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C O L U M N   L I B R A R Y


 「「ナウシカ」とヨハネの黙示録」
2002/8/27

 「風の谷のナウシカ」。著者は学生の時に映画館で見たが、たしかに感動的でインパクトのある映画だった。しかし、ガンダムらと同様、その当時は全くそこに宗教的な示唆的要素、予言(預言)的終末論的要素があろうとは夢にも思わなかった。
 映画版「ナウシカ」の中にはヨハネの黙示録と並行する部分が幾つかが発見される。

  1.「火の七日間」と呼ばれる戦争によって巨大文明が崩壊する。
  2.文明を滅ぼした張本人の最終兵器「巨神兵」が、わずかの期間蘇る。
  3.救世主降臨予言(預言)が成就する。
  4.平和が訪れる(映画版)。

 この流れは、概して黙示文学に頻繁に見られる中心的テーマである。
 宮崎アニメの初期の映画作品と呼べ、大変な人気があり話題になった「ナウシカ」(コナンにも言えるが)が、キリスト教圏ならびに一神教圏で特に中心教理の一角の終末思想を色濃く浮かび上がらせ、この日本でヒットしたのは、ガンダム、イデオンらと同様、有意味で価値ある現象だったのではなかろうか。
 それらのアニメに感動し触発され感化された青少年は今、社会に影響を与えられる年代となりつつある。そんな彼らの中から、今後総理大臣やその他大臣等の要職に就く人が現れれば、是非とも今のような政治不信を払拭させ、治安のよい犯罪の少ない社会を創ってもらいたいものだ…。

 最後に、ナウシカの救世主降臨予言(預言)成就の場面を記しておこう。


    大ババ「オオ!その者、青き衣をまといて金色の野に降り立つべし……古き言い伝えは、まことであった!」


 大ババは、思わず語り出してしまうが、これは幾つかの偶然の産物だった。王蟲の体液に染まって変色した青い服。その状態で金色に光る王蟲の触手の上に乗せられ、予言(預言)が成就することとなった。このような一見些細な出来事が重なり、重要な過去の言い伝えとシンクロしてゆく。これは本HP巻末で見たわらべ唄のメシア予言と通じるところがあるように感じる。





 
「ドラゴンボールに隠された神のメッセージ」 2002/7/25




 本HPに記した考察の基本的な部分を解明して一段落していた頃(97年頃)テレビで、あるアニメが放送されていた。軽快なオープニングテーマ、そして、軽快な中にも、しんみりとしたエンディング。著者は気が付いてみると、このアニメを毎回見てしまっていた。それが「ドラゴンボール」だった。
 物語自身は、どうということはない。前作アニメの「アラレちゃん」に毛の生えたようなものであり、エロチシズムまである。
 しかし、著者は普段の生活の中でエンディングは、口ずさむようになっていた。
 そんな折り、ふと冷静になって歌詞を考えてみた時、あることに気が付いたのだ。
 ということで、早速歌詞を見てみよう。

 『ロマンティックあげるよ』

 歌:橋本潮 
 作詞:吉田健美/作曲:池毅/編曲:田中公平 


 1.
 おいでファンタジー 好きさミステリー 
 君の若さ 隠さないで
 不思議したくて 冒険したくて 
 誰もみんな ウズウズしてる

 
大人のフリして あきらめちゃ 
 奇跡の謎など 解けないよ

 もっとワイルドに もっとたくましく 生きてごらん

 ロマンチックあげるよ ロマンチックあげるよ 
 ホントの勇気 みせてくれたら
 ロマンチックあげるよ ロマンチックあげるよ
 トキメク胸に キラキラ光った夢を あげるよ



 2.
 いつかワンダフル きっとビューティフル 
 人のジャングル 迷いこんで
 スリルしたくて 幸せしたくて 
 何故かみんな ソワソワしてる

 
思ったとおりに 叫ばなきゃ 
 願いは空まで 届かない

 もっとセクシーに もっと美しく 生きてごらん

 ロマンチックあげるよ ロマンチックあげるよ 
 ホントの涙 見せてくれたら
 ロマンチックあげるよ ロマンチックあげるよ
 淋しい心 やさしく包んで 愛をあげるよ



 歌詞もさることながら、メロディーもよいので、一度ビデオなどで聞いて貰いたい。

 著者が、気付いたのは赤でマークした部分だ。
一番では、奇跡の謎の解明達成を援助し、二番では、解明ができたならば、次はそれを世の中に発表せよと、鼓舞している
 著者はこの曲を通して、神がメッセージを送って下さったと、確信をしたものだ。
 世の中に起こる多くの出来事の中から、自身へのメッセージ、託宣・神託をピックアップするのは、そう難儀なことではない。ただ素直に耳を傾けていればよいのだ。

 
著者に語りかけられた神が、今度、あなたに向かってメッセージを送られるのは、明日かも知れない!
 と言っても、テレビやIN ばかりしていたらダメだぞ。著者からのメッセージだ!


 付 録

 マイナーなものに、いくら神のメッセージがあっても意味が小さいということは、本題の中にも記したが、「ドラゴンボール」は、その意味では、メジャーなアニメ、ジャパニメーションと言える。

 
ハリウッド・メジャーが、ついに日本のMANGAに触手を伸ばした。
 「ドラゴンボール」は鳥山明氏の原作で、84年から約12年にわたって「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載。単行本(全42巻)は1億2600万部と、日本bPの売り上げを誇り、テレビアニメも高視聴率を記録。17本が製作された劇場用アニメでは、延べ動員4900万人、興収362億円と一時代を築いた。
 全米でも98年夏からテレビアニメの放映、単行本の発売がスタート。公式サイトのアクセスが1日500万件を超える一大ブームとなり、20世紀フォックスでは約4カ月前から実写での映画化権取得に向け、集英社と交渉を重ねていた。
スポニチアネックス





  
「F.B.コナンのエンディング・テーマとメシア予言の相関」2002/7/8

 本HPは、ガンダムやイデオン、ザブングルと、聖書世界やメシア予言が相関していることを紹介しているのだが、前回のコメントでは未来少年コナンがガンダムらの原点ではないかとの考察を紹介した。とすれば、コナンの中にも聖書世界やメシア予言に相関する部分があっても不思議ではない。
 ということで、今回はそのエンディング・テーマと本HPのメシア予言の相関に特に注目して見てみることにしよう。
 読者の方は「未来少年コナン」というアニメのエンディング・テーマと言えばどんな歌詞を思い出されるであろうか。実は、調べてみると歌詞には何通りかのバリエーションがあるようだ。しかし、その中でも最もメジャーでよく知られているものは、テレビ放送時に使われた部分の歌詞と言える。


  「幸せの予感」
  作詩:片岡 輝 
  作曲・編曲:池辺 晋一郎
  歌:山路 ゆう子、鎌田 直純


こころがこんなにふるえるのは なぜ
両手が空へのびてゆくのは なぜ
両足が土をけって走るのは なぜ
こころはとらえるしあわせの予感
両手はつかむ ふくらみゆく希望
両足はかけてゆく はるかな地平
生きているから 明日(あした)があるから
地球がまわっているから


 本HPのメシア予言、或いは、わらべ唄は三つの部分からなっていたが、この歌詞も各々の三文法から構成されている。

歌   詞 小さな三文法 大きな三文法
こころがこんなにふるえるのは なぜ
両手が空へのびてゆくのは なぜ
両足が土をけって走るのは なぜ


現状と疑問
こころはとらえるしあわせの予感
両手はつかむ ふくらみゆく希望
両足はかけてゆく はるかな地平


現状把握・観察
生きているから
明日(あした)があるから
地球がまわっているから


解決
わらべ唄 メシア予言
かごめ かごめ かごの中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀とすべった
後の正面だれ
前  置  部
時 の 予言部「西暦2000年前後」

場所の予言部「韓半島・日本周辺」
人物の予言部「文師」

 「幸せの予感」=わらべ唄=メシア予言。 それらは、体を三つに捉えたり、メシア予言のポイントを三つに分けたりして、各々一連の流れを作っている。
 あまり驚くほどのことはなかったかも知れないが、あのコナンのエンディング・テーマが大小の三文法から構成されていたということは事実だ。
なんとなくメシア予言のプロトタイプのような感じもする
 これらの相関も富野監督が考えたのか。或いは、宮崎監督か。それとも他の人物が意図的にしたのか。著者は、これらは偶然の産物と思っている。そして、その背後にこそ神秘なる神の存在を感じている。

 次回は、
ドラゴンボールのエンディング・テーマ「ロマンティック あげるよ」に隠された、神のメッセージについて。
 予習をしておかれても、面白いかも知れない。





 「F.B.コナンがガンダム、イデオンの原点?!」2002/6/19


DVD版 第1巻


 ガンダムと言えばニュータイプ論。そして、その描写はア・バオア・クーの決戦のラストで見せたアムロの透視能力とテレパシー能力による仲間の救援だった。しかし、そのようなアムロのニュータイプ的描写の原点が未来少年コナンの中に既に描かれていた。と言ったら驚かれるだろうか。
 コナン最終話・第26話『大団円』では、ギガントでの戦いから帰ってこないコナン、ジムシー、ダイスらとは別動(インダストリアを脱出しハイハーバーへ向かう)するラナ達だが、ジムシーとダイスは偶然海上で合流できた。しかし、コナンはその船の航路とは全く別の場所を漂流し、普通だったら絶対に合うことができない状況にあった。
 ラオ博士は、それを察知したのか、ラナに超能力でコナンを探すようにうながす。ラナは、なんとかテレポート或いは幽体離脱によって空から海上を漂流するコナンを探し出した。コナンもラナが幽体として飛んで来てくれたことに気がつく。
 このスチュエーションは、ア・バオア・クーでアムロが透視能力とテレパシー能力によってフラウやセイラら仲間をランチへ誘導する場面とほぼ同じだ。
 そうこうして大団円となるのだが、最後はダイスとモンスリーが、コナンとラナが、ジムシーとテラが、更にはうまそー(豚)やバラクーダ号の船員達、皆がカップルとなってハッピーエンドを迎える。この場面は正にイデオンのラストシーンの、霊体となったコスモ達が皆カップルとなって宇宙を飛び、新たな生命誕生の星を目指して出発する場面を思い出す。また、皆が宇宙空間を飛行する様は、ラナが幽体としてコナンの所まで空を飛んでゆくシーンとよく似ている。富野監督が富野語として、宇宙を「ソラ」と呼ばせた原点も、ここから来ていたようにも思える。
 富野監督はコナンのラストからガンダムやイデオンのラストの発想を得たのだろうか。実際、富野監督はコナンについて次のようにコメントしている。

 『未来少年コナン』はフィルムをブツブツ切ってつなぎあわせて劇場映画化されたでしょう。
ぼくは『コナン』のファンだから、あの映画は見に行かなかった。(氷川竜介・藤津亮太 編『ガンダムの現場から』キネマ旬報社 p160)

 また富野監督は未来少年コナンの第14話と第21話(1978年)の絵コンテを担当していた。
 もし、未来少年コナンが存在しなかったら、ガンダムやイデオンは今とは別の作品になっていたかも知れない。あらためて宮崎監督の大きさを実感するかぎりだ。
 次回は、コナンのエンディング・テーマと、本HPで紹介したメシア予言の驚くべき相関を探ることにしよう。








 「このまえカラオケに行ってきた −イデオンについて−」2002/6/6

 勿論、歌ったのは「復活のイデオン」と「コスモスに君と」の二曲だ。
 しかし、「コスモスに君と」は名曲だ。今聴いても全く古びていない。また、最近のカラオケは音質が良く、元の伴奏が忠実に再現されている。いっしょに行った仲間も、その曲の濃厚で深遠で輝くような雰囲気に圧倒されている様子だった。特に間奏がよいと思う。
 著者は、よいテーマソングに恵まれた物語は、その内容・ストーリーもよいと信じている。未来少年コナン、ルパン、ガンダム、ザブングル…。これは主観の世界だから色々意見はあろうが。
 何が言いたいのかというと、やはりイデオンの映画がよかったということだ。まだ見ていない人は是非見て下さい。富野監督作品の頂点と評され、エヴァンゲリオン誕生のインパクトとなった一作だ。
 キャラクターやメカは、あの「スタートレック」(部分的には「2001年宇宙の旅」)のような雰囲気で(「スターウオーズ」のような華々しさはない。要するに、暗い)、それが返って物語の重厚さや深遠さを引き出している。
 物語は人類の誕生にまで関わってくる。「2001年宇宙の旅」もその面があったが、イデオンは日本版と言えよう。その意味でも貴重な一作なのではなかろうか。
 著者が好きなのは、前編「接触編」では、最初にイデオンがその姿を現すとき、人々はそれが伝説の巨神として良き力を示すものとは信じられず、戦闘が始まる場面。これはイエスがユダヤ民族の前に現れたとき、彼らは、それが神の子と信じられず十字架につける場面を連想する。イデオンは最後はガンドロワの輝きによって粉砕されるが、その異形は何本もの突起物の付いた茨(いばら)状の兵器だった。また、イエスのそれは二本の木がクロスしたものだったが、イデオンの場合は、何本もの突起とも言える。

ガンドロワ


 後編「発動編」では、これでもかと言わんばかりに押し寄せる敵メカと、交差するように導かれる和平へのチャンスの場。しかし、人々は悪い方へ悪い方へと向かってしまう。その悲しさ。その悲惨さ。そして、出てきてしまう残留思念(幽霊)や生き霊のようなもの(主人公のおたけび(イデの仕業だが))、これらが目に見える形で出てくるというのは、かなり危険な時、重要な時であるということを見る者にまざまざと知らしめるに充分だ。(聖書でも、イエスの再臨の時には墓から死人が蘇るという記述がある。)
 まさに、手に汗を握って目を潤ませ主人公と共に「なぜ闘う!!!」と叫びながら見るしかない物語だ。
 あれから20年程たっても、あれを越える物語は見たことがない。
 以前、友人とビデオで見たとき、「イデオンって、こんな映画だったっけ」とつぶやいた。彼は、当時に一度見たと言っていたが、年を重ねてから見たとき、見え方が変化したということを語ってくれた。一度見た方も再度、視点を改めて見ると新たな発見や感動もあるかも知れません(ちなみに著者は、これまでに10回程は観ました)。








 「ニュータイプとニュー・サイエンス」2002/5/17

 ニュー・サイエンスとは何か。

 
ニュー・サイエンス(new science)〔哲学・思想用語〕
 アメリカではニューエイジ・サイエンスとよばれる。いわゆるニュー・サイエンスは、近代科学に対する批判のなかから生まれてきたものであって、近代科学が秩序や合理性だけを求めて、その原理では把握できない無秩序なもの、非合理なものを取り入れなかったことを批判する。ニュー・サイエンスをもっとも強力に推し進めてきたのはオーストリア生まれの物理学者でアメリカで活躍しているフリッチョフ・カプラである。カプラは、ベイトソンからも影響を受け、現代の理論物理学と東洋の神秘主義とが相互に補足するものであることを主張した。ニュー・サイエンスは、部分的な真理よりも全体的な真理を優先させる。そのために、実践的な次元でエコロジー(環境保護)運動と結びつく。(自由国民社編『現代用語の基礎知識』97年版)

 天外伺朗氏の著書の内表紙には次のようにある。

 「ニューサイエンス(素粒子物理学など)と深層心理学と東洋哲学には、驚くほど一致している点がある。それらの接点から
「超能力」の謎が解けてきそうだ。さらに、超能力者を排除する社会的な抑圧がとれると、今後は、大量の超能力者(エスパー)が集団発生してくる可能性が考えられる。そのとき、私たち人類は、「悟り」に向かって目覚めていくのだろうか?それとも…。」(天外伺朗『「超能力」と「気」の謎に挑む』講談社ブルーバックス 1993年初版)

 天外氏はその著書の最後に次のように書いた。

 「(前略)『機動戦士ガンダム』が結論のようだ。太古の昔から、なぜか抑圧されてきた「超能力」や「気」が解放され、「ニュータイプ」が続々と誕生する世の中が近づいているらしい。」(天外伺朗『「超能力」と「気」の謎に挑む』講談社ブルーバックス 1993年初版 P239)

 「ニュータイプ」と「ニューサイエンス」の間には関連があるようだ。著者は度々「シンクロニシティ=偶然の一致」という言葉を使ってきたが、それは「ニューサイエンス」の枠内に収まるともされる。
 更に言えば、かのマルチ・スーパーライターの立花隆氏は『宇宙からの帰還』(中央公論社1983年初版)の中でも、最新科学によって支えられた宇宙飛行士たちの宇宙体験が、実は神との邂逅、精神世界の再発見という意外なドラマを生んだことを伝え,、映画『スターウォーズ』の中でも、「フォース」と呼ばれる一種の超能力を操るジェダイの騎士が活躍した。
 科学の進歩と宗教性・精神性、或いは、SFアニメと聖書。それらの間に一体何があったのだろうか。
 こう見てくると、「アニメと聖書の相関」というキーワードが突然変異的、突発的、孤立的なものではなく、それは必然的、自然的時代の流れ、世界的な潮流だったように思える。

 最後に富野監督の「ニュータイプ」という単語、概念、或いはストーリー展開に対する発言で締めくくることにしよう。

 「(前略)制作に入る前では、このくらいに構え、ニュータイプ・テーマの中でアムロたちを動かしてゆく、とまでは考えついていた。(中略)
 とはいえ、先の第1巻に掲載された僕の書いた<ガンダム設定書・原案>をお読みの読者は言うだろう。
 ”嘘を言っては困る。あの設定書の中に、ニュータイプの一語たりとも出ていないではないか。ニュータイプ話などは、ひいき目にみても24話ぐらいからしか、その前兆はなかった。むしろ、ララァを出した頃から慌てて出して、ラストを飾るこけおどしの思いつきではないか”……と。もっとゆずって、
 ”9話でマチルダに「エスパーかも知れない」とアムロに言っておいて結局、忘れていたんではないのか”という、疑問とお叱りを受けよう。
 そう言われても、やむを得ないと考えるから、腹も立てぬ。所詮、下手な総監督と笑ってくれてかまわぬ。(中略)
 事実、あの設定書を書いたのが1978年10月〜11月にかけてであり、設定書を書いた瞬間に関して言うならば、ニュータイプという単語を創造していなかったことは事実だ。(中略)
 設定書にあるような生身のキャラクターの気分を伝えながら、SF的表現は何なのか……と、これは1ヵ月近くも考えた。そして、思いついたのが、<ニュータイプ>。
 
この単語を思いついた時の嬉しかったことは、まず、読者諸君にどこまで判って貰えるか?」(氷川竜介・藤津亮太 編『ガンダムの現場から』キネマ旬報社 PP100-102)








 「シャローンについて」2002/4/23

 ”シャローン”とはヘブライ語で”平和・平安”を意味する。最近、テレビなどマスメディアはイスラエル軍によるパレスティナ暫定自治区への侵攻を頻繁に報道している。その火付け役としてあげられているのがイスラエルのシャロン首相だ。無論、その名は”シャローン=平和・平安”から来ているのだろう。しかし、彼は強行派として名が通っている。およそ平和・平安を愛する人というよりは、喧嘩っ早い攻撃的な人という感じを受ける。
 実は、ザブングルの物語の中にシャローンという名を持つ人物が一人いる。普通ならばそのような名の人物は平和的な温厚な人物として登場するのが妥当であろう。しかし、その物語では非常に悪らつな人物として描かれている。それが、主人公ジロンの両親を殺した「
ティンプ・シャローン」だ。


ティンプ・シャローン


 なぜ、そんな悪らつな人物の名に”シャローン”という名を付けたのだろうか。本Webページでの考察からすれば、おそらくアニメ制作スタッフは、その名の意味が平和・平安だということを知っていただろう。あえて逆説的にその名を付けたのではなかろうか。そうだとすれば、そのアニメ制作スタッフとはユダヤ教、或いは、宗教に対して蔑視・軽視している可能性も出てくる。しかし、それは、或いは、カモフラージュだったのかも知れない。
 色々な憶測は尽きないが、ザブングルの主人公=ジロンの両親を殺した張本人の名にシャローンが付けられた事実は消し去ることはできない。そのような重要な所にその名が来る。やはりアニメと宗教、ここには底知れないものを感じる。
 やはり、そんなことを感じるのは著者だけだろうか。






 「ターンエーを見に行って来た」2002/4/3



ターンエー・ガンダム




 先日、ターンエーを見に行って来た。著者はTV版の始めの方しか見ていなかったので、当然、興味津々で見た。映像ではラフな面も見られたが音楽・効果音はよかった。欲を言えば、最後のターンエックスとの決戦はイデオンのクライマックスのように、手に汗握る重厚なものにしてもらいたかった。
 今回、予言好きな著者が最も注目したところは、「地球光」の最後の方で、深夜、核兵器が炸裂したとき、それを遠くから見ていたディアナが「夜中の夜明けなど見たくはない」と、つぶやく。「月光蝶」の始めの方でも、同様の核兵器が今度は宇宙で炸裂し「宇宙の夜明け」と表現するが、ここでは前者のみをみてゆく。
 「夜中の夜明け」。核炸裂時の激しい閃光を地平線から昇る太陽の光(サンライズ)に喩えているのだが、どこかで聞いたことのあるようなフレーズではないか。そう、わらべ唄の歌詞の「夜明けの晩に…」だ。
 そこには一つのからくりがあるように見える。この物語の大きなテーマ「ターン・反転・回帰」をキーワードとして使用してみると次のようになる。

夜中の 夜明け 見たくない
反転 反転 反転
夜明けの 夜中・晩 見たい

 「ターン」「サンライズ」「夜明け」、そして「わらべ唄」。ここには何か意味が隠されていたのだろうか。ちなみに、そのセリフのすぐ後、空に虹が架かるシーンで「地球光」の幕を閉じた。意図的だったのか、シンクロニシティだったのか。さだかではないが、どちらにしても、ここまできたら有意味に思える。
 更に言うとすれば、TV版テーマソングは西城秀樹が歌うが、彼は韓国・朝鮮の血筋だと聞いた。そう見ると名前は、いかにも東条英機陸軍大将の「東」を「西」に置き換えたものにも思える。更には、主人公ロラン役の朴(下の名前は表示できず)さんは名前から見るとやはり韓国・朝鮮系か?と思える。
 予言では、メシア降臨の国として韓国・朝鮮を注目しているので、やはり、ますます意味ありげに思える…。







 
「富野監督テレビに出る!!」2002/3/18

 先日(2月28日(木)NHK総合テレビpm11:00「トップランナー」)、富野監督がテレビに出ておられた。著者がその顔と声を同時に見聞きしたのは、2、3年前、井上大輔の一件にコメントしている、ほんの数秒が最後だ。その前は、イデオンが放送されていた頃ぐらいだ。
 監督は、効果音入りでブリキのロボットのマネをしながら本番のスタジオに現れ、なにやら思いつくまま無邪気に、天真爛漫に語りまくった。少し緊張した様子も窺(うかが)えた。
 さて本題だが、この番組では監督の初期の作品として「鉄腕アトム」第96話「ロボット・ヒューチャー」(1964年11月28日放送)のVTRをまわし、色々批評したり感嘆の声を出したりしているが、問題は、その物語の中の会話だった。
 ロボットのヒューチャーはアトムに、こんなことを口走る。「
私には未来を予言する力があります。…悪い人間が私のことを知ったら大変なことになる。」というようなことを言っていた。
 このセリフやストーリーのどこまでが富野監督によるものなのかは、はっきり知らないが、これが監督の代表的な初期の脚本・演出作品として紹介されたことは事実だ。
 本Webページは、ほかでもない聖書或いはメシヤ予言が一つのポイントだが、その点から見ると今回の番組がこの時放送されたのは、著者にとっては、追い風となったと言える。世の中、不思議なことはある。神秘的だ。これからも監督には色々活躍してもらいたいものだ。そして奇跡を見せてもらいたい…。






 
「「めぐりあい」について考える」2002/3/10

 「めぐりあい」

作詞:井荻 麟(富野由悠季)
    /売野雅勇
作曲:井上大輔
編曲:鷲巣詩郎
歌 :井上大輔

Believe! 人は悲しみ重ねて 大人になる
いま 寂しさに震えてる
愛しい人の
その哀しみを 胸に抱いたままで
Believe! 涙よ 海へ還れ

恋しくて つのる想い
宇 茜色に染めてく

Yes,my sweet,Yes my sweetest
I wanna get back where you were
愛しい人よ もう一度
Yes,my sweet,Yes my sweetest
I wanna get back where you were
誰もひとりでは 生きられない
Believe! 帰らぬ人を想うと 胸は翳り
いま 哀しみの彼方から
舵をとれば
いつの日にか めぐり逢えると信じて
Believe! 涙よ 海へ還れ

愛しさに 胸焦し
想い 宇を染めあげる

Yes,my sweet,Yes my sweetest
I wanna get back where you were
愛しい人よ もう一度
Yes,my sweet,Yes my sweetest
I wanna get back where you were
愛しい人よ もう一度
Yes,my sweet,Yes my sweetest
I wanna get back where you were
誰もひとりでは 生きられない





 この曲は大変よい曲だ。今でも涙なくしては、口ずさむことができない。というのには一つの理由があった。
 本Wegページでは富野アニメと聖書の相関、更にそこからメシア予言の存在について考えてみたが、そのようなスタンスからこの曲を見ると実は、ある一つのテーマを切々と歌いあげていることに気が付く。
 それがまさに
「神の情動・悲哀」「人間の堕落(失楽園)に際した神の情動・悲哀の露呈」である。
 さっそく見ていこう。
 まず出だしに次のようにある。

「人は悲しみ重ねて 大人になる」

 ここには、未だ大人に成りきっていない人・青年を目の前に置いていることが表現されている。これはエデンの園での夫婦関係をもつ前・堕落前のアダムとエバが連想され、また、悲しみを伴って大人になるという失楽園神話と呼応する内容となっている。
 次の行、

 「いま 寂しさに震えてる 愛しい人の その哀しみを 胸に抱いたままで Believe! 涙よ 海へ還れ 恋しくて つのる想い 宇 茜色に染めてく」

 これも、前の行に続いて人の堕落を目の当たりにした神の悲しみが表現されているように見える。
 2番の、

 「帰らぬ人を想うと 胸は翳り」「いつの日にか めぐり逢えると信じて」「愛しさに 胸焦し 想い 宇を染めあげる」

 これらも全く同様である。一つひとつの歌詞は実に心に迫ってくる感じがする。よい詩だ。

 注目したいのは、

 「恋しくて つのる想い 
宇 茜色に染めてく」「帰らぬ人を想うと 胸は翳(かげ)り」「愛しさに 胸焦し 想い 宇を染めあげる

 これは全て、夕焼けの空に関係することが分かる。広辞苑には、「茜色」は、「茜の根で染めた色。赤色のやや沈んだ色。暗赤色。」とあり、「茜雲」は、「朝日や夕日を受けて茜色に映える雲。」とある。
 「翳(かげ)り」も、辞書には「陰り」と同様に用いられ、「雲などによる、陽光・月光の一時的なくもり。」とある。
 「宇を染めあげる」も、朝焼けか、夕焼けをイメージさせる。
 これらから言えることは、誰かの切ない心の動きを、太陽が真っ赤に空を焦がす様で表現しているという点だ。
 普通の歌謡曲の歌詞にそれが歌われているのならば、離ればなれになった男女が相手との再会を夢想している切ない様子なのだが、ここではエデンの園に視点を置くから、それは神が堕落したアダムとエバに抱いている情動となる。

 「
は悲しみ重ねて 大人になる」「愛しい人のその哀しみ」「帰らぬ人を想うと」「愛しい人よ もう一度」これらの中の「」とは「アダムとエバ」のことと思える。

 そして、最後に重要な一言が語られている。

 「
誰もひとりでは 生きられない

 これまで一般に、キリスト教などでは、神は自存独立し一人で全てのものを所有し、充足し、完全無欠であると説かれたが、神の情動を表現していると思われるこの曲の最後は、非常に意外なものである。
 富野監督は、これまでの作品群の中で、頻繁に意外な展開や意外な結末を披露したが、それを思えばここでも、流れとして意外な歌詞を挿入したのは、むしろ監督らしさであり納得はできる。また、異性間の情動をテーマにしている場合も納得はできる。しかし、ここでの解釈から見れば意外である。
 しかし、よく考えると、富野監督は意外性を売りにした作家と言えるのだが、ここで、もしそれが異性間の情動表現だったら意外ではないのではないか。むしろ、平凡な幕切れの歌詞となる。
 著者としては、これが最も言いたかったメッセージなのではないかと思っているが、それがまさに、「
神も一人では生きられない」という意外な事実の示唆に富んだ歌詞ではないかということだ。
 神も一人では生きていけなかった。だから人を創造した。
 神は、人を必要とされた。だから、人を愛された。ここまで導いて下さった。
 
この曲には神が人類に語りたかった、天地創造、人類創造の動機が見事に歌い込まれていたのではなかろうか… !



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