3章 神、宗教とアニメ ---富野監督、及び関係者の発言集+宗教的設定---
富野監督をはじめアニメ制作スタッフ、その他関係者へのインタビューが幾つかのアニメ雑誌に載っている。その中には、意外にも「神」或いは「宗教」に関する発言が少なからず散見できる。
彼らの「神観」「宗教観」を知るための手掛かりとして、見ておくことにしよう。
1.富野監督の発言
…『ガンダム』の世界を創造してゆこうと考えているのです。
それは、永遠不滅と思える神の世界かも知れません。が、それでは、救いにもなりません。なぜならば、神という存在さえ人間が作り出したものだと思うからです。では、何か? 未来とは……?(氷川竜介・藤津亮太
編『ガンダムの現場から』キネマ旬報社 P85)
先に、私たちは、神さえも人が創るといいました。そして、残念ながら、『ガンダム』では神の存在へ肉迫し、創ることは出来ませんでした。(氷川竜介・藤津亮太
編『ガンダムの現場から』キネマ旬報社 P87)
私たちは、『ガンダム』を制作するにあたって、一つの哲学を設定しました。デンマークの思想家キルケゴール(哲学者、宗教思想家)の言う”絶望は死に至る病である”。(氷川竜介・藤津亮太
編『ガンダムの現場から』キネマ旬報社 P89)
アムロが向かわなければならないのは、ニュータイプそのものによって構築される世界なのです。これは、私たちに描ける世界ではありません。人が永遠に希望する世界であり、ひょっとすると神が隣接する世界かも知れないのですから……。(氷川竜介・藤津亮太
編『ガンダムの現場から』キネマ旬報社 P90)
現在より進化する人類の型は、俗に神様なんだよね。と、思ってしまうわけだ。が、これでは通俗的だし、だいたい神様を持ち出した瞬間に、物語というのはいくらでも逃げ道ができてしまう。
神様はオールマイティー(全能者)なのだから、何をやってもいいことになる。(中略)これでは(中略)しらけて終わるだろう。(氷川竜介・藤津亮太
編『ガンダムの現場から』キネマ旬報社 P102)
結局、われわれ自身が求めているのは、人の光明を見たいということに尽きるのではないか。では、その光明の世界とは何なのか? それは神に隣接する世界かも知れないと言ってもみたんだけど、現実問題といて神なのか、神でないのか? という問題一つをとっても、要するにもう宗教が発生して以来、未だに一神教、多神教を含めて解明されていないような人間論というものを、浮き出させるなんてことは不遜の極みなんです。
要するに本来凡人がやってはいけないことだとも思える……しかし、20世紀も後半に入っている現代というものを見てきた時に、人間というものが単なる輪廻転生の繰り返しでいいのかということまで含めて考えてみた時に、あのニュータイプという言葉を、やっぱり投げかけざるを得なかった。(氷川竜介・藤津亮太
編『ガンダムの現場から』キネマ旬報社 P134)
僕は、クリスチャンでも仏教徒でもないから、キリスト教でいうところの愛がどういうものかは知らない。仏陀のいう慈悲も知らない。が、僕が勝手に信じていることはこういうことだ。
愛とは、現実のしのぎあいがあって、はじめて証されることではないのだろうか? ということである。
愛は、甘美ではないはずなのだ。本来……。それを、美しく、甘く、一つの高みの象徴としての力を持っているように、仕立てた人々がいるのではないか? と、ふと思う。(氷川竜介・藤津亮太
編『ガンダムの現場から』キネマ旬報社 P188)
少なくとも西洋人が持つ、宗教観、論理的思考の訓練があって、ラヴという言葉の成立がある。我々(日本人)が、ナウさの感性で捉える愛とは質感が異なる。
つまり、ジョン・レノンが、愛で世界を救え、と叫ぶ愛と、人類みな兄妹、というキャッチフレーズに内在する連帯感は質的にかなりの距離がある。(氷川竜介・藤津亮太
編『ガンダムの現場から』キネマ旬報社 P189)
僕は、人間の知恵が生み出した”神”という概念に相対する一つの”力”として、イデを考えてみたんです。で、話しを分かりやすくするために、エゴイスティックな人々を描いてみた。(中島紳介・斎藤良一・永島
收『イデオンという伝説』太田出版 PP190〜191)
『イデオン』にかかるとき、別の角度からニュータイプ論を描けないか考えられないかと、資料を集めたり、学識を得たいと思って『イデオン』に取りかかったことが、輪廻転生、リーインカーネーションということにつながっていったんです。
(中略)イデという言葉が出てきた瞬間に、ニュータイプのバリエーションじゃないということをいわれたけれども、別の作品だから、同一線上にあっても違う方向から持ってこなくちゃいけないんだと決めました。そのために、どうしても宗教界にちりばめられた、思惟を語る言葉を勉強する必要があったので、仏教関係の本とか、イスラム語やヒンズー語の辞書を買って調べたりはしました。
(中略)イデというものを持ち出した最初の二、三話までに関して、見た人たちがニュータイプ論との比較でグタグタッと何かいうわけです。ところがその後、『発動編』でエンディングを見た後になると、イデの問題とニュータイプ論というのを一緒にした人は誰もいないですね。
(中略)要するにイデというのは、もっと大きな、蓋然論としての何か、存在そのものの問題を提示しているということなのかもしれないからです。神もイデなるものの一部かもしれないというようなね。(中島紳介・斎藤良一・永島
收『イデオンという伝説』太田出版 PP225〜226)
(続編が作られるとすれば、その)『イデオン』という作品は、ワールドワイドに、無宗教に受け入れられていく作品になる。これは、目指していい仕事だなと思っちゃうなあ。(中島紳介・斎藤良一・永島
收『イデオンという伝説』太田出版 P230)
キリスト教文化圏の人間が作ったときに『2001年(宇宙の旅)』になってしまうんです。僕は八百万の神の日本の人間です。ですから、『イデオン』は東洋の人間が作ったものといえます。
(中略)イデというのは、東洋人が借物の一神教を持ってきているだけのことで、じゃあイデが善なるものとして肯定できたのかといったら、できないから、ああしたと。(中島紳介・斎藤良一・永島
收『イデオンという伝説』太田出版 PP244〜245)
…イデオンの大団円が、オールヌードで処理できたという作品的な幸福を手に入れることができた。霊的な表現のラストシーンを服を着たキャラクターで描くことは適切でないからだ。(富野由悠季『だから僕は…』角川スニーカー文庫 P311)
(インタビュアー ---『イデオン』は『ガンダム』のニュータイプ論とはまた違う意味で、かなり宗教的な受けとめられ方をしましたが。)
それに関しては『イデオン』を始めた時にわかったことなんだけど、さっきのカリスマの話とも関与してきます。これは応援してくださった方とかファンに申し訳ないんだけれども、「ああそうか。カリスマを欲しがる人たちというのは、こういう人なのか」というのがわかってしまった。それを宗教という言葉にすり替えていくと、ひょとしたら旧来の宗教にもそういう要素があるのではと。その有り様も含めて、まさに信者を救う、貧しい人を救うのが宗教なんだということがわかった時に、そういうものを必要とする人がいるということに対して、(中略)”切ない”ものだなということです。(中略)僕も切ない人で、だからこそ心の拠り所を宗教に求めてしまう人の心が良くわかるという意味もありますから、必ずしも当時の『イデオン』の支援者たちを卑下する言葉ではありません。(『富野由悠季 全仕事』キネマ旬報社 P177)
(『踊る大捜査線』監督 本広克行氏との対談にて ---『ガンダム』も『イデオン』も、『ザブングル』もそうかな? 結構集団というものを箱船のようにまとめて描いていますよね。どこからそういうアイディアをもってきているんですか? やっぱり『聖書』などからですか?)
いえ、違います。それは僕が戯作者じゃないからです。本当の戯作者だったら、男と女の物語だって描けるはずですから。(『富野由悠季 全仕事』キネマ旬報社 P220)
(小説家 福井晴敏氏との対談にて)
最近僕自身わかってきたことだけど、神とは極度に曖昧なものだと思う。我々は借り物のキリスト教である一神教に汚染され過ぎた。日本人というのは元々八百万の神論であったわけだし、仏教というものを平気で受け入れた民族でもあった。そのフレキシブル性が、元々アニミズムとしてあった。(『富野由悠季 全仕事』キネマ旬報社 P312)
2.関係者の発言
(真・新世紀へ向けてのニュータイプ宣言……編集後記にかえて……)
この本は「ガンダム教」の「教典」などではない。(氷川竜介・藤津亮太
編『ガンダムの現場から』キネマ旬報社 P257)
中島紳介氏
なにがショックといって、『ガンダム』の最終回で「僕にはまだ帰れるところがあるんだ」と主人公にいわしめた同じ富野監督が、今度は見知らぬ惑星に転生していくしか和解するすべのなかった人々を描いたということ。もしここで、その新しい星こそが現在の地球であったのかもしれないと考えたとき、そこに描かれた絶望と諦念は限りなく深い。とすれば、「輪廻転生に救いを見いだした宗教的アニメ」などという陽気な解釈をして片づけることが、どうしてできよう? これが宗教などであるはずがない。SFという物語装置を使ってしか描き得ない、人類とその文明に対する冷徹な自己批評。『イデオン』とはそういう作品である。(中島紳介・斎藤良一・永島
收『イデオンという伝説』太田出版 PP9〜10)
(インタビュアー ---哲学的というか、宗教へ一歩踏み込んでしまった内容でした。)
メカデザイン 樋口雄一氏
その辺に気付いてからは、イラストを描くときにも、ヒーローロボットとしての格好良い構図はとらないようにしました。(中島紳介・斎藤良一・永島
收『イデオンという伝説』太田出版 P113)
東急エージェンシー 小原麻美氏
(イデオンは)あそこまで観念的な話だとは思わなかった。私はこの仕事に就く前から富野さんのファンでしたから、富野さん、宗教に凝ってるのかと思って心配になっちゃいましたから(笑)。(中島紳介・斎藤良一・永島
收『イデオンという伝説』太田出版 P117)
キングレコード・ディレクター 藤田純二氏
富野監督の想いとすぎやまさんの意欲がうまく噛み合ったのが『イデオン』のテレビシリーズの音楽だった、ということは確かにいえると思います。
それは劇場版のときも同じでしたが、今度は音響監督の浦上靖夫さんの主張も加わって、ああいった合唱曲を取り入れた宗教音楽的な雰囲気になっていきました。(中島紳介・斎藤良一・永島
收『イデオンという伝説』太田出版 P137)
脚本家 富田祐弘氏
僕は六九、七〇年の学生運動、大学闘争の渦中で戦っていたんです。だから体制と個人の関わり、神の存在と人間、課せられた運命に対して個人がどこまで反発できるか----などに興味を抱いているときでした。その意味で『イデオン』という作品は僕にとって書きたい素材であったことは確かです。神の存在を意識し、運命に流される人間がどこまで自律的に能動的に行動できるか。人類が神を越えることは可能なのか? これが僕のシナリオ作りの課題でした。
だけど、この類のテーマって、答えを出すのが難しいんですよね。
明確に答えが出せれば、それは教祖さまですからね(笑)。いかがわしい宗教みたいにウソはつけない。その意味で、僕より深く、高いところで思考していた富野さんはより大変だったと思いますね。(中島紳介・斎藤良一・永島
收『イデオンという伝説』太田出版 P153)
脚本家 松崎健一氏
(イデオンの)本当の解釈は、監督の頭の中にしかないということですね。
僕の解釈というのは……まあ、浄化と再生の物語ですよね。宗教的に解釈してもいいし、単純に、そういった宇宙的な歴史の流れの中で一つの戦いがあったんだと解釈してもいいし。人間以上のイデという絶対的な存在を前提にした歴史を描いたんだと考えてもいいし。
端的に、監督の解釈というのを聞いてみたい気もしますけどね。(中島紳介・斎藤良一・永島 收『イデオンという伝説』太田出版 P155)
本書の読者の中に「明るいイデオン」を覚えている方はいらっしゃるだろうか。……そう、劇場版『イデオン』公開前に行われた宣伝活動のことである。
(中略)あの宣伝は通常では考えることすらできないような、常軌を逸した代物だったのだ。
(中略)よくぞ周囲の者が許した、というほどのレベルのもので、けが人が続出したため”イデ神社”を奉ろう(中略)ということになったとき、富野監督が協力してくれた鷺宮神社の神主さんに「本当にこんなことしていいんでしょうか」と語ったというエピソードが残っているくらいである。(中島紳介・斎藤良一・永島
收『イデオンという伝説』太田出版 PP158〜159)
文筆家 鶴岡法斎氏
も、え、あ、が、れ、
もえあがれ
燃え上がれガンダム
君よ 走れ
まだ 怒りに燃える 闘志があるなら
巨大な敵を 討てよ 討てよ 討てよ
正義の怒りを ぶつけろ ガンダム
機動戦士 ガンダム ガンダム
これが一番である。もうアニメソングの代表格として有名になってしまった曲である。この作詞は井荻麟、即ち監督である富野由悠季(当時は「喜幸」)である。
(中略)作詞者は『ガンダム』に対して扇動をしているだけなのである。さらに歌詞の中ではガンダムはまだ戦っていない。これから戦う生まれたての戦士なのである。それに対する作詞者の視点は神のものと同等である。
どうやっても同志や応援者などにはならない。明らかに高い視点から彼に対して語りかけているのである。
しかもである、この「神」は命令する存在ではない。「まだ怒りに燃える闘志があるなら」とガンダムを試しているのである。
雑誌『G2O』(アスキー刊)第2号のインタビューで『ガンダム』のナレーションを担当した声優の永井一郎は脚本を読んで『高い視点からの神の声』を意識したという。
つまりここで富野監督という神による人類の試練(実験、と表現してもいいだろう)が垣間見えるのである。(『富野由悠季 全仕事』キネマ旬報社 P322)
3.宗教的設定
ブライト・ノアの名前の由来
(ホワイトベース艦長 ブライト・ノアの名前の由来について、富野監督が言う。)
ブライト・ノアはノアの箱舟の輝き(brighten)です。(氷川竜介・藤津亮太
編『ガンダムの現場から』キネマ旬報社 P69)
シールド
ガンダムが手に持っているシールドには、明らかにクロス、十字架のエンブレムが確認できる。

マリア・マリア
(ザブングルに登場した人物)
”聖母”マリアと同じ名前。(中略)ゾラのような環境では、自己防衛本能があるならば、必ず自らを守るために武器を持つはず。マリアがそれをしなかったのは、そうした本能が欠落した”新しい種”なのでは?「相手を恐いと思わなければ、憎しみは生まれない」---彼女の言葉は、「ガンダム」のニュータイプの概念を語っています。マリアは新生の象徴なのでしょうか?(『アニメック 24号』ラポート P37)

ダンバインのナレーション
『聖戦士ダンバイン』は、ザブングルの後、1983年に富野監督が手がけたアニメで、その後、小説『オーラバトラー戦記』・『リーンの翼』、OVA『ガーゼィの翼』へと展開し、富野監督のライフワークとされている。
そのダンバインのナレーションに次のような一節がある。
「バイストン・ウェルをおぼえている者は幸せである。心、豊かであろうから…」
これは聖書の有名な聖句、山上の垂訓と文脈がほぼ一致している。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう…。」(新約聖書 マタイ3/3〜5)
エピローグ
さあ、いかがだったでしょうか。ガンダム・イデオン・ザブングルという三つの富野アニメに隠されていた聖書の世界について、どのように感じられたでしょうか。もしも、マイナーなアニメ等からそれに類する部分が発見されたとしても特に注目することはないでしょう。なぜなら、人に影響を与え、社会に影響を与えることのできないものには能動的な意味性を見出せないからだ。そのようなものは、ローカルな面では価値があってもグローバルには通用しない。多くの人の心を動かし、社会を動かすものには神にも通じるような神秘性を感じる。
その意味で、著者は長く日本人青年の心を鷲づかみにしてきた富野アニメの背後にこそ何かあるのではないか、という感触は昨今強くなるばかりだ。
著者が数々の富野アニメの中で特に心引かれているものがイデオンだが、そこにははっきりとメシアが登場し、英雄伝説、救世主待望思想がキーパーソンとなっている。著者は富野アニメと聖書の世界の相関の奥義とはそこではないかと捉えている。
アニメと宗教の一致。この世は神秘である。ではまた一緒に楽しみましょう・・・。
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