なぜドイツに「援助交際」がないのか?

美濃口坦  (メールマガジン「Navigator」の「独逸回覧記」から転載)

毎年、京都なら紅葉狩りに行く頃、50キロ離れた田舎町の学校に行って半日だけ地理の授業を担当することにしている。クラスはドイツ式でいうと9年生だが、日本の中学3年生に相当する。

 その学校で地理と数学を担当している女の先生とは、学生時代に寮がいっしょであった。その後、何年もたってから出会い、彼女から、地理の授業で日本を扱ったときに、何でもいいから日本について話してくれと頼まれたのが授業をもつことになったきっかけだ。もう十年近く前のことである。

 「日本人が話すことに意義がある」と彼女がいってくれたことをいいことにして、私は何も準備しない。その日の気分にあわせて、「日本は南北に長い国で・・・」とか、あるいは「日本の受験勉強」とかいった話でお茶をにごす。

 授業時間の半分過ぎたところで質疑応答に移る。日本について生徒が質問するのに答えていると45分の授業がおわる。私は多い年は4クラス、少ない年でも2クラスやる。

 私もけっこう忙しいのに、毎年欠かしたことがない。先生のほうが別の国をやったりして調整して、私の日程に合わせてくれるからだ。手弁当で行くというのがよい。慈善団体に寄付するのはどこか私の趣味にあわないが、こういうのは好きである。むこうも私の授業風景の写真をもう3度も「学校のアルバム」にのせてくれた。

 去年のことである。4つめのクラスで質疑応答の部に移ったら、勉強家の女の子が新聞の切り抜きを取り出した。パンツを売ったり、また中年の男性にお金やプレゼントをもらってセックスをする日本の女子中高生の話である。この質問を聞いて私はうれしくなった。というのは、この質疑応答の部で退屈な質問が多いからである。

 私は「マスコミの誇張もあるかもしれないが、本当の話しである」と答えて、「日本では洗濯機の普及率もドイツに劣らず高く、なにもパンツを洗濯するのが面倒なために、はいていたパンツを売るのではありません。また確かに残念なことに、どこの社会も使い捨て社会ですが、この場合はだいじにとっておく人がいるので・・・」といった調子ではじめた。

 そして「ブルセラショップ」や「援助交際」について、仕入れた情報を披露した。クラス全体の関心度が上昇していくのが感じられた。

 後ろに座っていた男子生徒が「男の子のパンツは売れないのですか」と合いの手をいれて、皆が笑った。私も気合が入る。

 「女子の生徒に聞きたいのですが、友達に中年の男性と交際して、お金をもらっている人がいたとしますね。その人が代わってくれといったら、やりますか。マクドナルドで働くより収入はいいですよ」と私が質問した。全然返事がもどって来ない。後にいつも座っていてくれる知人の先生の笑顔が見えた。そのとき授業終了のチャイムが鳴った。

 
●かなり日本的現象

 日本から来た人と話すたびに、ひところ「援助交際」がよく話題にのぼった。では、なぜドイツに「援助交際」がないのか?

 この現象と関連して、日本では「モラルの低下」、「価値の相対化」「消費至上主義」、「父親の権威の低下」といったことが指摘される。

 でもこんなことは、日本だけでなく、どこの先進国でもいわれていることだ(たとえば多くの家庭で、子どもは両親をファースト・ネームで呼ぶ。友達あつかいにしているのだ)。とすると、この風俗現象がドイツ社会に出現しても不思議ではない。

 私の感じでいくと、これはかなり日本的現象である。日本独特の社会構造と関係がある。

 なぜドイツに「ブルセラ・ショップ」や「援助交際」がないのか。答えは至って簡単である。ドイツには「女子中高生」が存在しないからだ。存在しない以上、日本の「オヤジ」に相当するドイツの中高年男性の性的妄想、イマジネーションの対象になりようがない。

 
●ドイツに「女子中高生」はいない(!?)

 第一に、私たち人間の性的行動はワンちゃんと異なって生理的メカニズムから独立している。それはどこか頭のなかの観念やイマジネーションと結びついていて、私たちは自分から性的興奮を求める。だから人間の性行動は性的妄想で発情するので季節に無関係である。

 次に上記の、「ドイツには『女子中高生』が存在しない」ということを説明してみる。ドイツ社会でも日本の中学や高校に相応する年齢の女の子がいて学校に通っているかもしれない。

 ところが、教育期間中の女子のグループは、日本の「女子中高生」のように他の集団からはっきりと区別された社会グループとはいえない。社会グループとして存在してくれないと、性的イマジネーションの対象にならない。

 ドイツは、日本のようにすっきりとした「六・三・三制」のシステムでなく、学校制度は「複線型」である。

 これはどういうことかというと、職業教育を受ける女子もいれば、将来大学教育を受ける女子もいるなど、境遇があまりに違いすぎて、同年齢の彼女らを「女子中高生」として束にすることは困難だ、ということである。要するに複線型学校制度はややこし過ぎて性的妄想には不向きということになる。

 ここで、昔大学でドイツ語を習った本誌『Navigator』の読者は「シュールメートヒェン」という単語を持ち出してくるかもしれない。

 「シュ−レ(学校)」という単語と、「メートヒェン(少女)」という単語からできたこの合成語は、ドイツ社会では死語に等しい。この事情は、日本語でも「乙女」が今や性的イマジネーションを刺激できず、「ブルセラ・ショップ」とやらに飛びこんで明治時代の女学生の袴をよこせと叫ぶ人がいないのと似たことである。

 私たちの頭のなかにある観念と結びついて性的妄想を呼び起こすためには、いくつか条件が必要だ。第一に、対象が「女子中高生」という社会グループとして存在し、同時に他のグループと区別される境界線が存在することが重要である。何しろ日本の女子中高生は制服を着ていて、露骨に区別されている。

 第二に、できたらこの境界線が少しでもタブー化しているほうがよい。日本で「オヤジ」と呼ばれる中高年も彼らの想像のなかで学校の壁をよじ登ったような気持を味わえないと、大枚をはたく気がしないのではないのだろうか。

 第三に、性的妄想を刺激するためには、この集団がイメージをたっぷりと含んでいる必要がある。「女子中高生」という社会グループは今述べた条件を兼ね備えていると思う。これに対応するものはドイツ社会に見つけることはできない。

 
●「赤い夕陽が校舎をそめて」

 私がはじめて「援助交際」の話を聞いたとき、大枚をはたく「オヤジ」連中の気持が痛いほどわかった。私は昭和20年生れである。今の日本の若い人たちのことはわからないが、私たちの世代はフロイド先生の昇華理論のいやいやながらの信望者で、性交能力獲得後何年にもわたって禁欲生活を強いられた世代である。

 また、この年齢の日本人男性は赤線廃止後の世代でもあり、舟木一夫の「高校三年生」を聞きながら性欲の昇華のために勉強とスポーツに励んだ。私たちにとって、この歌の歌詞にあるように、フォークダンスこそ、セーラー服に包まれた女性の肉体に接近できる、数少ないチャンスであった。

 私にとって、当時女性の身体とはショーウィンドウに置かれたお菓子のようなもので、通学時横目で見るだけの存在であった。

 私と同世代の日本人男性のこのせつない潜在的制服フェティシズムを、ドイツの「オヤジ」世代は絶対理解できないと思う。というのは、思春期の彼らにとって、同世代の少女は手の届く存在であった。

 ここで詳しくのべないが、彼らの性的興奮パターンは遥かに多様化しており、同世代の日本人男性のようにセーラー服で需要を束にすることは困難である。愛好者の数が集まらない以上、ドイツで「援助交際」の市場を形成することは不可能だ。

 
●「自動車修理工型」セックス観

 ここまで、私は世代論的に「援助交際」を理解しようとした。「援助交際」の需要者は私の世代だけではない。その後に生れた男性も「オヤジ」になっているところを見ると、私の世代が遭遇した状況が日本社会でゆっくりと崩壊しなが らも、ある程度続いたとも考えることができる。

 もしかしたら、世代以上に大きな要因は別のところにあるのかもしれない。それは日本社会全体に充満している「少女嗜好」である。この傾向は日本の若い女性のメークアップや着飾り方、また「アイドル」と呼ばれる女の子を見てもわかる(この数年来、この傾向が弱まりつつあるような気がする)。

 70年代、私が日本語講習会の講師をつとめた頃、日本と関係のあるドイツ人と話す機会が多かった。特に印象深かったのは日本に長期滞在し、日本人男性との婚姻・恋愛関係にあった何人ものドイツ人女性との話である。私は彼女たちと日本人男性のセックス観についてもよく議論した。

 彼女たちの目についた大きな相違点は、性的関係で女性が受動的役割を強いられることであった。ある女性は、日本人男性の性行動にはふたつのパターンしかなく、一つは「擬似的強姦型」で、もう一つは「自動車修理工型」であると主張した。

 第一のパターンは、彼女たちが突然押し倒されたという印象をもったということである。第二のパターンは、説明を要する。

 これは、男性が女性の身体をエンジンのかからない自動車のように扱う思考パターンである。この考えでは、女性の性感帯はセンサー、スイッチ、バルブといった自動車のなかにある部品のようなものであり、これらを「自動車修理工」の男性が苦労して調整する。

 そして最後に女性が、自動車のエンジンがかかるようにオルガスムスに達するというパターンである。彼女はこう説明し、このセックス観のほうが自分にあっていると言った(ちなみに、日本の娯楽小説の性描写を集めて分析したドイツの日本学者も、類似したパターンを見ている)。

 このセックス観は、パートナー間の相互性を重視する西欧人のそれとはかなり異なる。日本人男性のセックス観の根底には、「成熟した女性を性的パートナーとして忌避したい」という潜在的願望があるのではないか。

 とすると、最初にふれた日本人男性の「少女嗜好」がメダルの表とすると、こちらはその裏側ということになる。

 これと関連して重要と思われるのは、日本の核家族の在り方である。ドイツのそれと比べて一番眼につくのは、母親の絶対的に大きな役割である。次の相違は「教育ママ」といった現象が示すように、母親と子ども、特に息子との密接な関係である。

 母親は成熟した女性である以上、「成熟した女性を性的パートナーとして忌避したい」という男性の潜在的願望は、どこの社会や文化にも存在する近親相姦タブーの反映ということになる。

 このように考えると、「援助交際」は日本の家族構造に深く根差した現象で、「高校三年生」を聞いた禁欲青春世代といっただけの問題ではないことがわかる。

 
●天国のような労働条件

 ここまで、私は需要サイド、「買春」の方を問題にしてきた。今から「売春」の方、供給サイドのほうから考えてみる。

 ドイツで売春そのものは法的に禁止されていないが、未成年売春は取り締まられる。ところが、諸々の事情から18歳以下の未成年の売春はこの十年来増大しつつある。次に、この国の未成年者売春にはふたつのケースがある。

 第一のケースは麻薬常用者が従事する場合で、第二は普通の売春婦であるが、年齢が低くなっただけの場合である。

 第一のケースは、高価な麻薬を常用するので、ヒモからみると搾取しにくく、業界のなかでは商売の邪魔と見なされている。第二のケースでは、少女たちが自立するために家出してきた事例が圧倒的に多い。また未成年売春は不法行為であり、ヒモなしでの営業は不可能である。

 その結果、彼女たちはこの業界組織にしっかりと組み込まれている。また未成年であるからといって、日本のように彼女たちの附加価値が特に増大するわけでない。不法行為はリスクを伴うこともでもあり、その結果彼女たちの業界内でのランクは低い。

 このように考えると、「援助交際」の少女たちは、ドイツの同じ年頃の少女と比べて、とても良い条件で働いていることになる。「援助交際」の彼女たちはセミプロのカテゴリーに入り、気が向いたら仕事をすればよい。多くの社会で、また昔から、売春は強固な差別にさらされていて、堅気の世界を立ち去り、売春婦になることは逆戻りできない境界線を越えることを意味する。

 それなのに、彼女たちはこの境界線を自由に往来する。ヒモや組織に搾取されているわけでない。また一回の作業で動く金額も、また仕事内容(エスコート等)も、ドイツ、あるいはヨーロッパでいえば高級娼婦に近い。このように天国のような労働条件を可能にしているのは、すでに述べたように、世代体験や社会構造に根差した需要の高さである。

 売春業界の既存組織から見れば、こんないい話を黙って見ている手はない以上、彼女たちを組み入れようと努力するのではないのか。同時に、モラル低下を嘆く人々が、規制の強化を求めることで、この既存組織の願望に協力することになると思う。

 ブームは終ると思うが、需要がなくならない以上、今後も別のかたちで類似した現象がでてくると思われる。

 
●嘆かれる「倫理の喪失」とはいったい何か?

 さて、私の授業の話に戻る。去年、地理の授業の後、担当の先生に電話して女子生徒の意見をそれとなく聞いてくれるように頼んだ。数日後電話がかかってきた。

 全部で6人の女の子に聞いてくれたそうである。下着を売るのは6人とも「高く売れ、自分の写真とか名前を下着といっしょに置いてくるのでなければ」という条件でOK。その一方、最初から性的な意図をもつ中高年男性とはいっしょに出掛けないと、皆が言ったそうだ。

 先生にとっては、下着の回答が特に意外であったようである。自分が15歳だったら、下着のほうに抵抗を感じ、デートしてお金をもらうだけなら、やっただろうと正直に語った。

 こんなミニ調査結果に、私はたいした重要性を認めない。また彼女が尋ねてくれた6人の中学3年生が「性的意図をもった中年男と出掛けない」と口を揃えて回答したことも、倫理観がしっかりしているとか、もっと昔風に「操が堅い」と判断することに私は疑問を感じる。

 行動様式は時代や文化によって、どんどん変わっていくものである。同一の時代や文化でも多数派の行動様式と、それから逸脱した少数派の行動様式がいつも共存している。この少数派の異なった行動を倫理観とかモラルの欠如として早急に弾劾する人を昔から私は理解できない。

 またどこの社会でも、「援助交際」のようなことが話題になると、価値や倫理の崩壊とかモラルの低下を嘆く人はおおぜいいる。確かに売春は多くの社会でタブー化されていて、社会的制裁の対象になっている。

 しかしこれ自体は慣習のようなものであり、その点では「ナイフとフォークを使って食べる」といった、しきたりと変わらない。ところが、「倫理の喪失」を叫ぶを人たちはそんなことなど夢にも思わないようである。

 もしかしたら本当は、このタブーを、しきたりと思った後、それでも自分が守ろうと思うものがあるかないかを考えるときに、倫理的判断が生れるのではないのだろうか。

 日本で「援助交際」をした少女たちが「自分達は誰にも迷惑をかけていない」といったそうである。正直いって、「モラルの低下」を嘆き、本当は「食事のときはナイフとフォーク使いましょう」といった程度のことしか言っていない文化人の発言より、彼女たちのこの発言のほうに私は倫理的なものを感じる。

 
●「援助交際」は少女たちの仕返し

 私が最後にふれたい点は、時々接する日本の若い女性を見ていて、かなり前から気になっていることである。それは彼女たちの成長段階に関連する。14歳ぐらいまでは、ドイツの女の子も日本の女の子もあまり変わらない。ところが、日本ではその後の成長が、人工的に遅らされている印象を私は受ける。

 ここでいう成長とは体でなく、アイデンティティの形成という意味でである。ドイツへ来て16歳ぐらいの少女と話したりする日本人の多くが「しっかりしている」と褒めたり、反対に「(年より)ませている」いった印象を抱くのも、この事情を物語る。

 社会的圧力でアイデンティティの形成が遅らされるために、日本の女性は思春期前半の特徴を、十代の半ばを過ぎてからも延々と、人によっては結婚するまで引きずっていくのではないのか。

 彼女たちが、自分もしくは未来のパートナーの外見を極端に重視したりするのも、性を含めて身体性を受けいれることができない証拠である。これは本当のところ思春期前半に見られる傾向である。

 最近日本から来た科学記者に聞いたのであるが、自分の大便の臭いを消す経口薬が日本で若い女性に爆発的に売れているそうだ。これも彼女たちの反身体性、反肉体性の一例である。

 ドイツ人の女の子であれば、15歳を越える頃から恋人もでき、性的体験を重ねたり、あるいはその恋愛関係が破綻したりしているうちに、思春期前半に気にしていたことが消えたり、ワン・オブ・ゼムになっていく。同時にこれは彼女たち個人のアイデンティティの形成過程でもある。

 日本の十代後半の女子を見ていると、私は彼女たちが「女子中高生」と束にされて、どちらかというと思春期前半の役割を強制されているような気がしてならない。

 このように考えると「援助交際」とは、「少女嗜好」の強い社会の期待(圧力)を逆手にとった彼女たちの仕返しであるのかもしれない。

 

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