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 夕方ごろの、駅前にある果物屋の前を通ると、オレンジとも桃ともいえないような、なんと なく甘ったるい香りが漂っている。
 黒沢デンゾーは足早に歩いていき、つむじ風を起こし、その香りを少しばかりかき混ぜた。 急ぐ理由は特にないが、体格もがっしりしていた40代そこそこの男にとっては当たり前の スピードであった。
 狭い歩道を通り、数歩先の目印も何もないところの左側にある、ドアを手前にあけた。 その目新しいが無機質なドアには小さく白地に黒で「黒沢探偵事務所」の控えめな看板、 というより表札が貼ってある。
 事務所の入口のあたりは狭く廊下のようになっていて、少し息苦しい。
 ここが「お客様」の待合室も兼ねていて、少し固めの皮でできた、座ると背筋が伸びそうな 感じの、茶色の業務用ソファーが廊下に沿って置いてある。
 今日も客はいない。いつものことだ。
 廊下の横にあるソファーの向かいに、チラシとおぼしき、古めいた薄い黄色味がかった張り紙 には「あなたの大切な人だから、絶対ばれないように秘密で調査を致します! 格安料金に自信 あり」との見出しが虚しく踊っている。
 入り口から5メーターくらい進んだところに、カーテンの仕切りを開けると、ようやく10坪 くらいの事務所らしい開放された空間があった。照明も待合室よりかなり明るい。そうでも なければここに来た客は滅入ってしまうだろう。
 一人の事務員が勤務している。
 山本という名の、少し小柄な30代くらいの、清楚な感じはあるが、色気を感じさせない女だ。 電話番と経理、黒沢のスケジュール管理が彼女の仕事である。
「ひゃあ。驚いた。社長、お帰りなさい」
 あわてたように山本は姿勢を正して机に向かいなおした。ひゃあとかいう反応が場違いのよう な気がして、却ってこちらの方が驚くのだけど。
「何だ、そんなにびっくりしなくてもいいじゃないか。さては良からぬことをしていたな?」
 と、黒沢はこういう時の決まり文句を言った。まあ、もし良からぬこと−−法律に触れない程度 だが−−をしていたとしても、事務所が暇すぎるのだから仕方ないと思うのだが。
「ばれたか・・・といって別に何もしてないですけど。この前入り口のドアを換えました よね? あれからドアを開けても物音がしないから・・・前は木のドアだったから、誰かがドア を開けたらギシギシ音がしてすぐに気配がしてわかったんだけど。」
 確かにそうだ。前のドアは木製だったが、2か月前に何者かに壊されてしまった。まあ壊さ れたというより、半分腐りかけていたのに最後の一撃を加えたようなものだったのだが。 簡単に壊されないように、最近アルミサッシ製のに換えたばかりだ。
 こういう稼業をしていると恨みを買うこともあるから、ドアの一つや二つ壊されても不思議は ないよと警官に言われたことを思い出した。あのときは金庫の金が盗まれず無事だったのが 不幸中の幸いだった。
 黒沢は背広を自分の乱雑で、そのくせ大きな机の椅子にかけながら言った。
「物音がしないのが気に入らなければ、今度、ドアを開けたら鐘がカランコロンと鳴るもの をつけるか。よく喫茶店とかにあるだろう? あれは、いったいどうやったら手に入るんだ ろうな」
「ああ、それなかなかいいアイデアです。今度探しときます。ディスカウントストアにも ありそうですよね。」山本は少し不自然な笑顔、追従するような表情になった。
「ところで、留守中に何か連絡や新規の依頼はなかったか?」
「新規の依頼はありません。ただ・・」山本の口調が少し曇りがちに、事務的になった。
「中本さんから、今月の支払いが口座に振り込まれていない、という苦情がありました。 なんか、少し怒ってるみたいだったけど・・・。あの人、ちょっとしつこいんですよ。」
「あいつか。ろくな調査をしないくせに、支払いだけはきっちりと要求するんだからな。 まあ、あれはしばらく泳がせておこう。しつこく言ってきたら俺にまわしてくれ」
 面倒くさいけど、最後は責任を取らなければならないから、と心の中で付け加えた。
「泳がせておくってどういうことですか。次からはすぐに社長にまわしますよ。」少し微笑 を含めたような、険しいとも思えない表情で山本は抗議した。「その時は、今日みたいに、 くれぐれも逃げないで、いや、外出しないで下さいね。」
 了承したという意味ではないらしい。でも返す言葉がない。
 事務所の経営が苦しくて支払いができないのは景気が悪いこともあるが、結局は自分のせい なのだ。
「山本さん、俺が外出するのは、何も都合の悪いことから逃げるためというわけではないんだ。 ちゃんと仕事をするために、いろいろ同業者に根回しをしたり情報を集めたりしなければ ならないわけよ。そこを察してほしいなあ。」
 同情を求めてみた。
 山本はため息をついた。きっと又言い訳がはじまったぐらいに思っているのだろう。
「あの、あと留守中に警察のほうから連絡があったんですが。」
「警察?」
 そういう間もなく、一人の大柄な男がいきなりカーテンを開けて事務所に入ってきた。
「そうだ。警察のものだ。まったく、ろくでもないとは思ってはいたが、支払いもろくに できない事務所だとはな」
 さっきの話を聞いていたのか? 本当にびっくりした。「ひゃあ」と両手を上げて言いたく なった。
「いつ入ってきたんだ。びっくりするじゃないか?」
 この図体のでかい、それでいてどこか洗練されているような腹黒さをかもし出している 私服警官はどこかで見たことがあるような気がする。ドアが壊されたときに来た警官とは違う奴だ。 捜査一課の・・・浜崎とかいう名前だったか。それもあまりいい思い出がなかったような気がする。
「会えてうれしいよ。黒沢デンゾー君。私はこの日が来るのをずっと待ちわびていたよ」
「そうか。それはよかったな。でも、俺にとってはあんまりうれしくないような感じが するな。気のせいかな。」
「まあ、そういうな。君が不幸になればなるほど私は幸福になるんだ。そして善良な市民 のみなさんも、悪徳探偵に騙されずに済むぶんだけ、不安から解消される。」
 嫌悪感で吐き気がしてきた。いったい何なんだろうこいつは。人を怒らせようと、 わざと挑発しているのだろうか。
「俺が悪徳だったら、世間の探偵はみんな悪い探偵だと思うがね」
「ねえ、社長、今度はどんな悪いことをしたんです?」山本が口をはさんだ。
「今度って、いつも悪いことしているみたいじゃないか。何もしてないよ。何も。俺は  常に善良な市民だよ」黒沢は取り繕った。
「善良な市民だって? 笑わせるな」刑事は呆れ顔になった。
「もちろん笑わせるつもりだった。で、何の用なんだ、刑事さん。」
「お前を殺人の容疑で逮捕する」
「冗談だろ?」
「残念ながら本気だ」浜崎刑事がにやりと笑った。本当にうれしそうだ。
「で、いったい誰を殺したって?」
 覚えがないのに逮捕されてはかなわない。
「とぼけても無駄だ。いいから署まで来てもらおうか」

つづく