認識論
序
バブル経済が弾け、我が国経済は未曾有の不況に悩まされている。失業率は5%に上昇し、いたる所にホームレスが溢れている。かつては、GNP成長率が世界一と賞賛され、世界の経済大国にのし上がった、日本経済。それが、今や、外国資本の格好の市場とみなされ、次々に企業が外国人経営者の軍門に下っている。政治は、不況対策に決めてとなるような施策が打てぬまま、スキャンダルの応酬で、足の引っ張り合いに明け暮れている。官僚機構は、その古い体質を変革できぬまま、汚職事件などで、基盤が揺れ動いている。最も、深刻なのは教育である。いじめ、登校拒否、授業の不成立など、教育現場は、荒れており、受験専門勉強の塾が雨後のタケノコのように乱立している。明治時代に構築された、我が国の行政機構は、昔の風土そのままを継続し、情報化の進んだ現代に取り残された形でその老体を横たわらせている。結果、少年犯罪が多発し、行き場を失った若者たちが、フラストレーションを募らせている。
インターネットの出現で、第三の産業革命が進行しているといわれる中で、社会の持つ閉塞感は、大きくなる一方である。
ここで、何も、生意気なことを述べるつもりは毛頭ない。ここで言いたいことは、当たり前の論理で、当たり前に考えたら、こうなる、というを言いたいだけである。そうしたら、現代社会の病根も見えてくるのではないか。そして、現代の閉塞的状況から、一歩でもポジティブな姿が見えてくるのではないかと思う。
例えば、教育で言えば、「受験をなくす」ことが、一つの結論である。その根拠を、当たり前の論理で述べるに過ぎない。教育が変われば、少年たちの犯罪も減るだろう。不登校、いじめもなくなるに相違ないと思える。
企業も、変革を唱えてはいるが、その方法に苦しんでいる。それも、当たり前の人間の「認識」の仕組みから、答えを導こうという試みである。こうした、試みを、徒労に過ぎないと批判されても結構。何もしなければ、何も生まれない。何かを生み出そうと、多くの人々もチャレンジしている姿も見受けられるが、何かが欠けている気がしてならない。そこで、当たり前の発想を、三つ重ねれば、驚く発見が得られるように、出発点として、人間の「認識」のあり方を確認しながら、解答を模索するという図式を展開してみた訳である。従って、ここでの、分析、論理展開、結論は、将来にも重要な意味を持つと確信する。
ただ、刺激のない論理展開は、不慣れな読者には、退屈極まりなく映るかもしれない。
しかし、今や、一刻の猶予も許されないほど社会の問題は大きいということを忘れないでもらいたい。社会の問題で、無論私自身も含めて、いやな出来事で物に当たり、人とぶつかり、百の建設的な努力を無駄にしてしまうより、一個の建設的な行動をとることの方が勇気がいるし、重要である。その一個を目指しているのだということを理解賜りたい。
要旨
私たちは、全て例外なく、己の「認識」を通じて回りの世界を知り得る。目、耳、手、鼻、舌などのセンサーを通じて外部からの刺激を受け、各々の神経系統を経て脳に送られる。脳は、それぞれの情報を、痛いとか、固いとか、感覚を伴い、感じ、判断し、意思を形成し、行動に移っていく。こうしたパターンで、我々は、外界と関わり、外界に変化を及ぼし、同時にその外界から情報を受け取る。外界とは、家庭であり、学校であり、会社であり、国であり、世界であり、宇宙でもある。外界からの刺激、即ち情報をいかに受け止めるかは、人によって、顔が異なるほどに異なっている。同じ情報でも、それを受け取る「受信機」即ち「脳」が異なれば、その感じ方は別なものとなる。しかしながら、多くの場合、自分が感じ思うことは、正しくて、他の人も同じように感じ思うものとつい信じ込んでしまう癖がある。自分の主観を信じ、他の誰もが同じ様に感じ思うとつい思ってしまうのである。そして、その「認識」から出発した自分の行動に対して、正当性を与え、結果的に周囲から乖離した価値判断の下に、ややもすると誤った行動に走ってしまう。
私たちは、「自分」を意識し、「自分」の存在を認識しようとする、生命の力で、この「認識」も影響を受けてしまう。つい、自分中心になって物事を受け止めてしまうのである。立場が変わると、言うことが変わるという例は、枚挙にいとまがない。「認識」は、自分の知識や、正義、信条に基づいているように見えて、実はその人の立場と言う、観測地点から見える光景によってなされている。人は誰でも立場が異なる。従って、同じ情報でも人によって、その意味合いは微妙に異なり、「認識」も変わってくる。「認識」は、同じ人でも、年齢によって異なり、属する集団、つまり、家庭、学校、会社、サークル、府県、国によって異なる。この、「認識」の原理を正しく把握していないと、やがてつまらない結果をもたらし、不幸の元になってしまう。我々は、知らないところへ行く場合、地図を頼りに出掛けるであろう。最近は、ナビゲーションシステムが登場し、木目細かな情報を分かりやすく伝えてくれる。そのお陰で、効率的に目的地に辿り着くことが出来る。同様に、「認識」は、その人その立場で異なってくるため、地図をあらかじめ頭に入れておく必要があるのである。但し、こんな時はこう、こうした場合はこうという、ナビゲーションのような地図が有ればの話であるが。ここでは、「認識」の仕組みや、原理のマニュアルを作ってみようという試みに挑戦してみたい。この本の構成は、以下の十一の章から成っている。
本論
人間は、誕生した瞬間は、親から受け継いだ基本的な「認識機能」しか身につけていない。パソコンのように、買った時にソフトをロードして、基本的機能が揃っているような訳にはいかない。視覚も、聴力も味覚も触覚も、ありとあらゆる感覚機能は、成長と共に、その機能は形成されて行くのである。誕生した直後は、視覚は未発達で、目に映ったものを識別する能力はなく、むしろ、聴覚、味覚、嗅覚の方が発達していると言われる。赤ちゃんは、お腹が空くと、本能的に泣き、おっぱいを求める。そして、巧みな技術で乳首を吸う。長い時間をかけて、おっぱいを吸い込むため、赤ちゃんの呼吸は鼻で行う。口での呼吸は、大きくなってからである。この唇や、口の運動機能は、小脳の運動をコントロールする部位に既に備わっている。おっぱいを飲む一連の動作を通じて、母親を「認識」し、乳首を「認識」していく。口を通じて、対象物を確認しながら、世界を広げて行く。この段階では、まだ、目による「認識」は、未発達な段階である。それで、赤ちゃんは、自分でものを確認していく手段として、何でも口に入れたがる。一見、不潔で危険に見えるこの動作は、実は、赤ちゃんの学習活動なのだ、と言える。同時に、目からの「認識」、耳からの「認識」が発達して行き、ついには言葉を発するようになる。目からは、身近なものの形状の記憶、耳からは、簡単な発音のものの記憶から始まり、次第に複雑なものの「認識」が出来上がる。逆に、複雑なものの「認識」は、簡単なものの「認識」の記憶の積み重ねであり、組み合わせである。人間は、言葉、視覚など、重要なソフトウェアの構築を、自らの経験によって作り上げて行くのである。そうしたプロセスがなく、いきなり複雑なものの「認識機能」の構築は不可能である。高級コンピューターのように、一瞬にして機能をロードすることは人間にはできない。日々の、経験が重要なのである。何故ならば、好き嫌い、善悪、喜怒哀楽の感情を伴いながら、人間は、そうした「認識機能」を形成して行くのである。コンピューターに喜怒哀楽の感情はない。
単なる音声から、意味を持つ言葉の「認識」が発達して行くと、次第に「認識」の範囲が広がって行く。と同時に、自分の気持ちや、言葉によって表現することが可能になって行く。耳からの言葉の「認識」は、やがて、目による文字の「認識」へと発展して行き、文字の表現する知識がどんどん記憶され、蓄積されて行く。言葉や、文字の学習は、家庭の場から、小学校の場へとシフトされていく。ひらがな、カタカナ、漢字、数と基礎的な学習を経て、文章を理解する能力、計算する能力を培って行き、「認識」の能力を高め、同時に「表現」する能力も向上させて行く。こうして、私たちは、自分達の周囲を「認識」する上で必要な手段、即ち、言葉、文字を覚え、これらを媒体として、知識を学び、「認識」する受け手側、即ち「脳」に記憶という形で、「認識機構」が作られて行く。小学校では、各学年毎に、学習のカリキュラムが決まっており、高学年になるに従い、知識の対象は拡大されて行く。国語は、文章を読解する能力、4文字熟語やことわざ、詩の感じ方、言葉の意味など対象が拡大して行く。算数では、四則演算から、角度、比率、図形、文章題、面積、体積などの計算。社会では、地理、、歴史、産業。理科では、生物、植物、電気、水溶液、天体、人体の構造など、我々の社会生活上必要と思われる知識が教えられる。中学、高校、大学と知識の対象は次第に専門的となっていく。後に、「認識」と教育の章で触れるが、各学年毎に学ぶ教科の内容、及び、教育のシステム、要するに、知識の内容は、基本的には、明治時代の教育制度の内容、システムと変わっていないのではないか。違うとすれば、明治時代から、第二次世界大戦の前まで、一部の人間のみ受けていた教育を、誰でも全員が受けるようになったこと。また、世の中の進展が目覚しく、教育の内容が時として、世の実勢に遅れ、現実感の薄い内容になってしまうこと。それが故に、学ぶ知識に新鮮さが感じられず、興味が薄れ、単に、成績評価となる点数を、取るだけの手段と化してしまうのである。
一方で、子供たちは家庭の場で母親、父親、兄弟、姉妹に囲まれ生活し、テレビや新聞、漫画、雑誌を通じて様々な情報に触れる。学校では、友人を通じ、人間関係を築いて行く。この関係の中で、子供たちは、親と遊び、兄弟姉妹と遊び、友達と遊び、その楽しさの中に喜びを見出し、次第に自我が芽生えて自分の「存在」を「認識」し始めていく。子供たちにとって大切なのは、実際に身の回りに接する、人間関係による、「認識」及び、それによって構成される「認識機構」である。率先して「認識」しようとするのは、それに楽しさ、面白さ、心地良さといった感情が伴う場合が多い。
また、大きくなると、目的を持って学習しようとする。その目的のために、多くは苦しさや、節制を伴っても、「認識」を強制するし、「認識機構」を構築しようとする。人生の後半は、こうした目的意識での「認識」活動が大きくなる。
子供の頃に、特に強く影響を受けるのは、何といっても、母親、父親である。親は、子供に強く愛情を抱くが、えてして、知らず自分の理想を強要する。親の理想に合わせられる子供は、極めて限られてくる。余程素直で従順な子供か、たまたま親の理想、例えば、学校の成績が良いとか、そう言った子供は、親の理想に合わせて行けるが、多くのそうではない子供たちは、親の「理想」から乖離して行き、家庭でも、「存在感」が薄れて行く。子供たちの、自分に対する「認識」が歪められていく例が多いのである。ここで必要な「認識」及び、「認識機構」は、ベースとしては、人間の生命の
尊さ、人間の人権の尊さを基調としたものであろう。そして、人と人とのつながりの中で、実感を伴うような「認識」が必要である。特に、子供の頃に形成される「認識機構」は、感受性が強い時期に、成長と伴に構築されて行くため、形成が効率的に、短時間になされる。そして、その後の人生に多大な影響を与えることとなる。
従って、子供たちの、身近な環境の中で、「認識機構」を作り上げて行く、このプロセスに間違いがあってはならない。やがて、大人になり、経験を積む毎に、広くものが「認識」できるようになっても、それでは遅すぎるケースが多いのである。また、間違いがない様に見えて成長して行っても、後に、間違いを起こすケースも多い。従って、学校の教育のみの、「知識体系」では不十分なのが現実である。ここでは、「認識」の基本的な原理を知り、この原理にのっとって「教育」は必要であろうし、政治、経済、企業活動様々な分野で、「認識」の基本的な原理が必要である。
「認識機構」の形成のされ方
ニューロンの特徴として、次のようなものがある。
まだまだ、知られていない性格・特徴はあるであろう。この「認識論」を展開して行く上では、右の二点が重要なのである。どう、重要なのか。@では、ニューロンが、強く発火したり、弱く発火したりできないことを示している。強く反応したい時は、数多く発火する必要がある。即ち、記憶や、認識は、どんな情報に関しても、ニューロン単位では、ゼロか一で平等であり、その強弱は、発信の回数、即ち、くり返しである。Aでは、ニューロンの発達は、学習経験に基づき、年齢ではない。頭の善し悪しでも無論ない。経験すれば、平等にニューロンは反応することを示しているのである。
「認識」が、経験に従って構築されて行くことが、脳の中のニューロンの発育プロセスで示される。
この話は、後の第三章の「脳」と「認識」の関連について、再度触れることにする。要は、覚えることは、繰り返しであり、生まれ持った頭の良し悪しではない。このことは、明確にしておいた方が良い。学習に個人差があるのは、ただ、好き嫌い、それと、意思の強弱であろう。継続する意志さえ持っていれば、学習できない対象はない。
「認識機構」は、環境によって、「形成される」ものであることから、我々は、様々な結論を得る事ができる。即ち、
一.「社会が異なれば、認識の仕方が異なる。」
このことは、国が異なれば、認識の仕組みが異なることを意味している。また、
特に、地球外生物が映画、テレビなどで取り上げられるが、生息環境がはなはだしく異なる生物が存在したとしても、現代人とのコミュニケーションなど取り交わすことなどは、全く不可能である。また、環境が異なれば、認識が異なると言う事は、国が異なれば、認識が異なるということであり、宗教が異なれば、「認識機構」は異なる。但し、教育を通じて、共通知識を共有する事は可能であるから、学術や、技術等では、共通の「認識機構」を構築する事が可能である。但し、時代の流れは速く、学術や、技術の知識は、常に変化する。
二
世代が異なると、「認識機構」は異なる。世代のギャップなどと言われるのは、育った時代背景の差異が、「認識機構」の差異を生じさせる。従って、子供の「認識機構」と親の「認識機構」は、異なる。この事実を、理解しないと、親子の会話が成り立たなくなる。親が、世の中の現象に対して、自分の目に移る世界と、親の目に映る社会とでは、異なるのである。それは、会社、学校でも同じである。そこに、混乱が生じる。戦前や、戦後の暫くの間は、やはり、年長者の「認識」の仕方を、若い世代に押し付ける教育が、国家主義の権力機構によって守られて来た。その国家主義が、情報化社会の進展によって、崩れ去っていくと、教師対生徒、親対子供、上司対後輩の関係が崩れ去っていくのである。
髪を金髪に染めたり、耳にピアスをしたり、ため口を聞いたりは、若者にとっては、心の荒廃や、非行でもなんでもない。単なる、おしゃれ、なのである。ところが、年長者はそれが気に入らない。ちょうど、自分等の世代の頃に、金髪にする人間を、受け入れられなかった、時代背景をだぶらせて、非難したりするのである。従って、我々は、自分等の既成観念を、若者世代に強要する事を控える必要がある。
三
生まれつき備わった「認識機構」はない。即ち、学習、経験を通じてのみ、「認識機構」は形成される。このことから、言葉をしゃべる宇宙人は存在しない。ことばは、人間社会と密接であり、言葉が表そうとする概念は、人間の心と切り離せない。こうした、環境が備わってこそ、言葉が生まれる。動物は、人間とコミュニケーションはできない。訓練された犬や、サーカスの動物がよく調教されて芸をするが、これは、人間が発する信号に反応しているだけであって、反応と、理解は異なる。動物は、反応はするが、意味を理解はできない。従って、生まれつきの天才も存在しない。経験、学習によって、知識、技術の習得の上手い人が居るだけである。それらは、すべて形成される「認識機構」である。
従って、クローン人間が作られ、一人の人間が再生されても、「認識機構」は、元の人間と全く異なり、外形は似ていても、全く別な人間となる。これは、成長する環境がまるで異なるからである。
「認識」をする対象である情報について、正しい情報、あるいはその反対の、正しくない情報とは何か。本人が決める問題だと言ってしまえば、そうかもしれない。しかし、食物に例えると、体に良い食べ物、体に悪い食べ物があるのと同じで、情報も同様といえる。情報の特性として、「正しい情報」「正しくない情報」「有益な情報」「有害な情報」「無害な情報」について、論じたいと思う。
「正しい情報」
一般的に、「正しい情報」とは、事実に基づく情報のことを言う。しかし、その情報が事実に基づいているかどうかを、第三者が判定することは難しい。大概、情報は、人から人へと伝えられ、直接的な情報を得ることは、我々の日常生活では希である。つまり、我々は、第三者として多くの情報を受け取っている。従って、我々の受け取っている情報が、本当に事実に基づいているかどうかは他人任せなのである。では、いかにしたら事実に忠実に情報を伝えられるだろうか。出来事であれば、映像で事実を残すことが出来るし、映像以外には、音声で残すことも出来るだろう。こうした方法で第3者に事実を伝えることは確実性を高いものとする。けれども、映像も、音声もない場合は、人間の記憶に頼らざるを得ない。自分自身が目撃し、経験したことは、全て事実であると確信が持てる。信頼し得る人の話すことは、内容により、事実に基づいていると確信が持てる。しかし、過去のこと、抽象的なこと、確認できない事象など、事実関係が立証できないケースが多いのである。物理的現象であれば、科学がその原理を解き明かし立証することで、その原理の正しさを伝えることができる。従って、科学によって立証された事象であれば、正しい情報とみなされる。理科などの教科書に出てくる○○の法則などは、正しいことと習うのである。過去、我々の先輩達は、世の中の一般常識を覆す発見をして、世の中の批判を受け、弾圧されながらも、現代の社会に、真実の情報を伝えてくれた功績にいかにお世話になっていることか。現代では、当たり前のことは、過去においてはそうではなかった例がほとんどである。例えば、重い物と、軽い物を同時に高いところから落としたら、どちらが先に落ちるか、という話は、ガリレオのピサの斜塔で有名である。感覚的に、誰もが、重い方が先に地面に着くと考えるだろう。実際、紙と石では、紙はふわふわと空中に舞って、なかなか落ちてこないかもしれない。しかし、ガリレオは落下する速度は、物体の重さに関係なく一定であるという、物理的原理を発見し、ピサの斜塔から実際に、物を落下させてみて、立証したと言われる。但し、正確には、空気のない真空中では、という注釈がつく。空気のある、実際の我々の空間では、重い物が先に落ちるケースが多いであろう。空気抵抗を受け、軽い物は、落下するのに、より多くの時間を要してしまう。我々の住む空間は、必ず空気があるから、どんなものでも落下する時間が等しいという現象は、実際には起こりにくい。ガリレオのピサの斜塔のエピソードは、後に人々が話を面白くさせるために創作したのだろうと思われる。落下現象は、どんなものでも、同じスピードで落ちるという、本質を、空気が阻害し、本質を見えにくくしている。他の事象でも、本質は隠され、その姿を歪めた形で我々の目に映ることが多いとも言えるのである。従って、目に映るから、その事実が真実であるとは限らない。事実であっても、真実とは限らない。歪められた形で、伝えられることが多いのだ。我々の欲する、「認識」とは、常に真実の方向に向いていなければ成らない。特に、この真実への探求は、社会事件での有罪無罪の判定などによく現れている。事件の真偽の判定には、多大の労力が必要とされる。証拠となる物的証拠、指紋、DNA鑑定などあらゆる手段を用いて、その真偽を判定して行く。通常、裁判は、その判決を下すまでに、何年もの歳月を要する。真偽の見極めが、それ程難しいということである。回りの出来事の真偽を一々こんな方法で判定していったらきりがないであろう。社会生活を営む上で、そんな時間はないのである。従って、私たちは、事実に立脚した事象を、真実に近い形で、「認識」したいし、「認識」する必要性があるけれど、限界があり、どうしても事実から乖離しやすいのである。このことを、頭の片隅に入れておく必要がある。世の中には、科学的に立証されていることは、少ないといった方がいいかもしれない。特に、社会生活を営む上で、事実と違うことが平然とまかり通ってしまうことの経験は、誰しも味わうことであろう。実際、社会生活では、「正しい情報」とは、権力に基づく情報であることが多い。映像、音声の録画、録音のない世界、これは、エジソンの登場以前は、映像も、音声も残すことが出来なかった。そうした世界では、「正しい情報」イコール権力者の情報であった。社会では、統治者、家では、親、学校では先生、会社では社長、重役、部長、課長である。この仕組みで、情報の「正さ」を判定して来たのである。この仕組みで、情報は作られ、多くの人に「認識」させてきたのである。それが、無線、ラジオ、電話の出現、映像の出現、(写真、映画、テレビ、ビデオなど)そして、インターネットの出現によって、情報の流れが否応無しに、事実に近い状況で変わって来たのである。こうした、通信技術の発達は、社会の在り方を根本的に変えるものとなった。何故ならば、情報を「正しく」決め付けて来た、社会構造、企業構造、家庭構造が役に立たなくなって来たからである。「情報」は、先生からでもなく、社長からでもなく、親からでもなく、テレビ、ラジオ、インターネットで、自由に獲得することが出来るようになったからである。ところが、旧態前とした組織では、未だに、情報の正しさを、権力の力関係で決め付けている風潮が残っている。そこに、大きな問題が有り、社会事件が絶えなく発生する原因とも成っているのである。最近では、雪印の、偽ラベル事件があったし、外務省の、「嘘」の報告のスキャンダルもあった。事実の正しさを、組織構造の権力に依存する企業は、雪印のように滅んで行くであろう。事実をどこに依存するか、それは、企業ならば、顧客であろう。市場のニーズに、情報を求めて行く企業は、発展して行くに相違ない。
「正しい情報」を、いかにキャッチするかそれが、重要なのである。そのためには、権力による、歪められた、情報の「認識」のあり方を、排除せねばならない。「正しい情報」とは、情報そのものが正しく伝えられ、伝えられた情報を、正しく「認識」するということが組み合わさって、始めて成立するのである。
「正しくない情報」
事実と異なる情報は、「正しくない情報」と言える。但し、デタラメを話していても、たまたま偶然一致してしまうこともある。このような場合、結果的に正しく見えても、正しい情報とは言えない。過去の出来事については、事実は一つしかないから、情報の真偽が判定できる。しかし、将来のことについては事実が存在しないから、その真偽は判定しようがない。天気予報、競馬の予想、経済予測、占い、これらは将来についての情報であり、真偽を判定しようもないし、当たってもまぐれであることが多い。これに対し、嘘は「正しくない情報」である。但し、自分で嘘と思っていても、結果的に嘘でない場合もある。また、人を傷付けまいとして、嘘をつくケースもある。いずれも、情報の真偽としては、「正しくない情報」である。しかし、実生活上、一般的に、自分個人ベースでは事実かどうか判定のしようもない情報が多い。目まぐるしく、次から次へと色々なことが起こる現代社会では、いくら情報機器が発達したとしても、事象の事実確認は、あるいは、ものごとの真相は、事実かどうか判定される暇もなく、過ぎ去って行くことが多い。殺人事件で、ようやく裁判が何十年にも及ぶケースが多い。一度確定した事実関係を、再度検証し裁判をやり直すことが出来ないこともあって、慎重にならざるを得ないが、一件一件の情報の事実関係をこのように処理をしていては、世の中は回って行かないであろう。従って、多くの場合、嘘のまま終わってしまうとか、誤解のまま処理されることが多いのである。特に、地域性の強い、村社会では、住人たちの定着性も強いことから、一度噂になると、それを消し去るのに多大の労力を要する。そのため、変な噂にならない様に、人の目を気にしながら、行動に気を配る。こうして、閉塞的な社会になって行く。では、そうした村は、いつまでも閉塞的かというと、時代の変化に伴い、近代化が進み、環境変化によって、打破されて行く場合が多い。一方、いくら自分の行動に気を配っていても、文化大革命の中国のように、外部から勝手な情報を創作されて、身に覚えなない情報をつきつけられ、裁かれてしまう例もある。特に、権力者支配の国家には、そうした例が多い。権力を保持するための情報操作がなされるからである。民主的な国家、住みよい国家とは、情報が、事実に忠実で、正しく伝えられる国家である。いくらマスコミが発達していても、その情報の正しさを保持することは難しい。我々は、日常の生活の中で、情報を歪めない様努力する必要があるのである。以下に、正しくない情報の例を具体的に挙げてみようと思う。
例一
「世界は、平らで、地の果ては、断崖絶壁となっていて、海水が滝のように流れ落ちている。」と昔は信じられていた。一般の人は、地の果てまで旅行することがないから、そう信じていても何の害にもならないかもしれない。しかし、船乗りは、何時、自分たちが地の果てまでやってきて、そこから滝に飲み込まれて、落ちていくか、それは恐怖となるであろう。しかし、
「世界は、丸い大きな球の上に乗っている」と分かると、一方では、では、何故反対側の人は落ちないんだろうと訳が分からなくなる。後に、地球には重力と言うものがあって、全ての物を引き寄せる力を持っているという法則が見つかって、地球の反対側の人達も落ちないで暮らせていけると納得できる訳である。そして、「地球は丸い」となると、話は変わって、真っ直ぐにどんどん行けば、また元の場所に帰ってくると気が付く訳である。今日こそ、人工衛星から地球が映し出され、我々は、自分等の視覚で地球の球形なる形を確認できる。
「世界は平ら。」と言う情報と、「世界は丸い。」とでは、人々の行動様式に全く違う影響を与えるのである。前者は、正しくない情報であり、後者は正しい情報と言うことになる。
例二
「天動説」と「地動説」
ガリレオの出現以前は、コペルニクスが、地動説を唱えた初めての人間であったろう。ただ、彼は、キリスト教の訓えに反する地動説を、暫くの間は公表しなかった。死の直前に彼は、地動説を発表した。それまでは地球が宇宙の中心であるという、「天動説」が信じられていた。論争好きで、皮肉屋のガリレオは、始めて世論・社会常識を覆す「地動説」を、公表したのだった。現代では、誰もが疑う事無く「地動説」を信じている。人工衛星や、スペースシャトルから地球を見る事ができる時代になると、「地動説」を疑うものはいない。ガリレオは、天体望遠鏡という、「認識」の道具を用いて、肉眼で宇宙を見る事により、この事実を証明してみせた。科学的な手順を持ってしても、宗教裁判で有罪となり、「それでも地球は回っている。」とつぶやいた話しは有名である。真実を語って、世の人々から批判され、迫害され、有罪判決を受けてしまうのだからその時、ガリレオは世の中をどう思っただろう。我々だって、現代では常識になっていることを、当たり前の事として過ごしているものの、当時ガリレオのそばに居たら、ガリレオを気狂い扱いしたに相違ない。ならば、現代においても、忌み嫌うものの中に将来、真実として認められる知識、人間が居るのかもしれない。我々は、知らず他人の手によって伝わってくる情報を丸呑みにして、信じ、従ってることが多いはずである。ガリレオの地動説は一六00年頃の出来事だから、聖徳太子も、源頼朝も、織田信長も、豊富秀吉も、徳川家康も、昔の日本人全てが天動説を信じていた、ということになる。
世間と言うものは、大体無責任なものである。大体、地球が太陽の回りを回っていようと、太陽が地球の回りを回っていようと、我々の生活には無関係で、どうでも良いと言う気持ちがある。そんな議論をするくらいなら、寝ていた方がましだと思うだろう。しかし、当時は予を騒然とさせる事件であったのだ。
例三
「原油の埋蔵量三十年説」
一九七〇年頃に、世界の代表的な賢人と思われる人たちが集まって、ローマクラブと称した会合があり、その研究成果の中に、「人類の食糧危機」、「原油埋蔵量の三十年枯渇説」といった報告発表があり、世界中を不安に陥れた。世界の賢人の研究成果とあって、影響は大きかった。一九七三年にオイルショックが起こり、原油価格が従来の三倍に一気に跳ね上がった。関連資材の、洗剤やトイレットペーパーの買いだめなど、市民は騒然となった。東京タワーの灯は消え、節約が美徳と総理大臣が訴えた。三十年たった現在、原油埋蔵量はあと四十年分はあると言われる。東京タワーの灯も明々とついている。枯渇しているはずの原油は、当時の推定埋蔵量よりも多くある。地球に埋蔵されている原油の量が、一定だとすれば、新たに生成されない限り、原油は減り続ける。しかしながら、計測される埋蔵量は、新たな油田の発見などで、むしろ増大し、危機的な状況に到ってはいない。「原油埋蔵量の三十年説」は、人類に代替エネルギーの技術を開発せしめ、結果的には新たな技術の開発を促し、結果は良かったかもしれない。医者の検診と同じで、病気の疑いがあると言われ、節制し、健康に留意するが、検査の結果が異常無しと聞かされると、うそつきとか、騙されたとかで腹を立てるよりも、安心して胸をなで下ろす。そして、怒りもどこかへ行ってしまう。それに似ている。しかし、情報としては、正しくないのである。
例四
現在、環境問題が盛んに議論され、世界的な問題として取り組みがなされている。NOxの酸性雨、排気ガスの黒煙問題、フロンによるオゾン層の破壊問題。CO2による地球温暖化問題。自動車や工場から排出されるガスの規制が様々な形で施行されている。地球を守る事は、誰が考えても正しい事である。しかし、一部の化学者が実験室で生じた反応が、現実の気象状況の中で、同じように生起する事を、誰かが証明したろうか。実験用のマウスに、必要以上のNOxを吸わせて、体に異変が起きたから、NOxは有害であると発表しても、その因果関係を示した事になるだろうか。環境が、人間の手によって破壊されていると言われるが、天気さえ制御できない人間が、地球の環境を変えるほどの力があるだろうか。今や、環境問題は、一つの宗教的、政治的手段に利用され、盲目的に支持しているように思えてならない。地球は、生命を宿す奇跡的な星である。その環境を守らねばならない事は、まぎれもなく真実であろう。そのしわ寄せが、経済活動に押し寄せ、国が戦争や、核実験などで環境を破壊する事には沈黙してしまうのは、合点が行かない。行政的に、排出ガスの規制を行う前に、その科学的根拠を明確に示す必要がある。石油を燃やすから、環境が汚染される、と言った議論は、太陽が東から昇るから、地球の回りを回っているといった、天動説に似ている。この問題は、ナーバスな面も持ちあわせているので、別な場で言及したい。ただ、言える事は、環境問題は、あと、五十年もすれば、百八十度変わったスタンスになるであろうことを予言しておこう。
例五
UFO,雪男、超能力、お化け、ネッシー、霊など
人間は、創造力が豊かで、この世に実在しないものも想像できる。今まで親密にそばに居た人間が、突如死んでしまうと、生き返って欲しいと切望する。それが、お化けや、霊などといったものを生み出す。また、地球以外の生物も、想像は可能である。子供は、想像の世界、物語の世界との境界がはっきりしておらず、お化け、UFO、宇宙人などを信じやすい。これらは想像の産物なのに、実在するかもしれないと言った話しが、現在でもテレビ番組、映画、小説などに多い。こうした話しは、物語としては面白いが、事実関係の無い、正しくない情報といった見方が必要である。
以上、正しくない情報の例を過去の出来事から挙げてみたが、情報には有害、有益といった側面をも持ち合わせる。
有害な情報と、有益な情報
この世には、人体を病に陥れる病原菌や、ウィルスがうようよと漂っている。一方、体を元気付けるビタミン、栄養素もある。
人体に悪影響を及ぼす病原菌は、過去偉大な医師たちによって、ワクチン、薬などが開発され、人類を不治の病から救って来た。肉体面に関しては、その症状が誰の目からも分かりやすく、その人がおかしくなっているのは病気のせいだと分かっているので、悪いのは病気のせいとして理解が得られる。最も、病気になっている本人にとっては、悪いのは病気のせいと分かっていても、辛い思いに耐えねばならない。病気が謝罪してくれたり、慰謝料を払ってくれる訳ではない。病気の原因を突き止め、その療法を発見した医師は、歴史に名を残し、ある時はノーベル医学賞を貰ったりする。赤痢、疫痢を退治したパスツール、コレラを退治したコッホ、天然痘を退治したジェンナー、彼らのお陰で、我々はそうした病気の災苦から逃れることができる。一方、体にとって必要な栄養素、ビタミンの研究もなされ体にとって有益な物質も発見されてきているお陰で、健康な体を維持できている。これと同様に、情報についても、病原菌に似た有害な情報、ビタミン、栄養素のような有益な情報がある。ただ、これらの情報は、体のように目に見える症状を示す訳ではないので、情報を感知した時に、有害、無害、有益と判定しようがない。また、こうした情報によって、心が傷ついても、あるいは、犯罪を犯したとしても、病気のように、原因は病原菌というような理解はされないから、悪いのはその人本人と言う事になってしまう。この世には、様々な情報が氾濫し、その中には有害な情報がうようよと漂っているのである。我々は、そうした情報に対し、自力で対応せざるを得ないのが、実状である。