電車のなかのグローバリゼーション
ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口 担
少し前近所に住む日本人女性が「南ドイツ新聞」の記事を見せてくれた。「日本
で痴漢が列車から飛び降りる」という見出しで、隣にオスカー受賞式の写真が並
んでいるところを見るともうかなり前の新聞記事である。
事件は次のように起こった。大阪・京都間を走行中の特急電車のなかで39歳の
男性が隣に座る女子学生の下半身をさわりはじめた。彼女の抗議を無視してであ
る。そこで女子学生は携帯電話で知人に連絡したところ、男は突然逃げだした。
その女子学生は携帯電話で話しながら逃げる男を追いかけたところ、男は女性の
眼の前で驀進する電車の窓を開けて飛び降り、顔や肩の骨を折りなどの重傷を負
った。
記事は「日本には電車のなかで痴漢の被害にあう女性が多く、駅の構内にそれを
禁ずるポスターが見られる」というドイツの読者への背景説明で終っている。
いかにもドイツの新聞にのりそうな日本のニュースだと私に思われた。「従順」
のイメージがある日本人女性が、携帯電話を片手に「性的自決権」侵害者を追い
詰めていく。ドイツで携帯電話は日本ほど普及していないせいか、グローバリゼ
ーションの象徴と見なされている。また「人権」が地球上遍く広がることをグロ
ーバリゼーションと見なす人達が多い。ドイツ人の眼には事件がグローバリゼー
ションを絵にしたような場面にうつる。
★なぜドイツの電車のなかに痴漢がいないのか?
この記事を見せてくれた女性は70年代京都に住み、大阪まで電車で通勤した。
当時彼女にとって通勤とは「痴漢との戦い」であったそうである。この新聞記事
がきっかけで彼女に痴漢の不愉快な記憶が蘇ってくる。
日本の男性は満員のときだけではなく、二人掛けシートの特急でもこの行為に走
った。隣で新聞を読んでいるはずの男性が手を伸ばしてくる。彼女は直ぐ立ちあ
がって逃げられるように窓際には座らないように心がけたという。
彼女はその後ドイツに暮らすようになった。かなり長い間、この国で電車が満員
になっても痴漢が出没しないことが彼女には不思議で仕方がなかったそうだ。
八十年代後半のある日、旅行でドイツを訪れた日本人女性が「この国の電車には
痴漢がいないの?」と私にきいた。「痴漢」という日本語も忘れかけていた私は
当時この質問に答えられなかった。それ以来気になって、何か機会がある度に色
々な人々とこのテーマについて話すよう努めた。この国の交通機関に本当に痴漢
がいるかどうか、いるとすればどんな性格の痴漢かを特定するためにである。相
手が男性なら痴漢をしたい気持になったことがあるかどうか尋ね、女性にはその
種の行為の被害にあったことがあるかどうか、またその時どのように反応したか、
あるいは反応するかをきいた。
こうして私が話した人はかなりの数にのぼる。この国の女性が最終電車のなかで
酒気を帯びた男性から誘われたことを類似体験としてしばしば挙げるところをみ
ると、日本の通勤電車のなかで横行するような痴漢はドイツで見つけるのは本当
に難しい。では、なぜそうなのか。
痴漢と関連して、日本通勤電車の満員ぶりがよく指摘される。とはいっても、電
車はどこの国でも満員になることがある。満員電車は痴漢に都合の良い環境を提
供するかもしれない。でもこれだけですべてを説明できるものではない。もっと
色々な文化的・社会的要因が組合わされたものと考えてみるべきではないのか。
★ドイツ人男性が感じる心理的ブレーキ
私に記事を見せてくれた日本人女性の見解では「日本の男は本当にいやらしいの
だから」ということになる。でも自分が日本人であるから弁解するわけでないが、
ドイツにも色々な男性がいて、ヴァイツゼッカ−元大統領のように「劣情」と無
縁な人ばかりとは限らない。ちなみに、この国には強姦もセクハラもあるし、ド
イツ人男性の「売春ツアー」は「世界に冠たる」ものがある。ということは、彼
らも別の状況では「いやらしく」なる。それなのに、どうして電車のなかで「い
やらしく」ならないのだろうか。彼らはなぜこの状況で心理的ブレーキを感じる
のであろうか。問いを設定するならこうなると思う。
ここでドイツの周辺国に眼を向け、イタリアを例にとる。そこで暮らすドイツ人
女性だけでなくイタリア人女性も証言するように、イタリア人男性には心理的ブ
レーキなど無縁らしく、満員電車のなかでの行動が日本の男性に似ているそうで
ある。
この独伊の男性の相異を私達はどのように考えたらよいのであろうか。イタリア
はカトリックの国である。ドイツにはカトリック教徒もいるが、社会の指導原理
はプロテスタンティズムである。プロテスタンティズムというと、マックス・ウ
ェーバー以来「資本主義の精神」と関連づけられるが、性的行動様式の相異を理
解するためにも、この相異は本当に重要である。
周知のように、キリスト教倫理は本来繁殖以外の目的に役立つ性行動、例えば快
楽をもたらす性行為を罪悪視する。西欧社会がこの倫理観から自由になるにあた
って推進力となったのは「ロマンティク・ラブ・イデオロギー」と呼ばれる考え
方である。これは愛情とセックスの一致をめざし、「愛の絆を深める」ために男
女が性的快楽を享受するなら、それは良いこととして承認しようとする考えであ
る。この「愛を伴うセックス」すなわち「恋愛結婚」推進の考えは小説・映画を
通じて流布され、また日本でも明治以来、周知のように「核家族」イデオロギー
として寄与した。
次に重要な要因は、信仰上の内面性を重視する宗教改革から生まれた新教的社会
でのほうが、カトリック社会より「ロマンティク・ラブ・イデオロギー」の浸透
度が遥かに高いことである。これも、「愛」ということが心の問題である以上、
当然のことである。
例えば、婚姻外の性的関係があって、イタリア人なら(多分日本人も)、この程
度なら離婚などする必要がないと思っているのにドイツ人同士のカップルでは破
綻に至ることが多い。これは彼らが「浮気」ですますことができず、(どこかで
)本気になってしまうからである。この事情も、本人たちは気づかないが、「ロ
マンティク・ラブ・イデオロギー」、すなわち「愛を伴うセックス」という考え
方をいかにまじめに受け入れてしまったかを物語る。
次にこのイデオロギーに反する性的行動はプロテスタンティズム主導社会の内部
でどのように処理されるであろうか。宗教改革そのものがこのカトリック的ダブ
ルスタンダード反対運動としてはじまった以上、プロテスタンティズム社会は原
則に合わないことを許容できない。ということは、「ロマンティク・ラブ・イデ
オロギー」に則しない性的行動、例えば電車のなかで女性の身体をさわることに
対するドイツ社会でのタブー度、あるいは男性個人が感じる心理的ブレーキは、
ダブルスタンダードに慣れた、イタリアのようなカトリック社会よりはるかに強
いことになる。
以上が、ドイツの男がイタリアの男のように電車のなかでは気安く痴漢行為に走
れず、自分の手を行儀よくじっとさせている事情である。私とこのテーマを話し
たドイツ人男性が痴漢行為を情け容赦なく指弾するのも、またこんなことを話題
にしているだけで彼らが気まずく感じるのも、彼らの意識のなかに「ロマンティ
ク・ラブ・イデオロギー」で解除できずに残るタブーが存在することを物語る。
数年前「売春ツアー」を研究しているベルリン大学の社会学者と話していて本当
に面白いと思ったことがある。それは、この社会学者がドイツ人の「売春ロマン
シズム」と呼ぶ現象であった。これは、「売春ツアー」で外国へ行くドイツ人男
性のなかから、かなりの高い割合で売春婦に恋愛感情を覚える者が現れる事実で
ある。なかには少数ながら本当に結婚する人もいるという。
買・売春も、痴漢行為と同じように「ロマンティク・ラブ・イデオロギー」で
正当化できない性行動であり、ダブルスタンダードを認めにくいドイツ社会では
どこかタブーである。「売春ロマンシズム」とは、いうまでもなく売春婦に恋愛
感情を抱くことで心理的ブレーキもしくはタブーを感じないですますことである。
この事情も、ドイツ人男性の意識が「ロマンティク・ラブ・イデオロギー」によ
って強く規定されていることの例証である。
★イタリアの痴漢と日本の痴漢の相異
イタリアに出掛けたドイツ人の女性が驚くのは自分が四六時中至るところで「女」
になること強いられる点である。というのは、すきあらば口説こうと男性は待ち構え
ていて、絡むような視線を投げかける。うっかり見返したら「求愛行動」の次のス
テップが始まることを覚悟しなければいけない。その後、求愛行動の種々の手順を踏
んで、いつかベット・インという終着駅はに至るが、終着駅はどこでも似た風景で
あっても、途中のプロセスは文化によって異なる。
イタリアとドイツでは、よくいわれるようにジェンダー文化が本当に違うのである。
いくら色気の乏しいドイツ社会でも若い男女が並んでベットに入れば「女」と「男」
になることは間違いないが、日常生活の多くの場面で自分のジェンダーを意識しない
ですますことができる。
それとは対照的にイタリア社会の成員は例え労働していても「女」として、また
「男」として四六時中気合が入っている。
このようなイタリア文化を背景に満員電車のなかでの痴漢行為を考えてみる。この行
為は「搦め手からの口説き」に近いと見なすことができないだろうか。つまり求愛文
化が定める中間ステップのバリエーションのようなものに思える。女性が満員電車の
なかで痴漢に遭って怒り出すのも、自惚れが強くなかなかあきらめようとしない男を
罵って追い払うのと似ているのではないのか。私は痴漢体験をした女性から聞いただ
けであり、残念なことに現場に立ちあったことがないが、イタリアでの痴漢をこのよ
うに想像している。
次に日本の痴漢である。これもイタリア的痴漢と同じで、「搦め手からの口説き」の
一種と見なすことができるであろうか。日本で一口に電車のなかの痴漢といっても
色々なケースがあるかもしれない。とはいっても、日本で見られる痴漢がイタリアの
ように求愛行動の手順の一つと見なすことは絶対できないと私には思われる。
その根拠は、日本で痴漢の被害にあった女性の反応が全く異なるからである。すでに
述べたようにイタリアの満員電車のなかで突然女性被害者が罵りはじめることがあ
る。反対に、痴漢の被害にあった日本の女性は自分の怒りや不快感を表現しないし、
できないことが多い。これは、さわる・さわれるの現象面では似た出来事の根底に文
化的に異なった「男女の関係」が存在することを物語る。
★満員電車が人里離れた「森の中」になる
本当のところ、日本の電車で被害者の女性が怒らないことは奇妙なことである。と
いうのは、彼女にとって加害者は車両がいっしょになっただけの関係である。この点
で職場のセクハラと異なり、本来遠慮しないで怒ったり罵ったりできるはずである。
私と「痴漢」について話したドイツ人女性の多くが注目するのはませにこの点であ
る。彼女達は異口同音に電車のなかでさわられたら「一度目は無視するかもしれない
が、二度か三度のところで大声をあげるか、あるいは罵ったりあるいはぶん殴るなり
して絶対反撃にでる」と宣言している。
日本人女性がそのように反応できないことでドイツ人に思いつく説明はいつも決まっ
ている。
日本社会では幼児期から女性に摺り込まれた「理想的女性像」があり、大声で怒った
り罵ったりすることはこれに反する。だからこそ、日本の若い女性が(自分達のよう
にはしたなく)わめきちらすことができない。彼女達はこう理解しようとする。この
説明は間違っていないかもしれないが、問題の根はもっと深いように私には思われる。
伝統的男性社会のなかには、よく女性成員が出入りできる空間が決まっていて、女性
はこの中にいる限り男性の付属品(妻もしくは娘)として共同体の保護の対象になる
ことがある。ところが、一度この空間を離れるとこの女性は保護の対象にならず、何
が起こっても自業自得とされる。例えば、男性が森の中をひとりで散歩して強盗の被
害にあえば、運が悪かったと同情されるだけである。ところが、同じ状況で同じ被害
にあった女性に対して、私達は一応同情はするが、寂しい場所をうろうろして「挑発
した」ことを非難するはずである。この種の性差別(セクシズム)のメカニズムは、
世界中でフェミニストに散々指摘されてきたことである。
多くのドイツ人女性と話すまで、私はあまり考えなかったが、日本の電車の中で起こ
る痴漢にはこの性差別のメカニズムが働いているのではないのだろうか。というの
は、多数の人間がいるはずの満員電車という空間が、奇妙なことに加害者男性と被害
者女性の二人しかいない、すでに述べた女性が一人歩きするべきでない「森の中」の
ようになってしまうからである。この「森の中」で女性は共同体の保護の対象として
扱われない。同じような論理で満員電車のなかで痴漢行為が社会的に甘受されてきた
のではないのか。だから被害者もろくろく文句を言えなかったのである。
この数年来痴漢被害者のために女性の相談係りが設けられたり、ポスターが貼られて
痴漢をはっきりと犯罪扱いするようになった。これらは痴漢が性差別という認識に基
づく対策で、徹底されれば効果があると思われる。
★「第三者不在」の意味
被害にあったドイツ人やイタリア人の女性が電車のなかで罵るのは、「満員電車」が
人里離れた「森の中」でなく、「第三者」というべき他の乗客が自分達の言い分を聞
いてくれると思っているからである。また状況次第では連帯精神を期待できるのであ
る。もちろんこの前提がなければ、怒りを感じてもそれを表現する気にもなれない。
満員電車に「第三者」が存在しない問題は、すでに述べたように性差別のメカニズム
の反映と見なすこともできる。でも、この現象は同時に別の性格の問題とも絡み合っ
ていると私には思われる。
「第三者」が消えてなくなるのは痴漢の被害を受けた女性に対してだけであろうか。
もしかしたら、この「第三者」の不在こそはこ日本社会で色々な現象となって現れる
のではないのだろうか。
別の観点からこのことを見てみる。
「強いか弱いか」とか「勝ったか負けたか」だけを問題にし、他の観点をないがしろ
にする考え方はソーシャル・ダーウィニズムと普通呼ばれる。外から見ていると、日
本で起こる事件がこの「弱肉強食」的世界の出来事以外の何物でもないと思われるこ
とが本当に多い。
ここで冒頭の「南ドイツ新聞」の記事に戻る。この39歳の男性は「第三者」の存在
など感じないで、女子学生の抗議を無視した。それは自分が強者であると感じたから
である。ところが今度は突然自分が弱者と感じて逃げ出し、最後には窓の外に消えて
しまう。ということは、強いか弱いかだけの話しである。
例えば「不始末」を起こした企業の幹部が土下座をする。この幹部は電車のなかで逃
げ出した痴漢男と同じで、旗色が悪くなったからそうしているだけである。またそれ
まで弱かった「被害者グループ」が土下座を要求する。それは彼らが強くなったから
である。ということは、どちらも「強いか弱いか」だけのシーソーゲームをしている
ことにならないだろうか。
欧米のメディアは「土下座場面」を日本的として好んで報道する。もしかしたら私達
自身もこれを日本的と思い込んでいるのではないのだろうか。でも「強いか弱いか」
のシーソーゲームなど、どこの社会でも多かれ少なかれあることである。
いずれにしろ、満員電車のなかで「第三者」が消えてしまい、人里離れた「森の中」
なる奇妙な問題を無視して「公」とか「国家」を論じることはあまり意味ある作業と
は私に思われない。