金堂壁画の製作者


韓国の教科書では、法隆寺の金堂壁画の製作者は、渡来した高句麗僧曇徴であると、断定的に明記されている。
しかしこの壁画に関しては、早くに日本の平安時代の大江親通が著述した「七大寺日記」では、止利仏師(金堂の釈迦像の製作者)と言う説を明記し、更に鎌倉時代の顕真が著述した「太子伝私記」(古今目録抄)でも「仏浄土絵云絵師画云云」(金堂壁画の浄土の絵画は鞍作鳥(止利仏師)という絵師が描いた)としている。
この後も江戸時代までこの説が定説とされており、曇徴説を唱える書籍は江戸時代以前には存在しない
これは恐らく、法隆寺が建立されたと言う推古天皇十五年から三年後の十八年に曇徴が日本に渡ったという記述と、彩色紙墨を能くしたと言う記述、そして法隆寺に曇徴を置いたという「聖徳太子伝暦」の記述によって着想した俗伝の様である。
京都大学教授である村田治郎博士の「法隆寺の研究史」の中にも、この俗伝は「太子伝暦」の記事から想像した説の様であるが、いつから始まったものか解らないと述べている。
現在解っている範囲では、明治時代に於いて「曇徴が金堂壁画を描いた」と言う説を主張し始めたのは、美学者の高山樗牛博士(「日本美術史未定稿」『樗牛全集』第一巻所収)である。
そうした俗説が、韓国に伝わって通説化・定説化されたものと思われる。


この様な誤った記述や通説・俗説の類が事実であるかの様な記述は、他のページにも度々見られます。
韓国は国定教科書制で、全ての国民がこの教科書によって教育されています。