼させる試みは間違っている。霊性は人の内側からにじみ出てくるもの。

学校で教師が教えるものではない。現界の人智学者はどう反論するだろうか。

霊の世界は自分の内側の世界。外に居る現界の教師に指導されてどうこうできるものではない。心霊科学は、本人が自らのうちに湧き出るものに従って歩むものである。

であるから、心霊科学には専門家と言う身分はない。心霊学徒一人一人が自らの霊性の専門家なのである。だから、他人の霊性を外的に、現界の教育のように指導すると言うのは考えられない。また、自分の霊性を現界に居る人間に任せると言うのもおかしい。

つまり、審神者は、現界の教師とは違う。マイスターも現界の学校の教師とは違う。

 

霊学に専門家という身分を設定し、在る特定の人間以外霊学を行ってはいけないとするのはおかしい。霊学とはまことの学び。心霊科学の専門家以外まことを行ってはいけないというのは非常識。同様に人智学は自我の科学である。つまりおのれという存在の学び。人智学の専門家でなければ己自身を知ってはいけないとするのはおかしい。

そこで問題になるのは独我論。霊的問題での、哲学上の重大な誤謬。霊体験は極端な観念論に陥りやすい。

 

心霊科学のOSは仏教ではない。まことの哲学なのよ。

釈迦の言う、無とは、外的実在との関係を絶って自我からイマジネーションを追い出そうというもの。そうすれば確かに自我は無になれるだろうけど、霊性(高我)はどうなるのだろうか。釈迦は高我の迎え方を示していない。高我の場も実在的神として退けている。そうすると、仏教は宇宙と、あるいは仏と一体化するというけど、一体何と一つになるのだろうか。神と合一しないなら私たちには意味はない。私達の目的は、自らの霊性を、自らの内に沸き起こる力によって高めていくもの、即ち鎮魂。

        ↓  

       ミアレする自我、魂の火花

 

いつも死にたくなるけど、それは心を放し過ぎているから?外的世界から心を放して、全く閉ざしてしまうと苦になるのだろうか。釈迦が苦を見たのは、無になろうとしたからなのだ。そこからくる悟りの境地とは何を意味するのだろうか。エックハルトの離脱と同じものなのだろうか。エックハルトは離脱し、魂の火花がほとばしり、神を迎える。それに対して釈迦は無になるという。この両者のゴールは違うように感じる。たとえ無になったとしても、神が訪れるわけではない。むしろ神の訪れは拒否するのだ。私は心霊学徒だから、高級霊とのつながりが最重要課題なの。

 

全く外的世界から隔絶されるのなら、それは独我論に他ならない。独我論はこの宇宙に存するものである限り無意味。「あなたの悟りは独我論だ。無意味だ」と現代の哲学者に指摘されたら釈迦ならどう反論するだろうか。

 

霊が言うには、自殺するとそれがカルマになるから、自然に死ぬのを待った。それが釈迦が80才まで生きた主な理由なんだって。

外界との接触を断って、新しい因縁を作らないために、外的には何もしないで、ただ自然消滅するのを待つだけの毎日。それが釈迦の理想の境地なんだって…ヤマトは言い過ぎ。

ヤマトが言いたいのは、ここは現界だから、表出しないと駄目なんだって。良い行為にしろ悪い行為にしろ、環境や自分自身に対して、何らかのリアクションがなければ生きている意味がないんだって。業の兼ね合いを考えて、より霊性を高める生き方をするのが人間として相応しい在り方だって。無になっても神のお役には立てない。同じ精進するなら、出家するよりは、市井に在りながら、ボランティアして社会の役に立ったほうがいいって。なるほど(^-^)。

人間は業にまみれながらも、他に与える気持ち(グラール)を育てていく。無になるのと与える心は別のものだって。無になっても、グラールの保証はない。人間のあり方として正しいのは、無になることではなく、グラールを育むこと。

 

背後霊と人間は苦楽を分かち合う、本当の人生の同伴者。でも、喜びだけ霊に持っていかれているみたいに思う。だって、私は何も変わっていないもの。

初めて、あなたに会った時、あなたに喜びを取られたような感じがしたの。私はあなたに悲しみと恨みの雰囲気しか感じなかった。

 

あなたは逃げている所があるって、ヤマトがいう。人智学はあなたの分身だから、人智学にも逃げがあるって。そこが、今一、intuition の世界に入れない壁になっているらしい。具体的にはどんなことなの?

 

これ以上余計な因縁を作らないようにする心得、

@人を利用しようと思わない。人に譲ってもらわない。つまり、人に依存しない。

A依存心のある人と付き合わない。霊的に敏感だと、付き合っていくうちにこちらも心理 状態が落ちてくる。

B霊的修行の土台は家庭。家庭を業のごみ捨て場にはしないこと。家庭は社会の一部だと 心得ること。夫婦、親、兄弟、子供はそれぞれ別個の人間。人格と霊性を尊重すること。

 理屈では判っていても、感情的に理解できない夫や妻、父や母が居ります。高級霊に来て

 頂けるような、良い雰囲気の家庭を作るには、それぞれが大人の心をもって、業をぶつけ 合わないこと。「じゃあ何所で寛げばいいんだ」とおっしゃる亭主関白さんも御ありで しょうが、それは家庭に依存しています。別に威張らなくても寛げるはずです。威張る対 象がどうしても必要と言う方は心霊は止めたほうがいい。同じ心境の低級霊が集まって きて、他界後苦労します。

 業は取り合えず我慢して、そのあと心を放します。それを繰り返しておりますと、気付 かない間に解けてしまうものです。

 

依存に関連して、人を見下すというのも依存でしょう。自分がいちばんでいるためには、相手を馬鹿にするのが手っ取り早い方法。でも忘れては行けないのは、相手の方がレベルが高いかもしれないし、強力な背後霊が控えているかもしれないということ。

最近こんなことがありました。喧嘩している訳でもないのに、主人が「お前の足、両方びっこになれば釣り合いが取れていいんじゃないのか」というのです。何気ない会話の中でこういうのですから、これが主人の本心なんだと思い、ショックだったのです。そうやって落ち込んでいますと、川崎のご先祖が出てきて、頭を下げて謝りました。夫婦の間でも、この様に霊が出てきてけじめを付ける事があります。

息子は知的障害で特殊学級に通っていますが、背後霊は結構したたかで、立派な霊が付いております。要するに欲を持つ必要がないのです。浄化したい二、三の業があって、出世しなくてもいいから、マペースの人生を送りたいのです。人を外見や肩書きで判断しては行けないです。それは自分の家族に対してもです。霊界と付き合っていく上で、これだけは絶対に注意しなければ行けないところです。自分の霊性を大事にしたいのなら、相手の霊性も大切にしましょう。

 

人智学の表現で、「沈潜」というものがありまのす。この沈潜と依存心は紙一重です。人智学を実践するにあたり、この点を充分に考慮すること。つまり、信仰と依存、グラールと古い霊的器官の関連。経絡と物霊/The Geist of thing.

 

痛みと合一体験は同じ部類の感覚だと思う。最も私的な感覚なの。喜びや、感動等は分かち合えるけど、自分の痛みを他者に与えるということは出来ない。合一も、神とその人の高度に個人的な出来事だから、たとえマイスターでも立ち入れないものなの。もし立ち入ろうとするマイスターが居たなら、それは魔なの。マイスターはその行者の先達として、修行の手本となることしか出来ない。道は自分自身で歩まなければならない。痛いのも苦しいのも自分ひとり、自分の道も自分ひとり。でも、必ず、高級霊、守護の天使が見ていてくれるから心配は要らない。インテンションを磨くこと。それが統一なの。

 

Grail

名詞〈the 〜〉

1 グラール、聖杯(Holy Grail)キリストが最後の晩餐で用いたという杯。その行方の探求がアーサー王伝説の主題となっている。

2〈g‐〉命を授けてくれるもの、命のもと、大切なもの。 

 

 

intuition 認知

守護霊経由でくるintuition 認知をまこと・ロゴスと言う。そしてそれがたての類魂の本来の正しいあり方。フェンリルを起動させてはいけない。

それで、気とフェンリルの関係は?   マリアの密儀。

正しく、安全に行者をキリストの密儀に導くデバイスウェアが、聖母の密儀。

 

世界樹と湿原祭祀、ゲルマンと大和。

ゲシュタルトの本質は家族的類似性。ちょっと待って,家族的類似性だけだと複雑系になる。言語ゲームとセットで考えるべき。

複雑系は粒の概念が根底にある?その粒だって言語ゲームがあるから家族的類似性を持つのよ。つまり、言語ゲームがあるから粒でいられる。

 

科学的懐疑のザルノ目を小さくして、何度も越して行っても,残るのは滓でしょう。心霊科学的懐疑のしくみ、システムをもっと詳しく。この言葉を広めるべき。心霊科学的懐疑―審神者―言語ゲーム なのだ。

 

ゲーテの昼の科学と本田霊学

 

シュタイナーの見たものはゲシュタルトに類似する,ホロン構造。それを時空へ拡張したものが、ホワイトヘットの有機体の哲学?

 

創造されるグラール→物霊論

  @まこと、あわれを知る心においては、カルマと因縁は拒否されるが。それ   では、今まで私たちが使ってきた,因縁やカルマという言葉は、どんな意   味があるのか―類魂論、類魂のホロン構造。

   グラール=インテンションを認めるとカルマの法則は無意味になる。

   それなのに、カルマや超感覚を強調し過ぎてしまったらしいよ。

  A一切の概念,カルマと呼ばれるものを退けた時に、アカシックレコードは

   何を語るのだろうか―物霊論 アカシックの中にアシカビや世界樹はある

   のだろうか―三分制有機体論

   アトランティス―古事記 リンクするべし

  Bビジョン 人間を霊視すると、

    地球の重力→人体→経絡→精神→物霊(業)→よこの類魂→行為の表出

     =カルマ→社会  形態を変えて、進化するモナド,物霊。

霊的有機体論 

   @アスペクトする時空 

 

常世は外国のこと?北海道も含めて、

海の仕事をしていた先祖が他界して逝くところ。中国の神仙界。

 

天使→民族霊=産土神 その民族霊に時代霊が降りて、人間に啓示を与える。

キリストは天孫なのよ。そして、互いに進化しながら交代して現れる。

シュタイナーのビジョンした天使は、地球霊に在った低い物霊が進化したものなのだ。物霊は肉体を作るから、エーテル体と言える。現象として起きる物事だけを見ると、カルマが詰まっているように見える。ゲシュタルト的に相が変化するのであれば、カルマではない。

ゲシュタルトするとなぜカルマではないのかもっと説明しないと。

 

民族霊=産土神 そこへ大神が降りてきて、その地域や民族全体に働きかけて歴史を変えていく。それは民族全体の徳と物霊に関係して、産土神のグラールの強さに影響する。グラールのレベルによって,降りる天孫、時代霊の力が違ってくる。それは人でも同じ理屈。グラールの霊界での位置がその人の真実の姿。 

 

 

物霊

物霊の一つ一つは制御の情報である。

 

カルマの法則と言われるものは、物霊の出入りによって発現する一時的なもで、

少なくとも法則ではない。単純に物霊を持つが放すかによるものなのであ。

 

国学も人智学も、どうしてミスティクは政治に走るのだろうか。社会を現世的な力によって、霊的な国を作るのは出来ない。どんな国を作るかは神が決めること。政党を作って、神秘主義の政府をつくり、国民に神秘主義的政策を強要してもどうにもならない。一人一人のグラールを高めることが重要。外的な力で押し付けても霊性には関係ない。イデア論と同じ誤謬なのかな。霊的に理想の形は現象にはならないのに。

 

…したがって、因縁、カルマは慣用的表現に過ぎない。実在性のある何らかの力という訳ではない。それはこの言葉を使う人間の好みであって、習慣なのである。思い込みなだ。

 

人生は自分の力で作り上げていくもの。物霊(業)も少しずつ鍛えなおして向上させなければならない。

 

「心霊科学的懐疑」って何、私の背後霊が提唱する造語。物質科学的懐疑に対抗し、霊的真理に向かおうとする姿勢。論理学的哲学的背景が必要。それがウィトゲンシュタインの言語ゲーム。

 

事象の一つ一つは、家族的類似性があるだけで、概念ではない。カルマ的連関も概念の一形態なら、カルマも無い。

類魂は事象を動かす側の世界。だから、辞しようを動かすということ、つまり人の行為そのものが、人がその行為をしたという事実が問題になる。

 

どんなに鍛えて強靭な体になったとしても、どんなに出世して偉くなっても、人間は霊界の駒でしかない。

また、霊能力があって、一見人格的に良さそうな人物でも、出てくる霊が段々神経症的に成ってくると要注意。その人物は人柄の良さに付け込まれて、霊に利用されているだけなのかも知れない。とにかく、まことが問題。私欲を捨てて、まことを貫くこと。欲を持って霊能力があると、いずれ墓穴を掘る。

 

心霊科学的懐疑は、物質科学的懐疑とちがい、物事を結合し、統合するほうへ懐疑する。シュタイナーの「自由の哲学」と「神道神学入門」を心霊科学的懐疑して、両者の共有する言語ゲームを探し当て、新しい境地を開くというのが私の仕事らしい。

 

ゲーテ、ゲシュタルト、それは、生物本来の知覚システム。「見え」の知覚。そして「わかり」(実践)の知を表出する行為が心霊科学的懐疑といえる。この場合知と行為は不離のもので、言語ゲームの中でこれらが一体となって、次々と新たな言語ゲーム(事象)を生んでいく。この状況はカルマの法則では無い。

 

成功した人生を過ごして,人格的にも立派だったひとが、他界してからただの人になっている。ならいいけど迷う人もいる。逆に生前は飲んだ暮れの暴力夫だったのに他界してから真人間になっている人もいる。要するに憑いている霊なの。

死んで霊が離れるから,本当の自分にもどる。心霊遣っている私たちはその時に恥ずかしい姿にならないように。

 

霊界の何所からグラールが与えられるのか。あるいは遣って来るのか。霊界の何所にグラールがあるかで、その人の霊格がわかる→魂の大小

霊能があると操りやすい。本人の魂が低くても、操作する霊に力があると出世するし、人格者でいられる。小山みたいに

そんな人のほうが成功する。低級だけど力のある霊が集まるから。それじゃ、霊能って何ナノ。操り人形になること?高級霊に操られると鎮魂、統一という。

   

神に操って貰えるように、高級霊に最適化してもらうのが、鎮魂の行。上位中枢のコントロールをスムーズにする。

 

ゲルマンではこれをフェンリルといっている。

統一をしても、鎮魂せずに、フェンリルが活性化されてしまう。霊動が起きて、錯乱したり、人格の豹変がこれ。一般的な入神状態もこの部類に入るとシュタイナーは考えた。だから心霊科学を非難した。

今の人智学は百年前の心霊科学と同じ間違えをしているのではないのかな。ビジョンを科学的に、気の科学が霊体や、ビジョンを解明すると思っているのかしら。それは物質化現象の実験と同じ。霊学的には無意味。

ところで、フェンリルを成熟させるとシャクティになるらしい。

 

接神の行は? 

気を練って、鍛錬して宇宙と合一しても、それはキリストの密儀とは関係ないよ。

このところをうんと詳しく主張すること。

エーテル体をこねくり回しても、神に由来するインテンション認知は得られないよ。その行者が相応しいかどうかは、神が決めること。気を鍛錬しても、神との合一、突破は叶わないよ。神のインテンション認知を得るには、グラールを高めること。エーテル体は程々にしておく。だから超感覚もほどほど。気功で宇宙との合一感があるのは、エーテル体が肥大したために超感覚が発達し、周囲の情報を捕らえやすくなったから、環境と自分が一つになったように錯覚するのよ。気功の人は、自然と合一した、宇宙と一つになったとは言うけど、神と一つになった、キリストが自我に降臨したとは言わないよ。 

 

 

機能不全家族、

見た目はよい家庭。しかし、子供には活きずらい環境。子供に過保護だったり、過剰に期待を掛けたりする。逆に無関心で冷たい。子供にとってこの家族は仲間ではない。だから外に仲間を求める。

自分をいじめる事で、親への反抗をする。親を恨んでいて、自分か駄目になれば親への復習が出来る。だから非行をする。

先祖にも、機能不全先祖が居る。霊的向上より現世での出世を選んで、おれは戦国武将なんだって威張っている奴が居る。心霊科学的懐疑によって、カルマ思想は人霊に対する差別であると指摘する。

人は宇宙開闢以来の類魂を背負って生まれてきている。その類魂の全てがその人間の前世だと主張しても、否定は出来ない。その意味するところは、生まれ変わりのエクスプローラを辿ることは無意味だということである。

問題はこの先、もっとましな人間に成るためにはどうしたら良いかなのである。 

 

 

前世ではなく

それは前世ではなく、向上させなければならないもしくは、向上を欲している

霊が見えていたのではないか。つまり、一般にいう因縁霊。それはある現象(行為)を具現化する物霊をもっている。その物霊を向上させてグラールにする。

この物霊がカルマにみえたのか。

 

ウィトゲンシュタインとシュタイナーの接点を考える。

 ゲーテ→ゲシュタルト→ウィトゲンシュタイン→言語ゲームの世界

   └─→シュタイナー→人智学、それはグラールによって保証される世界の筈 

 

 

心霊科学的懐疑

心霊科学的懐疑によって、カルマ思想は人霊に対する差別であると結論する。

どうしてそういえる? 概念的に決め付けてしまうということ。貧乏のカルマがあるから貧乏なのだ。今不幸なのは、過去に悪いことをしたからなのだとおもいこむこと。人の人生はそんな一義的なものではない。

人は宇宙開闢以来の無数の類魂を背負って生きている。その類魂の全てがその人間の前世だと主張しても間違えではない。その意味するところは、生まれ変わりのエクスプローラは無駄だということ。問題は、この先人生いろいろあるけれど、少しでもましな人間に成れるように努力しなければならない。その為にはどうするのかである。 

 

 

全託と依存は違う

業を受け取る必要のない事項。

@直接行為して迷惑をかけたり悪いことをしていない限りは無視してよい。

A表現の自由は保障されている 名指しで悪口を言ったり、名 誉を傷つけない 限りは無視してよい。

B@、Aを守っている限りは、相 手の挑発に乗らないこと。こちらからルールを  破って業を貰う口実を作らないこと。まことを保っていれば、貰う理由はない。 因縁霊の挑発に乗らないこと。こちらに原因があるからではない。邪霊の挑発な んだ。

 

現世で出世する方が楽なんだ。同じだけの徳があるなら、出世したほうが、見栄えがするし、先祖も幽界で威張れる。

 

現世利益をすてて、困難な道を選んだ霊学の行者を妬んだり、馬鹿にしたりする人間はすんでいる世界が違う、たとえ同じ屋根の下に住んでいても。

 

依存してはいけない。依存は、自分が中心なの。その為に他人が必要になる。

私の周りには未だ変な霊がいるらしい。自分の人生に関係ない人の言動はきにしないこと。

 

英語版では、ヒットラーとユダヤのことは注意すること。日本だから話せる。

 

ゲーテ→ゲシュタルト→ウィトゲンシュタイン→言語ゲームの世界

    →シュタイナー→人智学、それはグラールによって確実性が保証され             カルマ的な概念の世界ではない。  世界のず。

人智学は物質科学のような概念の体系ではない。それなのにカルマを持ってくるのはおかしい。

カルマ思想は悪魔の取引と同じ。小山理論の徳積みの行もおなじ。ある一人の人間の人生のために、他の人が犠牲になるのはおかしい。小山先生のご先祖様は戦国時代の武将だから、そういう考え方をするらしい。天下を取るためなら、親兄弟は犠牲になってもいいというの。よくドラマでも、一族のために、天下万民のために天下を取る。と言っているけど、それは言い訳なのよ。神の道には反する。

神の道は親を敬う道、子供の出世のために親を利用するのは明らかにおかしい。

そんな川崎の先祖は、いわゆる百姓。変な霊が「わしは武士だ。総大将だ」と言って威張ると、川崎の先祖は「所詮は人切りじゃないか、人を殺して出世して、お前は未だ冥府にいるじゃないか」と言い返します。

他所の方の霊信で、殿様やお姫様が出てきて、殺しただの、殺されただのとおしゃっていますが、一番の被害者は農民なのです。だって勝手に武士が戦争をはじめて、田畑を踏み荒らして、財産を奪っていったのです。それで、殿様だ、お姫様だといわれても、合点が行かないです。 

 

 

接神

最近、いろいろな霊が遣って来るけど、愚老の次は、降魔。呪詛なんだ。愚老はその道に燻っているただの因縁霊だけど、降魔は積極的に攻撃してくる。愚老の背後には降魔が潜んでいる。愚老の陰に隠れて、攻撃するチャンスを狙っている。どうして、そんな悪霊を背負った人間が心霊を遣れるのだろう。そういう自分ははどうなの?

悪霊を背負っていても、まことがあれば、神は評価してくれる。でも、欲があった。先祖の中にもう一度現界で一旗あげたいと、出世欲のある霊がいたらしい。でも、降魔がなかなか退散してくれない。それじゃ神様に頼もう。でも、欲が深すぎて、このままでは来てもらえない。そのために心霊研究をした。でも目的はあくまでも、出世。世のため人のためではない。神を現世の俗事に利用するなんて、霊能者として許せないよ。

降魔はグラールを食べてしまう。心霊と両立させるのはむり。降魔は打つべし。

シュタイナーは、どうなのかな。シユタイナーの降魔は何か。インドの悪魔?

いや、それもあるけど、それだけではないよ。

出世欲を持って、努力する事が正しいのは、其処が現象の世界だから、高級霊の世界に入りたいのなら、其処から離れること。人間本人だけじゃない、ご先祖も、背後霊も、利害を捨てて精進しないと、神様は来ない。欲のある先祖は、たいてい現界で成功して、名を残している。でも、現界で成功することと、神に仕える身になることは別の問題。現界で成功すると言うことは、それだけ社会に貸しがあると言うこと。その人以外の子孫は苦労しているはす。

 

既に、霊的実体はなくなっているのに、いつまでも見えていることがある。要するに、思い込み、まぼろし。降魔はそこに付け入る。黄泉つ醜女は道祖神の仲間らしい。降魔を追い払ってくれる。イザナミの娘、アマテラスの妹、若姫の分霊。