“砂漠の狐”研究

 

2年6組 42番 湊元彦


目次
1. はじめに
2. ロンメル将軍の略歴
3. ロンメル将軍の軍事的才能
4. ロンメル将軍の人生観や信条
5. まとめ
6. 参考文献
7. 世界の動きとロンメル将軍


1.はじめに
 “ワールドタンクミュージアム(タカラ)”というお菓子付きのミニチュアが発売されている。

第二次世界大戦当時の戦車を各種迷彩塗装したもので全長は3cmほどだが、丁寧につくられており出来がよい。このミニチュアを見ていて第二次世界大戦のことについて調べようと思った。

最初は当時のドイツの兵器について調べるつもりだったが、父と話していたら「じゃあロンメル将軍って知っているか?」と訊かれて、僕も、名前は聞いたことはあるけれど余りよく知らなかったので、調べてみようと思った。


2.ロンメル将軍の略歴
シュツットガルドの東方ハイデンハイムという町で、1891年11月15日に生まれ、1908年の秋にロイヤルエレメンタリースクール(王立新中等学校)に5年生として編入される。
1910年に士官候補生として歩兵連隊に入隊。(このとき工兵隊と砲兵隊はロンメルが若いので志願を拒否)翌年ダンヒチ士官学校にはいり1912年卒業し、歩兵少尉となる。
1914年には、第1次世界大戦フランス、イタリア戦線で功績をあげ、プール・ル・メリット勲章などを授与される。(プール・ル・メリット勲章は伝説になりつつある人しか授与していない)
敗戦の後の1929ドレスデン歩兵学校教官となり、この時期に『歩兵の攻撃』を書く。
1939年陸軍少尉に昇進。(この年に第二次世界大戦勃発) 

ポーランド戦終了後、歩兵戦術の権威者といわれていたロンメルは第7装甲師団長に任命される。
ロンメルは装甲部隊でも名指揮官であったので、新しい環境への適応力を買われ、アフリカ戦線へ配備される。(最初のころは幽霊師団と呼ばれるが、後に砂漠の狐と呼ばれるようになり、このころにチャーチルは、当時下院においてロンメルを称賛する言葉を述べた)
その後病気を患いドイツで療養するが、戦線に復帰。しかし連合軍のノルマンディー上陸作戦のときに重傷を負い、戦線を去った。
1944年7月に、ヒトラー暗殺未遂事件が起こり、ヒトラーの部下が自分の出世のために、ロンメルが戦争終結を画策していたとされ、服毒自殺をはかり、死亡した。ロンメルは国葬されたがその死因は、以前の負傷による死亡とされた。


3.ロンメル将軍の軍事的才能

ここでは、ロンメルの部隊が“砂漠の狐”と呼ばれ始めたトブルク陥落について調べてみる

<見通し>
戦闘第1日目の1941年6月15日は、焼けつくような炎熱と、息もつまるような砂煙の中で1日中戦車戦、あるいは歩兵の戦闘が続いた。ロンメルの戦いに関する見とおしはよくなかった。戦車の数は敵が約190輌に対し、こちらは約150輌の上に95輌だけがパンサー?型および?型という真の戦闘戦車でしかなかったし、敵戦車のうちの約100輌が、マチルダ型戦車というきわめて強力な戦車であり、この戦車はドイツ軍の戦車の2倍の装甲を持っていて、37ミリ対戦車砲が命中しても跳ね返してしまう戦車であった。

 

<戦闘>

しかしロンメルは以前に行われた戦いの後を無駄に過ごしてはおらず、マチルダ型戦車には88ミリ高射砲しか効果がないことを知り、壕を掘らせて数少ない砲を戦場に配備しておいた。

 

6月15日の戦闘で決着はつかなかったが、高原のほうに向かってきた敵のマチルダ型戦車12輌のうち11輌を味方の軍の88ミリ砲が撃破し、陣地の海岸よりから攻撃してきた。マチルダ型戦車6輌のうち4輌は地雷原の中で破壊されていた。その上、第15戦車師団は敵戦車60両を破壊したと報告してきた。

 

6月16日は反撃を決行するも、強力な敵に阻まれ失敗した。(2方向に分かれて攻撃した内、1部隊の第15戦車師団は戦車80輌のうち行動可能だったのは35輌しかいなくなり退却し、もう1つの部隊である第5軽戦車師団は、敵と交戦し進行できなかった)

 

6月17日は、第5軽師団は午前4時半から作戦を開始し、午前6時に最初の目的地であるシディ・スレイマンに到達し、第15戦車師団もその目標に到達した。そして敵の退路を断つことに成功した。(このときにロンメルは無線の傍受によって、敵は自分たちが受けた攻撃について、驚愕し、恐慌状態に陥っていることがわかっていた。さらに無線傍受によって、午前7時45分には敵の機甲旅団は弾薬が尽きたことを知っていた。)

ロンメルはその後も戦い、6月20日午前8時に空軍の全面的な協力のもと攻撃を開始し、昼前には敵の地雷原に到達し、約7時間後にトブルクに突入。そして、6月21日に午前8時にはトブルクの守備隊は降伏し、約1日でトブルクは陥落した。


[評価]

このようにロンメルは相手の予測しない攻撃をすることが多い。

彼がこのような作戦を取れた理由は大きく分けると二つあると思う。

一つは早くから装甲車や戦車など自走する兵器に目をつけそれらを最大限に有効活用する作戦を編み出していたこと。(先見の明と研究熱心)

もう一つは実際の戦場においては、非常に大胆に行動ができたこと。例えば相手の陣地の近くを一気に攻撃したり、早急な攻撃をすれば敵を倒せると思ったとき、命令を無視し突撃したりした。(瞬時の決断と行動)どちらか一方だけではロンメルのように劇的な成功をおさめることはできなかったと思う。 
4.ロンメル将軍の人生観や信条

ロンメルは多くのナチス高官とは異なり、敵のコマンド部隊を捕虜にしたとき、水や食料などを与え、ヒトラーからコマンド部隊を捕虜にしたのなら、即刻引き渡すように言われていたのに、彼はそれを拒否したりしたため、騎士的精神をもっていたと言われている。これはロンメル自身が”やるべきこと”、”やってはいけないこと”の価値基準をもっていて、それが周りの環境や上官からの命令によって左右されない揺るぎのないものであったためだと思う。そうでないと周囲が皆"右”と言っているのに一人毅然と”左”に向かうようなことはできない。

また彼の持っていたその価値基準がヒトラーのように独善的なものではなく普遍的なものに近いものであったために戦争中であっても敵からも尊敬されたのだと思う。

 ロンメルが死んでしまった理由は、彼の性格により周りに敵が(特に高官をなんとも思わずに罵倒したりしたため)多くなりそのなかで、自分が出世するために(ヒトラーは錯乱状態に陥っており、人の言葉を信じやすかった)ロンメルを陥れたので、ロンメルは自殺しなければならなかった。


5.まとめ

もし自分がロンメル将軍の立場だったら、とても生きていくことは出来ないし、また、アフリカ軍団の司令官に任命されるなどの大役は任されなかったと思う。僕には 、ロンメル将軍のような指揮能力や、味方の士気を上昇させたりする能力は持ってないからだ。僕は、この研究前ロンメル将軍については、いろいろ聞いていて、常勝無敗であり、普通の人間とは何か違う非凡な人間だと思っていた。研究後は彼も普通の人間であり、自分の健康に気をつけていたり、負けることもあったりしたということがわかった。どのような大きな責任についている人間も全てにおいて完璧という事は無いと感じた。そのような中でも“自分自身の価値基準を持つこと”、“先見の明を持つこと”、“常に研究熱心であること”、“瞬時の決断と行動”がとれることがロンメル将軍の成功を支えていたと思う。

 

ロンメル将軍のそういうところをを参考にしたいと思う。


6.参考文献
    
狐の足跡 上・下  著者 デイビット.アーヴィン
                訳者 小城 正
               出版社 早川書房

第二次世界大戦   将軍ガイド      

               著者 現代タクティクス研究会
               出版社 新紀元社

資料カラー歴史   著作権者 浜島 正昭
             出版社 浜島書店
参考にしたホームページ
http://one35th.netfirms.com/rommel/gallery0.htm
../../../www.geocities.com/Pentagon/Quarters/1695/Text/rommel.html
http://www.euronet.nl/users/wilfried/ww2/rommel.htm


7.世界の動きとロンメル将軍

ロンメル将軍のことはこの色です

1891年11月15日 ハイデンハイムで生まれる
1895年 レントゲンがX線を発見
 
1896年 近代オリンピック大会始まる
 
1898年 キューリー夫人ラジウムを発見
 
1906年 友人とグライダーを作りあげる
 
1907年 英仏露三国協商成立

1910年3月 軍隊に志願
7月19日 、第百二十四ヴェルテンブルク歩兵連隊 に入隊
 
1911年 ダンチヒのドイツ帝国陸軍士官学校に入校

1912年1月 陸軍少尉に任官
 
1914年  ウルムの第49砲兵連隊の小隊長となる
第一次世界大戦はじまる

1915年10月 ヴェルテンブルグ山岳兵大隊の中隊長に任命       
          される
 
1916年 部隊はルーマニアに転用されロシア軍相手に戦闘
 
1917年 アメリカドイツに宣戦布告
       ロシア革命

   10月 北イタリア戦線で山岳陣地戦
        イタリア旅団8000名を捕虜として捕らえた
        この功績によりブルー・ル・メリット勲章を授与

1918年 ドイツ敗戦
 
1919年 ワイマール憲法、男女平等普通選挙
 
1920年 国際連盟成立
      アメリカでラジオ放送開始
 
1921年 ワシントン会議
 
1922年 イタリアでファシスト政権成立
      ソ連成立
 
1924年 ソ連でスターリン政治はじまる
 
1926年 ドイツ国際連盟に加盟
 
1928年 パリ不戦条約

1929年 世界恐慌
       ドレスデン歩兵学校教官に任命される
       ホツダムの士官学校、校長になる
      「歩兵攻撃」を書き上げる。
1930年 ロンドン軍縮会議
 
1932年 イギリスでブロック経済形成
       ドイツでナチス第一党に
 
1933年 ドイツでヒトラーが政権を握る 
       ドイツ国際連盟を脱退
       アメリカでニューディール政策開始
 
1934年 ヒトラー独裁政権(ドイツ)
       ソ連国際連盟に加入
 
1935年 ドイツがベルサイユ条約破棄、再軍備を宣言
       イタリアがエチオピアに侵攻
 1938年 ドイツオーストリアを併合
  10月 ヒトラーのズデーテンランド進駐に
       ヒトラー身辺警護責任者、総統護衛大隊の臨時指
       揮官として参加

1939年 ドイツ軍・ソ連軍ポーランドに侵攻、第二次世界大戦はじまる


1940年 イタリア参戦
       ドイツ軍パリ侵略 フランス降伏
       ドイツ軍ロンドン爆撃開始
       第七装甲師団panzer division 指揮官に
       フランスへ侵攻
 
1941年 ドイツバルカン半島に進出
      独ソ開戦 
      アフリカのイタリア軍支援 ”砂漠の狐”と呼ばれる
 
1942年 連合国軍総反攻はじまる
       トブルク攻略、エルアラメインでモンゴメリー将軍の

       英国軍に敗退
                                
1943年 アフリカから撤退
       イタリア降伏
       
1944年 7月17日 銃撃により負傷
      10月18日 服毒自殺
 
1945年 ヤルタ会談
       ヒトラー自殺
       ドイツ、日本降伏  第二次世界大戦集結