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ある明治の男の話題
明治41年5月16日、徳山村字春野に大川濱次郎の3男として生まれる。
幼いときは体が弱く、父母は苦労したと思う。
そのためか呼び名を芳和にして、学校は芳和で終わり、その後も芳和で通していた。
幼いときは兄や姉に可愛がられて育った。姉の実家の北原村内山へ時々連れられて行った。
そのころは今の中山の橋がなく、渡し舟であった。
大正元年ころと思う。
体が弱く、兄に連れられて医者に行く。
北山の林医院や丹羽医院、村松の鈴木医院にも行ったのを記憶している。
朝ご飯を食べて学校へ行く前に、母の水汲みの手伝い。
50メートルくらい下の清水を桶に汲んで、母と二人で方で担いで上がってくるのだ。
2回して近所の友達と学校へ上がって行く。約40分。
勉強は4時間で家に帰ると3時ころ。
朝、父に言いつけられた馬の草を山へ行って刈って来る。
家で芋を少し食べてから夜の灯りの仕度。
そのころは石油ランプなので、そのランプのホヤを磨いて、石油を入れておくのだ。
時間は6時。兄が炭焼きの山から帰ってきて、兄の藁打ちの手伝い、夜の縄ないの仕度。
兄が小さい横槌で私は杵。兄が2回トンテン。私が1回カンと打つ。
トンテンカン・・トンテンカン・・と聞こえるのだ。
30分で終わり、夕食になる。少し休んで兄弟で縄ないが始まる。
兄は太い縄、私らは細い縄で1時間半で終わり、兄や姉は60メートル、私は40メートルであった。
小学校6年の時である。大正9年の夏の養蚕の桑の葉を摘みに、姉のトキさんと二人で畠に行った。
姉が話すには
「私と時雄、清野の3人と、兄の半次郎、嘉六と姉のエイ、サク4人とは母が違うのです。時雄、これからはあまり我儘をしないようにしなさい」と言われ驚いてしまった。
でも、そのために自分の心構えが出来たと思う。
大正12年の春、姉のトキさんは真鶴の伯父の梅田福次郎様に嫁ぐ。
その年の9月1日午前11時58分。関東大震災であった。
私は小学校を卒業して家で農業の手伝いをしており、昼食時で皆は家の中におり、急に家が揺らぐし、神棚の物が落ちてくる。
これは地震だと皆は外に飛び出したが立っていることもできない。
雨戸をはずして、その上に皆が抱き合って止むのを待つ。
その時、母が「火が!」と言って家の中に飛び込んで行き、間もなく「大丈夫!」と言ってきた。約2分くらいだったと思う。
揺れが止まった。
ところが子供が学校から帰っていない。父は心配で近所の人と見に行く。
兄は近所の家が山が崩れて人が埋まったと聞いて近所の人達と助けに行く。私は家に馬がいて馬小屋が崩れてはいけないと馬の番である。
時々、余震があり馬が驚いて大変である。そのうち父が帰ってくる。
子供は人家のところにいて、全員無事であった。
兄は埋まった人はまだ見つからないと・・。
そのころ下の村田川を見ると、水が流れていない!。
鉄道線路には貨物列車が止まっていた。
埋まった人は2人で死んで見つかった。
日も暮れてくる。
下の道路が崩れて通れないので、通行人は昔の旧道の春野へ上がってきて、私の家に入ってきて家の中はいっぱいで力強く夜を過ごす。
その夕方、なにかゴトゴト大きな音がした。音のする方へ行って見ると村田川である。川いっぱい赤い水が流れているではないか。
開けて2日目の朝になり皆の話しを聞くと、谷山の東の方の山が両方から崩れて川の流れが止まり線路もだめ。
2日の朝は晴れて太陽が見えるのだが月の様に赤いため不思議に思っていると、大人達の話しを聞くと、それは東京はじめ、方々に火災が起きて空に煙が昇っているからとのことだった。
2日一日まで煙が空に昇っている程火災が多くでたのだった。
地震の被害の手伝いも片付き12月始めから北山の本村儀一商店に住み込みで行く。
暮れなのでシャケや数の子の水洗い。夜は下駄を研いだ。暮れの市の手伝いに駅前に行き、夜11時ころまで店の番である。
13年2月始めまで働き、2月11日から大工見習に行くことになり、親方清水治三郎へ行ったが、親方は自分の家がないので方々借家住まいであった。
その見習中、徳山村の氏神の神明社が地震で倒れていたので新築を親方が請け、高杉に住み、約1年半で終わりになった。
もうそのころは地方の仕事が少なくなり、山へ行って薪取りや小使いでの日が多く、昭和元年ころ東京や甲府に出仕事に行ったりする時であった。
昭和2年、父の濱次郎は亡くなってしまう。
昭和3年大工の見習い終了。
大工見習は終了したが、地方に仕事が少ないので南原の富源尊へ仕事に行く。富源尊が数年前に火災で、お寺の大半が焼失した。
その仕事であるが3ヶ月で止め少しの仕事でも社世に顔を広くしたいので働いていた。
そんな時に姉のエイさんが夫を亡くして一人暮らしで生活に困るので役場と学校の小使いに入り、家が留守であったので、近所の人と村長の本村理喜三さんが考え、時雄を本村家に入れようと、早速、兄の半次郎に申し込んできた。
私は「それは困る」と言い友人の世話で川崎の方へ出仕事に行って、3ヶ月程で帰ってくると、また2回目の申し込みである。
兄も村長を信用し、また妹の事なので、その気になってくる。
母の弟の大川助次郎さんも薦め母もそのようであるので、私も考えた。
母は兄の世話になるのである。兄の妹を助けたら母も少しは心が楽になるのだろうと思い返事をした。また村長を信用しての返事でもあった。
昭和5年の秋、本村家に養子に入ることになる。
家は留守であったので内・外が非常に汚れている。
自分で天井から家の周りを掃除して気分よく住むようになる。
近所の人も皆良い人だし、一人の生活なので色々力づけてくれた。
昭和6年の夏は富士登山や義太夫を習ったりする。
村長の働きで県の補助で近くの山を耕し、柿の木を植えたりする。
大工仕事は学校の仕事や近所の小さい家を請け働いている。
家の便所が丸太小屋であったので近所で杉山の木を貰い、自分で柱を削り、土台のある便所を建てる。
昭和7年皆が心配して本村家の血縁である保谷村土肥の石田家から妻を娶ることになり7月に本村村長さんの仲人で結婚する。
ところが3ヶ月して男子の子供が生まれ驚いてしまった。
生まれてしまい産後なので1ヶ月世話ををして仲人に預けてそのまま保谷へ帰し離縁する。
また一人の生活であるが少しの仕事でも見つけて働いている。
一年して昭和9年、北原村中山の瀬古家から妻を迎えるこどができた。
ようやく人並みの生活が出来るようになった。
昭和9年(25才)結婚は出来たが、地方は不景気で大工仕事は少なく生活していくのに大変である。
妻(23才)は新婚の時から近所の仕事をしたり、畑仕事をして生活を助けてくれた。
その年、氏神である北山・東屋敷の神明社の「お峯入り」という大名行列の「笛吹き」を務めることになり仕事をしまい、夜一ヶ月習い務める。
翌年(昭和10年・26才)また「お峯入り」を鎌倉に行き、鎌倉宮で大名行列を務める。なお、仕事は少なく苦しい生活である。
3年間で村の診療所と近くの鉄道退職者の家を建てただけ。
色々考えた。子供はいるし将来が心配になってきて妻とも話し合い、いっそ勤め人になったほうが良いと考えていた。
その時(昭和12年・28才)、新聞に海軍工廠の募集がでていたので早速横須賀へ行き申し込み、8月20日から勤めることになったが通えないので下宿することにする。
その時子供は二人であった。妻(26才)は二人の子供を育てながら畑仕事をし、留守を守っていた。給料は月に44円で下宿代の18円を差し引くと20円そこそこしか送れない。
妻の苦しみは大変であった。
そんな時、近所の人の世話で国有鉄道の試験を受け、昭和13年(29才)4月から国鉄の神津通信区に奉職出来た。月給は42円で、生活はなかなか楽ではない。
子供も2人になり生活は楽ではないが妻の経済で細々でも安定した生活が出来るようになり子供も3人になった。
鉄道に入って4年目(32才)の昭和16年2月、火災にて家・生活道具を全部失ってしまった。
その時子供は3人であった。ここで力を落としていてはならない、家族は皆丈夫である。
皆で励ましあい丸太小屋を建て暮らしていた。親戚や村の人達の助けで生活していたが考えた。
これから苦労して復興しても、この本村家の人である義弟の2人は少しも喜んでくれない。かえって恨まれるばかり。
思うに、今迄に時雄が本村家に入って一度も交際してくれない。
二度の結婚式にも見えない。その様なことを考えると将来が心配になり、子供のためにも良くないと思い、妻とも話し合った。
東屋敷の本村家を出ることを決心する。
行くところが遠くでは母が心配すると思い、村松ぐらいなら良いだろうと決めた。
その年の12月、村松町に住むことにする。
9区の辻田魚店の2階を借り、大工に頼んで住めるようになった。
大工に11円かかる準備も整ったので、村長に申し出た。
大反対である。兄・姉もであるが、それを押し切って出ることにする。
大東亜戦争になった時でもあった。
時雄一家も戦争のような毎日であると覚悟してであった。
昭和16年12月30日、夜明けを待って家族5人で本村家の墓に参り、火災保険をそのまま置き、本村家関係の火災見舞いも置いて出てきた。
でも近所の方は見送ってくれた。荷物は馬力車を頼み、午前中に村松へきたのであった。
これかはらは借家生活である。今まで以上働かなければ生活できない。
太平洋戦争の時である。だんだん品物が不足してきて主食の米は配給である。
勤労奉仕はあり、思うように働くこともできない。
食物の不足を村田川の河原の中洲や土手を耕し、また村松山の野原を耕して食物の不足を補う。
昭和20年(36才)終戦になっても食物や品物はますます不足である。
その時、塩がなく生活を苦しめる。
塩を鉄道仲間で海水を煮詰めて造り、皆で少しづつ分け合うことができた。
そんな苦しい日々を妻はいつも家の中を明るくして送ってくれ、子供も皆丈夫で元気に育っていった。
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