ドイツ統一と賠償      

ロンドン債務協定   

  ドイツ統一も過去の出来事となってしまった。日本から遊びに来た人と話しているとベルリンの壁の崩壊から統一に至ったあのころのことがよく話題になる。ドイツ戦後史に明るい彼は「あの話はどうなったの」と尋ねた。 

あの話とはロンドン債務協定の第五条、「保留条項」のことである。     

  ドイツ連邦共和国(西ドイツ)ができて間もない一九五三年二月二十七日、西ドイツと米・英はじめ西側の債権国十九カ国との間で協定が結ばれた。この協定は、ドイツが負っている第二次大戦以前の借款百三十五億マルクと戦後に発生した借款百六十億マルクを、それぞれ七十五億マルクと七十億マルクに制限し、その総額百四十五億マルクを一九九四年までに返済するとの義務を定めた。返済可能な範囲に債務が限定されたことで、西ドイツは国際金融市場での信用を獲得することになった。「驚異の経済復興の礎石の一つがこの協定によって築きあげられた」と歴史の教科書が書く所以である。

  さて、友人が気にした「保留条項」とは、協定が対象としていない戦前と戦後の間、つまり戦時に関するものである。戦争が終わると、敗戦国は賠償という名目で種々の債務を負うのが通例だ。しかし、ロンドン債務協定は、「第二次世界大戦に由来する債務の検討」は、「賠償問題を最終的に取り決めるまで、保留される」とした。そして、賠償問題についての最終的取り決めは平和条約の締結時に行われることになった。要するに、平和条約締結まで賠償は棚上げにしておこう、ということになったのである。

 ところで、戦後ドイツの政治家はあらゆる機会をとらえて「平和条約」ということばを口にしてきた。 

 敗戦国は平和条約を締結して、この条約で種々の条件を課されたうえで国際社会に復帰するのが慣習である。ドイツの場合は平和条約の締結はいつまでたっても実現しなかった。「戦勝国同志が勝手に仲違いしたために、平和条約も結ばれず、国境も未確定のまま分断国家になってしまった」というのが、ドイツ人多数の気持ちだったようだ。

 はいわば交換可能な同義語のようなもので、西ドイツというモラトリアム国家が終わるときの姿を、条約、国家形態、地理面それぞれ別々の角度から示している。

  「平和条約の締結」と「統一」、さらに「国境線の最終的画定」は本来、戦争状態からの最終的決別を意味するはずだ。ところが、「統一」を実現する「平和条約」は、ロンドン債務協定の保留条項の効力を失わせることになる。つまり、「統一」や「平和条約」は、第二次大戦での賠償問題の検討を迫る。これはあまりおめでたくないことだ。

 ドイツの政治家はよく、「ドイツ再統一がない以上、賠償もない」といってきたが、これは以上の論理的関係による。 だから、ドイツの統一時には、賠償問題が蒸し返される、と思うのは当然である。 ところが、賠償の方の話は、ベルリンの壁が開いてから翌年一九九〇年一月三日のドイツ統一までの間に、「いつのまにか消えてなくなってしまった」と友人は言った。まさにその通りだ。「あの話はどうなったの」と友人が不思議に思うのも無理はない。

 実は、この保留条項は、賠償・補償といった西ドイツの戦後処理の上で極めて重要な役割を演じてきた。  戦後の西ドイツはナチの犠牲者に対して個人を対象とした補償を行った。補償は被害に見合うものだから、当然「ここまでしか支払わないぞ」と言う歯止めをすることになる。

 ロンドン債務協定の保留条項はこの歯止めに役立ったのである。  ドイツの戦後補償制度は、補償対象を犠牲者の被害が「ナチス固有の不法行為」の結果である場合に限る。原因が「ナチス固有の不法行為」でなければ補償されない。「ナチス固有の不法行為」によるもの以外の被害は「賠償」の対象になる。ロンドン債務協定は賠償問題の検討を平和条約の締結まで棚上げにした。「ナチス固有の不法行為」以外の被害者は何ももらえないまま平和条約の締結を待たなくてはならない。

 平和条約が締結されないのは、ドイツが東西に分裂しているからで、「補償」の対象でないと認定された犠牲者はドイツ分裂のつけをまわされたようなものである。  その代表的な人々が「強制労働者」である。占領地からドイツに強制的、半強制的に連行され、工場や鉱山や農家で過酷な労働を強制された人々である。また、徴募に応じて自主的にドイツに来た人たちもいるが、労働の実態は普通の労働契約によるものとはほど遠く、強制的なものであったことは言うまでもない。  「死の収容所」から生還して補償された人々やその相続人たちより、強制労働者の数ははるかに多く、一千万人に及んだとされる。数からいって最大の被害者グループである。

  補償問題を取材した政治家が、わたしがノートをカバンに入れてからの雑談で、「強制労働者」の補償問題を、「雪崩」にたとえたことがある。戦後間もない頃の文献で「雪崩」の比喩を何回か見たことがある。もし一千万人に及ぶ被害者すべての損害を金銭で回復したら、その額は「雪崩」にも比すべきボリュームを持つ。戦後すぐの弱々しいドイツ経済への影響を考えると、この「雪崩」の比喩はあたっている。 うっかり声をあげて巨大な雪山が崩れ出したら大変だ。だから事情を知っている政治家は声をあげずに避けて通る。それほど微妙な問題なのである。

 一方、ロンドン債務協定が締結された一九五三年は、ドイツ賠償問題でみると、別の点でも節目になる年である。というのは、この年の八月二十二、二十三日に東側の交戦国、ソ連とポーランドがそれぞれ二カ国協定と覚書で、賠償を放棄してくれたからである。西ドイツ側の解釈に従うと、その対象は東ドイツだけでなく「ドイツ国民全体」ということになる。

   「平和条約」は禁句?

  戦後「平和条約」に繰り返し言及してきたドイツの政治家は、統一の可能性が現実的になった途端、このコトバをいっさい口にしなくなった。    

 ちなみに、このコトバをコール首相(当時)が公式の席で最後に用いたのは一九八九年十一月十日午前、マゾビエツキ・ポーランド首相との会談の席においてである。 ベルリンの壁が開いたのは前の晩だ。会談の席上、ポーランド側が強制労働者への補償要求を蒸し返した、対して、コール首相はロンドン債務協定に言及し、「賠償請求の検討は平和条約の締結まで保留されている」と指摘する。これはすでに述べたように型通りの回答で、ドイツ側は従来の立場を繰り返したにすぎない。            

  ポーランド側は強制労働者問題のほか、ドイツ占領下での親衛隊(SS)の不法行為の犠牲者や強制収容所の囚人等に対する補償を要求する。一方、ドイツはオーデル・ナイセ以東の旧ドイツ領土問題に触れ、ドイツ住民が残してきた財産所有権問題が未解決であることを指摘して、相手の気勢をそぐ。次に強制労働は、ナチス固有の不法行為ではなく、通常の戦争行為の結果だから賠償の対象であることを再確認する。さらに、ポーランド自身が一九五三年に賠償請求権を放棄していることを強調して、ガードを固めるのが、この独ポ懸案事項をめぐる対立のお決まりの構図である。

 ドイツ・ポーランドの接近が開始する一九六〇年の後半に、この構図は出来上がった。この接近は後にブラント首相(当時)の「東方外交」として結実し、賞賛されるが、こと賠償問題に関してはドイツの立場がこれほどまでに強硬であることは日本ではほとんど知られていない。  ブラント首相は一九七〇年、ワルシャワのゲットー蜂起記念碑の前でひざまずく一方で、この論法を執拗に主張し、粘りぬいたあげく、一九五三年の賠償請求権放棄をポーランドに確認させるのに成功している。 

 では、ベルリンの壁崩壊の翌日、ワルシャワでコール首相がロンドン債務協定に触れたのにはほかにどういう意味があったのか。 かりにポーランドに対して強制労働者の被害認めて支払うなら、それは補償ではなく、賠償になってしまう。前述したように強制労働はナチス固有の不法行為ではないからだ。そして、ポーランドだけに賠償するなら、ロンドン債務協定保留条項に基づき平和条約待ちで賠償請求権を保留してきた他の国々を不公平にあつかうことになる、と言いたかったからである。 

 当時、内閣府でコールの外交顧問役を勤めたホルスト・テルチクの「歴史を変えた三百二十九日」(邦訳)からうかがえるのは、前の晩ベルリンの壁が開き、随行記者を前に「この瞬間、世界史が書かれつつあるのだ」と語り、気分が特別に高揚していたコール首相である。そんなときに、四十五年前の借金話を持ち出され、コール首相が苛立たしい思いをしただろうことは容易に想像できる。 だが、壁が開いたベルリンで、その晩開催される集会に是が非でも出席したいコール首相は、ポーランド訪問をなんとか角が立たないように切り上げたい。そこで、「この話を続ける」ことでその場を一応切り抜ける。                    

  今まで考えることも出来なかった「ベルリンの壁の崩壊」が目の前で実現した。そこからドイツの政治家が統一に向かって動き出すのは早かった。  その統一は平和条約ぬきで実現するというのが、早い段階でドイツ政府の立場になった。壁が開いて二週間もたたない十一月二十一日、ワシントンで開かれたゲンシャー外相(当時)はベーカー国務長官(当時)との会談で、「平和条約ぬきの統一」について米側に理解を求め、承諾を得ている。               

  平和条約となると当然和平会議を開かねばならない。ドイツにとって和平会議というのはベルサイユが思い出され、至って縁起が悪い。それでだけではない。もし、まじめに和平会議を招集するとなると、第二次世界大戦のドイツ交戦国、六十五カ国が出席することになる。これではミニ国連総会だ。こうなると、延期されてきた「賠償問題の検討」を議題にされるのは避けられない。また、うまいこと議題にしないですんでも、そのために外交上の借りをつくる場面は避けられない。それに、こんな回り道をしていると、一番肝心の統一に時間がかかる。 この時間こそ重要な要因である。

 当時のドイツの政治家は「雨が降り出す前に、牧草を納屋に運び込む農夫」の心境だった。モスクワ上空には、保守派がいつ何時息を吹き返して、ドイツ統一を認めたゴルバチョフ書記長を失脚させてもおかしくないような暗雲がたちこめていると思っていたからである。  このときから、まるでしめしあわせたように野党の政治家もマスコミも平和条約に
は触れなくなる。         

  ドイツの東西分断は一九四五年の敗戦の結果であると同時に、またその状態を固定化した冷戦の結果でもある。  戦後も四十五年経過して、ドイツ人もオーデル・ナイセ以東の領土の喪失は戦争に負けたから仕方がないと考えるようになった。しかし東西分断のほうはドイツに直接責任のない冷戦のせいと考える。多分、これが戦後処理・平和条約を回避して統一問題を考えようとする理由かもしれない。         

  もちろん、友人が言うように、「歴史の終末」という奇妙な歴史観が流布し、話題もポスト冷戦後の「欧州共通の家」とか、むやみに未来志向になった、あの当時の熱狂が作用したことは言うまでもない。

   「平和条約」隠し

  当時のドイツ外交はゲンシャー外相の外務省とコール首相の首相府の二頭立て馬車であった。首相と外相が別の政党に属したこと、一九九〇年には国内で多数の州議会選挙と重要な連邦議会選挙があったこともあって、二頭の馬の呼吸は一致しない場面が多かった。 しかし、「平和条約ぬき」では一致する。         

  外務省は、厄介な国際関係と過去の経緯を見て、戦略的に平和条約への動きを封じようと考えた。これに対し、首相府の平和条約反対には「欧州共同体(EC)随一の経済大国が今更敗戦国の立場に立たされるのは我慢出来ない」という心理的な要因が強かった。 だから、首相府の統一のシナリオには、戦後処理という考えが稀薄だった。東西のドイツ国民がしっかり抱き合っていさえすれば、ドイツが戦後獲得した国際的地位と「民族自決権」という錦の御旗によって、「ベルリンとドイツ全体に権利と責任を持つ」米英仏ソの四大国が一方的に「権利」を放棄して再統一を認めるだろうと考えた。こう考えるのは、ドイツの分裂が東西の対立の結果と見なし、この対立状態がなくなれば当然統一に至っても当たり前と思うことである。裏を返していえば、この意識では、ドイツ民族の建国史が冷戦とともに始まることで、その前の時代を切っていることにないだろうか。というのは、敗戦、四大戦勝国の分割占領という経過を意識しないで、東側の自国領土を軍事大国ソ連によって不法占領されていると思っているからである。

 一方 「四大国の権利と責任」も、「平和条約」と同じように戦後西ドイツがさんざん言ってきたことだが、当時は「東西ドイツ二つの国家論」を封じるための方便になってしまっていたきらいがある。問題は、どこまでが現実で、どこまでが方便なのかを、自分でわきまえていないことだ。このあたりの分裂した意識は、前述の「歴史を変えた三百二十九日」の随所に窺われる。

 コール首相は東西ドイツ統一のための「コール十項目」を提案したが、これは関係国はおろか、自国の外相への打診もなく発表された。これもこの戦後処理意識の希薄さを物語る。また一九九〇年一月十日、東西ドイツ条約共同体の準備のために、ソ連が米国に旧戦勝四大国の外相会議の開催を提案したとき、「四人もの助産婦は不要だ」と、コール首相に叫ばせたのもこの意識である。

 ところが、実際には統一が戦後処理であると言う側面は、どうしても避けて通ることができない。だからこそ、『2+4会談』で、旧主要戦勝国との主権回復交渉をまず行い、その結果を『全欧安保会議』でその他大勢の小国に追認してもらうというシナリオにならざるをえなかった。   

 通常、和平会議は敗戦国と戦勝国すべてが列席して平和条約の調印をする。しかし、ドイツに関して実際に行われたのは、強国が出席する前半部(「2+4会談」)と、発言権のない一般国が参加する後半部(『全欧安保』)に分かれた変則的和平会議だった。こう見ると、『全欧安保』は、ヨーロッパの小国が勢揃いして、かたちだけでシャンシャンシャンと手をたたく和平会議第二部に場所を提供したことになる。そして、小国の発言の場であった全欧安保会議はドイツ統一後ほとんど開店休業状態になってしまった。

 この『2+4会談』の端緒になったのは一九九〇年二月七日から九日までのベーカー米国務長官のモスクワ訪問であった。米国は「ドイツ統一の外的側面と内的側面に分けて」進めることをソ連に提案する。ここでいう「外的側面」とは、四大国の「ベルリンとドイツ全体に対して持つ権利と責任」であり、これについては、「四大国だけの交渉は適切でなく」東西ドイツを加えた話し合いにすることが、ベーカー長官から説明される。「内的側面」のほうは東西ドイツが自分たちでいっしょになることである。           

 ソ連はベーカー長官と入れ替りにモスクワを訪れたコール首相にこの米提案に対す
る全面的承諾を伝える。 ベーカー長官がソ連にこのような働きかけをしてくれたのも、西ドイツ外務省が水面下で米国に対して工作した結果である。コール首相がモスクワに現われる前に、実際のお膳立ては出来上がっていたことは言うまでもない。  

 その直後、オタワで開催された、北大西洋条約機構(NATO)とワルシャワ条約機構とのはじめての合同会議、「オープン・スカイズ」会議の傍ら、「四大国と東西ドイツの外相が、ドイツ統一の外的側面に関しての会談の機会を持つことに合意した」ことが発表される。これはモスクワでのお膳立ての事後承認である。 

 統一を進め、話を煮詰めるにあたって、「外的側面」と「内的側面」に分けたことは重要な成果である。なにしろ「内的側面」――国家統一がドイツ国民の問題となったのだ。つまり、東西のドイツ国民が希望すれば分裂状態は終結する。「牧草を納屋に運ぶ」比喩に戻れば、こうなると仮のものであれ納屋は出来たのも同然で、後は空模様を気にしながら、できるだけたくさんの牧草を運ぶだけになる。 

 戦後処理というかたちをとるものの、大国の顔を立てることによって戦後処理、平和条約に伴う厄介な問題は極力避ける、これがドイツ外務省のシナリオではなかったのではないか。だから、それを話し合う会議も「平和条約」とか「主権回復」とか、過去を連想させることばがついてはいけない。こうして数式のような呼び名の「2+4会談」が生まれて、世界中に流布した。

 ゴルバチョフ書記長から「ドイツ問題を解決する鍵を手渡してもらって」(南ドイツ新聞)、モスクワから意気揚々帰国したコールに対して、保守政権に近いフランクフルター・アルゲマイネ紙は一九九〇年二月十二日付紙面で、「多数の国に巨額の損害賠償を支払うことになるような平和条約ぬきで済ませることのできる形を見つけるのがボンの今後の課題である」と、露骨な警告を発している。      

  領土・賠償のリンケージ 

 和平会議第一部に相当する「2+4会議」の日程も固まってきた。平和条約ぬきで
済ますというドイツのもくろみに、米国に続いて、フランスも賛成してくれた。 

 一般参加の和平会議第二部の日程はまだ固まっていないが、冷戦の終焉で翌年に開催予定だった全欧安保首脳会議の年内繰上げ開催を要求する声は日に日に増えつつあった。なかには、ドイツ側の意図を見透かしたかのように、全欧安保会議を和平会議の代替物とするのに反対するサッチャー英首相(当時)のような人もいないではない。ソ連も平和条約締結に固執しているが、自国外相が「新思考外交」と言っている以上、そんな「時代錯誤な」要求はいつか引っ込めざるをえまい。このように全体はドイツにとって都合のよい方向に流れていこうとしているのが、一九九〇年三月初めの状況であった。

 ところがドイツ外務省が引いた設計図をひっくりかえすような、思わぬ邪魔が入る。それも身近なところからである。「二頭立て外交」の馬の一方が突然別の方向に走り出そうとしたからだ。

 コール首相は三月二日、スポークスマンを通じて、「東西ドイツ議会がポーランド西部国境を最終的に承認する決議をすることによって、一九五三年のポーランドの賠償放棄宣言が今後も有効であることが明確にならなければならない」との政府声明を出させた。「オーデル・ナイセ以東の旧ドイツ領を放棄するから、ポーランドは戦時関連の賠償・補償要求を引っ込めろ」というのがコール首相の考えである。すでに述べたように、強制労働者の補償はドイツ側の定義では賠償概念に含まれているので、これは領土問題と賠償問題をリンクさせる提案である。

  このコール声明の直接のきっかけはデュマ仏外相(当時)の三月一日のベルリン演説にあった。デュマ外相は、オーデル・ナイセ以東旧ドイツ領土放棄を明言しないコールを批判して、「(コールの)沈黙が両方の意味にとれる、と本当に思われる瞬間が多い」と述べた。         

  当時、コール首相は「西ドイツは現在のポーランド領土に対して請求権をもたないが、統一ドイツの国境線を最終的に承認する権限をもつのは統一ドイツの主権者である」と繰り返していた。これは一九七〇年代、東方条約の合憲性について下されたドイツ憲法裁判所判決の趣旨である。領土に関する西ドイツ成立以来の国是は、ヒトラーによるオーストリア併合が始まる前の「一九三七年末の国境線に囲まれたドイツ国家が存在し続けている」というものである。(デスク注 一九三七年の領土という概念は連邦補償法にも出てくる)。このコール発言は憶測を生んだ。「統一が成就した暁には領土請求をするのではないか」という不安がポーランドで生まれた。そして、これは小国ポーランドいじめととられ、ドイツ大国脅威論と絡みあった。

 だが、コール首相の領土・賠償リンケージ論は今回が初めてではない。一と月近く前の二月二日にも政府スポークスマンを通じて同じ趣旨の声明を出させている。この時もデュマ仏外相のコール批判の演説に激怒した結果である。この時はマスコミもろくに取り上げず、問題にならなかった。 

 報道はどうしても物語と同じようにヤマをつくり、ヤマを求めるところがある。第一回目のリンケージ論が出た二月二日は、ヨーロッパ中が、ドイツ統一に関して好き勝手な発言をしている頃であった。壁が開いてから続いたこのような不透明状況が解消するのは、「2+4会談」が具体化した時点である。二月二日の頃はまだ、「ドイツ統一が果たして実現するか」という問題に関心が集中し、それがニュースの焦点だった。「どのように実現するか」はまだ焦点ではなかった。だから、「どのように」に関してのコール声明は大きな関心を呼ばなかった。

 ところが、二回目の領土・賠償リンケージ声明が出た三月初めの報道の焦点は別の問題に移っている。すでに敷かれた「2+4会談」路線がそのままうまく進行して行くか、行かないか、が重要問題になっていた。だから、統一賛成一色に染まったドイツのマスコミがこんどは同じ内容の声明に危険を感じて、いっせいに報道を開始する。 というのは、領土問題のこともあって、ポーランドが『2+4会談』への出席を求め、それを支持する国が増えていたからである。    

  領土問題が領土問題にとどまっているうちは、あくまでもドイツ・ポーランド二国間だけの問題である。ポーランドが出席して「2+4+1」になったとしても、それは「ポーランドの特殊な立場を考慮して」ということになる。ところが、領土に賠償がリンクされると、「このテーマなら我が国にも関係がある」と言いだし、参加を求めるだろう国はヨーロッパにはたくさんある。そうすると、「2+4+1+1+・・・」となって、恐れていたミニ国連総会に近くなってしまう。    また、こうなると大国出席の前半部と一般出席の後半部に分けたいと思っているドイツ外務省の青写真が台無しになってしまう。どうせ手放す領土でも、その前にうんと値段をつり上げておくのは外交上悪いことでない。だが、それも程度の問題である。 一番困るのは、せっかく未来志向で戦後処理の臭いを消すのに躍起になっているのに、世論の注目を浴びている領土問題に、よりによって世論の注目を浴びて欲しくない「賠償問題」が結びつけられてしまうことだ。「賠償問題」という寝た子どころか、闇に葬るつもりだった子を起こすことになってしまう。  ゲンシャー外相は問題をこのままにしておくわけにいかず、反撃に出る。

  「お金の問題はいっさい解決したい」

 「ゲンシャー外相が顔を下向きにして声を低めにゆっくり話し始めるときは、反撃に移るしるしである」とシュピーゲル誌が書いたことがある。その晩はまさにそのとおりであった。 外相は三月四日(日曜日)の夜、テレビのアナウンサーの質問に答えて語った。 

 「ポーランドが条約順守国であること、一度受諾したり宣言したりしたことを守る国であることを疑ってはいけない」

  ポーランドが一度宣言したことを疑い、もう一度その確認を求めるのは、相手を嘘つきであるかのように扱うことになる。これこそ失礼である。過去に一度ならず失礼以上のことをした国が、今度こそ礼に欠けるべきことをしてはいけないと国民に諭しているようであった。               

  その晩のゲンシャー発言を、テレビの前に座る人々はそう理解したと思う。そして次に来るのが決定的一撃だ。  

 「我々のほうから賠償問題を議題として持ち出すことが、ドイツ国民のインタレストに合致するかどうかは慎重な検討を要する」

 実のところジャーナリストを含めて、大部分のドイツ国民は、左右を問わず、戦後補償や賠償について至って無知である。あの「過去」があるから、とにかくたくさん払ったはずだ、と単純に思いこんでいるのがドイツ国民である。だから、失礼にも隣国ポーランドを嘘つき呼ばわりなことをし、自分からすすんでお金を払う話をしたがる人コール首相など、納税者の一人として許せない気持ちになる。

 戦争をしていない平時の国家はどこでも納税者共同体という性格が強い。当然、首相と外相の世論を前にしてのさや当ては外相の判定勝ちになった。 気持ちの上で収まらないコール首相の方は外相のテレビ・インタビューの翌五日に自分の党の議員総会で憤懣をぶちまけた。

 「ポーランドが国境の保証を統一ドイツに求める以上、ドイツが今後(ポーランドからの)不当な賠償要求から守ってくれる保証を求めるのは当然だ」

 ドイツ占領下にその人口が二〇%も減少した国に対して、この発言中の「不当な」という表現は穏当さを欠いている、と思われるだろう。この発言の背後にある領土問題については、ヒトラー・スターリンの独ソ不可侵条約でこの小国を分割したときの分割線が戦後そのままソ連・ポーランド間の国境線になり、その領土喪失を補うかたちでポーランド領土全体が西にのびて、戦後のオーデル・ナイセ国境線になった。ポーランドの東部国境を問題にせずに、西部国境ばかりを問題にするのは、大国ソ連に文句をいえないので、小国ポーランドに八つ当たりしていることになる。また独ソ不可侵条約の根底にある大国の覇権主義を肯定していることにならないのだろうか。

 コール首相の怒りは更に続く。

 「賠償と補償の定義が異なることなどはわかっている。お金に関することはいっさい解決したい」

 ポーランドにある「戦争被害者協会」が戦争で破壊された家屋等の被害も含めて計算した五千三百七十億マルク、西ドイツを訪問したポーランドの国会議長が挙げた二千億マルクとか、色々な数字が出ていたのかもしれない。しかしそのどれも正式の外交ルートを経由して出された要求ではない。コールの領土・賠償リンケージ論の数日前の二月二十七日には、国境問題でに関するマゾビエツキ提案が出ている。この提案は、「ポーランドが賠償請求権を放棄している」ことを今一度確認し、「強制労働者の補償は賠償概念に含まれないので、放棄していない」という一九七〇年の東方条約締結時のポーランド側の立場を繰り返している。ということは、領土とのリンケージで今一度「賠償の放棄」の確認をポーランドに求めるのはピントはずれの憾を否めない。

 残っている独ポ対立は、「賠償」と「補償」の概念の定義をめぐる対立で、こうなるとドイツ側の土俵での勝負になる。         

  もともと、西ドイツの戦後補償は、国際法上の「賠償」概念と国内法の「補償」概念を峻別する。ロンドン債務協定の保留条項によって「賠償」を棚上げしたうえで、ドイツの国境の外に居住している、ナチ固有の不法行為の犠牲者に対して人道的援護をすることであった。           

  被害に見合った補償というのが法的な補償だが、その枠外で行われる人道的行為という点では、甥が人迷惑なことをしでかしたので、おじさんが被害者に頭を下げ、なにがしかの見舞い金を置いてくるのと、本質的には変わりない。  この統一という終幕にあたって、ゲンシャー達が意図したのも、この人道的見舞い金方式を維持し、ロンドン債務協定のほうはうやむやにしてしまうことである。 

 それなのに、コール首相が「お金に関することはいっさい解決したい」と思って、(その気持はわかるにしても、)「賠償」並びに「補償」の概念について大声を上げるのは、冬山で「雪崩」をひきおこして、ドイツの戦後補償政策の根本を掘り崩すのと同じである。

 この首相と外相の対立は一時連立政権の危機にまで発展しかけた。しかし、首相の面子がまるつぶれにならない形で妥協が成立し、ぼやのまま消えた。結局、外務省がイメージする統一の青写真に飛び火することもないまま終わる。  統一の過程で「賠償」とか「補償」とかのテーマが世論の表面に浮かんできたのもこれが最初かつ最後で、この後友人が言ったように、「消えてなくなって」しまう。

   「包括的提案」

 「2+4」関連条約についてのコメンタールがドイツ統一の翌年の一九九一年に出版された。そのなかで、著者(法学者)は「2+4会談」が始まってから「平和条約について話されることはなく、決着済みの問題として扱われた」とあるのも、ここで述べた「平和条約隠し」が、いかに世論の注目を浴びないかたちで進行したかを物語るものである。

  当時、ソ連は公式にも非公式にも何度も平和条約の締結を要求している。第一回「2+4会談」の後の五月九日の対独戦勝四十五周年記念式典でもゴルバチョフはこの立場を繰り返す。全欧安保を「発言権なしの一般参加の平和会議第二部」にしようとするドイツ外交に対抗するための試案が練られていたのだ。

 ソ連がドイツ側の青写真に同意するのはそれから一月半も経過した六月二十二日にベルリンで開催された第二回「2+4会談」においてである。その席上でシェワルナゼ外相が「十一月開催の全欧安保に『2+4会議』の結果を提案する」ドイツ方式に賛成する。また、平和条約についても「東西ドイツ代表者の説明から、統一問題を平和条約以外の枠で解決したい希望が窺われるが……重要なのは解決案の形式でなくその内容である」と物分かりの良い態度を示す。  一月半のあいだに、なぜこんなに物分かりが良くなったのか。それはドイツからの舞台裏での外交的働きかけと経済援助の申し出もしくは約束があったからである。

 この事情はコール外交とそのスタッフの成功物語に属するものであり、テルチクの『歴史を変えた三百二十九日』に詳細に描かれているので、跡づけることは容易である。 もともと、コールは党務一筋で首相になった。人事の裁量で党内の権力基盤を築き上げた。党大会出席代議員の半分以上はコール党首に何らかの恩義を受けている、といわれる。この種の権力政治家は、条約等国際関係の複雑な構造は見えないことがあっても、相手の弱味がどこにあるかを把握するのは早い。陳情団のあしらいはお得意である。つまりことは、誇り高き旧戦勝国兼核大国という陳情団をどう巧みに処理するかの問題に帰着する。彼は早い時期に対ソ経済援助を行うことこそ難問を解くもっとも有効な鍵であるという確信に達して、経済援助申し出の信号を送る。ルートになったのは当時ボン駐在のクビツィンスキー・ソ連大使で、キーワードは独ソの包括的二国間条約締結提案である。ゴルバチョフという相手を考慮して、国際関係の高所に立った高邁なコトバを付け加えるのも忘れない。「ソ連軍の東独からの撤退」と言った露骨な表現を使ってぶちこわすことはしない。

  ソ連首脳陣の反応も早かった。五月四日、翌日から開始される第一回「2+4」ボン会談に出席するシェワルナゼ外相は借款の話をコール首相に持ち出す。  第一回ボン会談の冒頭演説のなかで、シェワルナゼ外相は次のように述べる。  

 「ソ連国民の意思は、堂々と公正に過去に決着をつけることである」とテーマを絞り、「ドイツ統一によって生じる問題は包括的提案によってのみ解決可能である」と妥協可能な方向を暗示した。「平和条約の締結の問題を論ずる方が正しいという、我々の見解に変わりはないとしても、国際法上の最終的解決こそわれわれの目標であり、これついて話そうとすることによって、われわれ(ソ連)は交渉相手に歩み寄る用意がある」     

 「堂々と公正に過去に決着をつけよう」と能書きをたれてお金を工面しようとすると、どうしても表現や文章構造が少し複雑になるのは避けがたい。

 コールの反応も素早い。ドイツを代表する二つの銀行の頭取を同行させてテルチク
外交顧問をモスクワでの借款交渉のために派遣する。

 コール首相は翌日に出発を控えたテルチクとの電話で、「自分はけっして平和条約を受け入れるつもりがないことを、ソ連側に説明するように命じる」(『歴史を変えた三百二十九日』)  

  ここで、テルチクが数ある懸案事項のなかで「平和条約」を特筆していることからも、ドイツ側がこの件こそ第一関門と見なしていたことが推測できる。  また、テルチクはモスクワでの会談を次のように回想する。

 「しかし同時に、わたしは『わが国はこうした援助を、ドイツ問題の解決に貢献する包括的提案の一部であると理解している』とも説明した。これに対して、シェワルナゼが笑って同意した」(『歴史を変えた三百二十九日』)

 シェワルナゼがここで笑ったのは、自分の演説の一節がやや露骨に関連づけられていたからである  こうして、ドイツは五十億マルクの対ソ緊急借款に踏み切る。これを平和条約締結要求の取り下げ料と見なせば、コール首相のおおらかな「包括的提案」の精神に反することは言うまでもない。パッケージの中にあるプレゼントの一つ一つを取り出して値踏みすることは、ドイツでも品の悪いこととされているからだ。        

  ソ連が平和条約締結要求を取り下げた第二回「2+4会談」においても、東独にある「赤軍兵士の墓地や記念碑の手入れと管理」のほかに「戦時下の強制労働者の補償」をドイツに要求した。この最後の要求はドイツ側の立場では「賠償」概念に含まれる。ソ連もポーランド同様賠償放棄しているが、相手が大国となると、「失われた東プロイセンの北半分の領土とリンクしよう」とは言い出さないのも、コール首相らしいところである。

   『それでも気になること』

 第二回の「2+4」ベルリン会談で、コール首相のおおらかな包括的精神に感応して、「重要なのは解決案の形式でなくその内容である」とシェワルナゼ・ソ連外相(当時)が言った瞬間、ドイツ側の悪夢ともいうべき「和平会議」、そして「平和条約の締結」、賠償問題の蒸し返しの可能性は現実の国際政治の上では消えたのである。

  当時、ソ連以外に「平和条約締結」を要求している国はなかったし、「戦後四十五年経過して、外交関係も樹立しているのに、いまさら平和条約を問題にするのは時代錯誤」というドイツ側の主張も自然に聞こえたからである。 もともと、敗戦という過去との関係をなるべく表に出さずに、未来志向(前向き)で東西ドイツ統一を速やかに実現しようとするのがボン外務省の立場である。   

 しかし、平和条約からロンドン債務協定保留条項につながる問題にも、何とかカタをつけたいとも思っていたのではないか、と推測される。ある問題を、それが問題でないとしながら解決するのは、当然困難なことである。だが、この困難な、よく考えてみれば奇妙な試みにドイツは挑戦する。

  現場は、一九九〇年七月十七日の第三回の「2+4」パリ会議で、だしに使われた
のはポーランドである。  第二回のベルリン会談から一と月もたっていないのに、状況はすっかり変わってしまっていた。というのは、その前日のコーカサス独ソ首脳会談で、ゴルバチョフが最大の懸案事項「統一ドイツのNATO加盟」を、あっさりと認めてしまったからである。     

  ポーランド外相が出席を許された第三回の「2+4」パリ会議の最大議題は、ポーランドと統一ドイツの国境問題である。  ポーランドは、統一後のドイツが国境線の承認と種々の要求を結びつける恐れを抱き、態度を硬化させていた。ポーランドから見れば、三月初めのコールの「領土・賠償リンケージ論」も、話がどちらに進展していくかを予感させるものであった。自国内に居住するドイツ人の問題も、また、もう住んでいない旧ドイツ人住民の個人資産の接収問題も未解決のままである。この接収資産の補償を求めてドイツ側はごねることもできる。ヤルタ体制の解消と進行中の独ソ接近も、過去に三度も東西の二強国によって分割された歴史をもつ国民にとっては、「歴史の終焉」などと言って喜んでいられる問題でないのは言うまでもない。

 このような状況のなかで、ポーランドにとって最後の頼みの綱は四大国であった。四大国が「ドイツ全体に対する権利」を手放す前に、独ポ国境条約の締結を済ませるか、それとも四大国が国際法上拘束力のあるかたちで、国境線を保証してくれることであった。これが実現するためには、四大国が肩入れしてくれなければいけない。  雨模様を気にしながら、出来るだけたくさんの干し草を納屋に運び込む心境のドイツ側にとって、このポーランド要求はのめるものでない。国境条約の締結となると、当然ポーランド国会が批准することになる。これと「2+4」会議によるドイツの主権完全回復とリンケージさせると、「われわれに、ドイツ統一の決定をポーランド国会にゆだねることを要求することはできない」(ゲンシャー外相)

  「2+4」条約が米英仏ソの議会で批准され、「統一の決定」をそれぞれの国会にゆだねるのは許せるが、ポーランドには同じことをさせないと思うのは、ドイツはこの隣国を「戦勝国」と思っていないからである。こうした区別の存在を知らなければ、ゲンシャー発言は理解できない。

  このポ独の真っ向からの対立で「2+4」会議が失敗することを恐れる議長国フランスの提案で、急遽クビシェフスキ・ポーランド外相とゲンシャー外相の個別会談がセットされた。その席のドイツ側は強硬だった。その後の七外相昼食会には四大国の支持もあてに出来ない雰囲気が濃厚にただよい、ポーランド側は要求をほぼ断念する。

  午後、条約文の作成が始まった。懸案の国境問題に関して四大国は、「四大国は、統一ドイツの国境がいかなる外的な出来事もしくは状況によっても問題にされない、最終的性格のものであることを宣言する」(「議事録」から)という文言で合意する。この文面では「四大国の保証」にならないことをポーランド側が指摘した。  

  ゲンシャー外相が、『それでも気になること』を持ち出すのはこの瞬間である。まるで待ち構えていたかのようにだ。  「議事録」から次に引用する。

  「ドイツ連邦共和国外務大臣は、ポーランド政府がこの宣言に『国境の保証』を見ることができないことを承知した、と述べた。同時に、この宣言で触れられている『出来事』や『状況』が起こらないことを、すなわち平和条約やそれに対応する取決めが今後なされないことを強調した」

  統一ドイツの国境線は四大国の宣言通りに画定される。また、今後平和条約が締結され、国境が変更されることもない。ということは、今後平和条約が締結されることがない、とドイツは解釈する、とゲンシャーは言ったのである。居並ぶ四大国が反対しない以上、平和条約の問題はもう存在しないのである。   

  この瞬間、戦後「平和条約」を要求してきたドイツ外交の百八十度の旋回が完了す
る。

  「賠償問題を決着済みと見なす」

  このパリ会談の後、ゲンシャー外相は、フランクフルター・アルゲマイネ紙の記者に 「平和条約もそれに類似した取決めも行なわれない。これから導き出される結果から、このことは重要な成果である」と語った。  コール政権寄りで政府関係者の発言をもとにつくった記事によると、この「成果」の具体的内容は、「『2+4』会議最終文書から、『平和条約』という名前のついた、別の取決めはなされないことが明らかになることである」 ドイツ政府が、この「これから導き出される結果」について、どのように考えるかは、 「『最終的な平和条約の取決めまで決定が中断される』という表現が以前使われたが、この文句は無効になる」 とクライン政府スポークスマンは説明する。

 このことが「重要な成果」になるのは、フランクフルター・アルゲマイネ紙によると、  「ドイツ連邦共和国は賠償問題を決着済みと見なす」(小見出し)からである。 こう書くと、ドイツの副総理であるゲンシャー外相が、皆が国境問題に気をとられているすきに、昔の古証文(=ロンドン債務協定)を破って屑かごに捨ててご破算にしたかのような感じになる。

 確かに、ロンドン債務協定には「賠償問題についての取決めは平和条約の締結まで保留される」とあるが、だからといって、「平和条約」が締結されなければ「賠償問題の検討」がなくなるという論理は成立しない、と法律の専門家でない者は考える。「出世払い」と称して借金をしまくって、今度は出世しなかったからと言って 借金が帳消しにならないのと似た理屈である。

  一九七〇年代の東方外交以来西ドイツだけが平和条約を締結した場合ロンドンの債務協定の保留条項が国際法上、どのように処理されるかについて扱った論文は幾つかある。しかし統一ドイツが平和条約を締結しないケースはほとんど想定されなかった。それほど、誰もが「ベルリンの壁」はほぼ永遠に存続する、と思っていた。一九九〇年の四月にベルリンで急遽開催された憲法学会においても、今まで問題にされなかった、平和条約なしの統一のケースについて、ハイデルベルク大学の国際法学者フローヴァインが、「賠償問題については法的に解明する必要がある」と述べている以上、賠償問題は「決着済み」ではない。また、統一後に出た法学者の見解も同じで、平和条約を締結しないことを理由に、昔の借金の話が持ち出されるのを法的に阻止することはできない、と見られている。  そうすると、「ドイツ連邦共和国は賠償問題を決着済みと見なす」には、どういう意味があるのだろうか。

  和平会議とか平和条約を阻止することによって、たくさんの国が束になってドイツに対して賠償を請求してくる機会をつぶすことができた。戦後「ロンドン債務協定」締結後、西欧諸国が団結して要求する場面があった。これは厄介と見て、ドイツは各国との二国間交渉に応じ、一九五〇年代の後半から六〇年代にかけて、西欧十一カ国との間に「ナチ不法行為の犠牲者のための] 包括条約が締結された。 ドイツ政府が「賠償は決着済みと見なす」のは、以前のようにロンドン債務協定の保留条項という歯止めがなくても、束でなく一国だけが請求して来たら、外交力でブロックできる、あるいはかわすことができる、と考えているからではないだろうか。また、それは「賠償」という名目ではいっさい金を払わないということでもある。

  統一して間もない一九九〇年十二月に独仏間で「賠償交渉」が始まったというニュースが流れ、このテーマに関心を抱く少数の人の注目を集めた。      

  「旧東独ソ連占領下、接収された仏人民間資産補償と第二次世界大戦時のフランス人労働者並びに労働に従事した捕虜の未払いもしくは寄託賃金に関する請求」(ディ・ヴェルト紙/十二月二十三日)が交渉内容とされる。少なくとも後者は今までのドイツ政府の定義によれば、賠償事項であるが、この表現を避け、会談の実務的性格をドイツ側が強調することは言うまでもない。

  この会談がどうなったかを問い合わせても、外務省からは「継続中」との回答しか戻って来ない。この独仏会談並びに翌年六月の「ギリシャの賠償請求」に関して、野党緑党・九〇年連合の連邦議員が政府に質問した。 大蔵省の役人による四角張った回答は「ギリシャ並びにその他の国で、第二次世界大戦時に起こった出来事に関連して、ドイツに対する債務請求問題が『賠償問題』という視点から論じられた。ドイツ政府はその種の請求を拒否する。またこの種の請求権を外国政府が公式に行使したことはない」(連邦議会刊行物一二・九二五)というものだった。

 フランスは欧州の大国であるから、少なくともまわしに手が届き四つ相撲つまり交渉が始まるが、他の小国ではそこまでも行かないのが現状である。        

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