「平和主義」の終わり?:ドイツ軍のNATO空爆参加

美濃口坦  (メールマガジン「Navigator]の「独逸回覧記」から転載)

 
 
   
●これは西部劇か?それとも…

 国家権力も、ろくろく及ばない世界の果ての小さな町に私達が住んでいるとしよう。たとえば「西部劇」に出てくるような町で、ユーロ市という名前がついている。とはいっても、法も警察機構も整備されていないので、何か好ましからぬことが起こると、保安官を中心に、急いで自警団が組織される。

 今回も、街外れにある家で、とんでもない騒動が起こった。乱暴者の親父が暴れだし、女房とその連れ子を殴りはじめた。今まで何度もあったことだが、今回は特に凄まじい。

 悲鳴が聞こえる。何しろ相手は札付きの乱暴者で、腕っぷしも強い。自警団に早変わりした市民たちが、押っ取り刀で駆けつけてきた。「西部の町」なので、刀の代わりに銃を手に、皆は悲鳴が聞こえる家の前に並ぶ。

 団長格の保安官らしき男が、「君に言い分があるかもしれない。でもまず暴力は止めたまえ。君がやっていることは犯罪なのだ」と叫ぶ。

 「ここは俺の家だ。外からとやかくいうな」と怒鳴る声が家の中から聞こえた。悲鳴は止まない。家具が倒れたり、食器の壊れる音が聞こえた。そのうちに連れ子の一人が血だらけの半死半生の姿で窓から飛び降りて、這いながら路上で息絶えた。

 家のなかでは男の乱暴が続く。母親の甲高い悲鳴がまた聞こえた。市民の一人が、「こんな残酷で、非人道的なことは見ていられない」と小声でいい、皆が同調した。

 保安官が言う。「平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を永遠に除去しようと努めているユーロ市民の名前で、君の狼藉を糾弾するとともに……今から起こることの責任を負うのはあくまでも君である……」

 家のなかの男は、そんな説教を気にしたようすがない。相変わらず悲鳴と怒鳴り声。ドタンバタン。二人目の連れ子が、血だらけの半死半生で、また窓から飛び降りて、路上で息絶えた。

 保安官が家に向かって発砲し、自警団の全員がそれに従った。家のなかの暴れん坊はそんな銃声など歯牙にもかけず、家のなかでは悲鳴とドタンバタンで、三人目の連れ子が、血だらけの半死半生で、また窓から飛び降りて、路上で息絶える。そして四人目の連れ子も、五人目の連れ子も、同じ運命である。

 しかし、保安官もそうだが、自警団の誰もが家のなかに突入しようとしない。皆家族があり、そんな自分の身を危険にさらすような真似はできないという……

 書くのも恥ずかしくなるような西部劇の一場面で、ここま読んでいただいた読者の方に、私は感謝をしなければいけないと思う。

 なぜ私がこんなことを書いたかというと、この一週間、ドイツのテレビや新聞で欧米の政治家の発言を聞いていると、どうしてもこんな場面を私は連想してしまうからだ。

 言うまでもなく、「家のなかの札付きの狼藉者」はミロシェビッチ=ユーゴスラビア大統領で、「ユーロ市の自警団」とはNATO軍であり、「家のなかから次々と飛び降りて路上で息絶える連れ子」は、コソボから着のみ着のままで国境にたどりつくアルバニア人で、前回の拙稿の表現に従えば、「故郷に対する権利」を踏みにじられた人々である。

 
●第二次大戦後、ドイツ初の参戦

 周知のように、3月24日の夜から、主権国家ドイツは主権国家ユーゴ連邦と「戦争状態」にある。その日の晩、私は自宅でテレビを見ていた。EU首脳会談がベルリンで開かれ、トラクターで「補助金カット」に抗議するお百姓のデモがうつされた。

 そして「NATOユーゴ空爆」のニュースになり、B29でなく、B50幾つとかいう三角定木のような飛行機がせわしなく飛び立っていく。その直後、シュレーダー首相が、ドイツ国民に理解を求める演説を始めた。

 「NATO軍は今晩、ユーゴの軍事施設爆撃を開始しました。これは重大で、かつ組織的人権侵害を阻止し、人道的破局が訪れることを避けるためであります……国際社会はヨーロッパのなかでひき起こされるこの人間的悲劇を座視することはできません。私たちは戦争をするのではありません。しかし私たちドイツ国民も、軍事的手段でコソボに平和的解決が実現するように呼びかけられているのであります……」

 ドイツ軍が参加することは、すでに議会で決定されていた。こうなることは誰もが予想していたことである。シュレーダー首相は、ロシアを含めて「国際社会」の調整グループが「ランブイエ和平調停案」をつくったこと、ユーゴはその間も「民族の浄化」を続け既成事実をつくったこと、その挙句調停案を拒否したことを述べ、非難した。そして、次のように語った。

 「このNATOの作戦行動にドイツ連邦軍の兵士も参加しております……この決断は政府にとって容易な決断ではありませんでした。なにしろ第二次世界大戦終了後、初めてドイツ兵が戦闘に参加するからであります……」

 正直にいうと、私はこの箇所で感無量というか、とてつもなく複雑な気持になったのである。

 
●湾岸戦争という過去

 私は終戦の年に生れ、戦後に育ち、ちょうど日本が少し豊かになった70年代のはじめごろから外国で暮らすようになった。その後の発展を、現地の日本で経験していないためか、自分が「敗戦国」の国民の一人である意識がかなり強い。無論いつも考えているわけでないが、自分の意識の奥深いところにこの考えがいつもあると思っている。

 同時にドイツ人も、私にとって敗戦国民であった。1985年当時のヴァイツゼッカ−大統領が、日本でも有名になった演説のなかで、ドイツが敗戦した1945年5月8日を「ドイツ国民の解放日」と呼んだ。この前後から少し事情が変わってきたが、「そんな奇妙なことは思いたかったら勝手に思ったらよい」と、当時私は気にもかけなかった。

 東西ドイツ統一後の「湾岸戦争」でドイツ軍は参加しなかった。ドイツも日本と同じように「国際社会」に非難され、お金を払って済ました。

 冷戦下の西ドイツは、ワルシャワ同盟軍がすぐそこにいる前線国家であり、NATOという集団安全保障体制の中核であった。国民の大部分が、東からの共産主義の脅威を感じていたので、国防の必要性は国民の合意事項であった。ということは憲法上「自衛のための戦争」は認められていたので、この点が「憲法第九条」をもつ日本との大きな相違である。とはいっても平和主義は終始、強かった。

 「湾岸戦争」当時、多数の人々が戦争に対して、おそれのようなものを抱いているのを私は感じた。それは元アル中患者が、ウィスキーのビンを見て視線を避けるようなものであり、ここに「敗戦国」ドイツを感じて、私は少しほっとしたのである。

 とはいっても、多くの人は「自国領土も、またそれに準ずるNATO加盟国の領土もイラクの攻撃を受けていない以上、自衛戦争でない。だから参加すべきでない」と理路整然と答えた。

 ただ、連邦軍を退役した元将校だけが「あんな植民地戦争まがいのものに参加するのはドイツ軍の伝統に反する」と、吐きすてるように私にいったのを、今でもよく憶えている。

 あのドイツが十年も経たないのに、国際「自警団」の一員として鉄砲をかついで「保安官」の横に突っ立っているのである。だから私には感無量であったのである。

 
●「戦争」の意味の変容〜それは国家対国家の闘争でなくなった

 それではなぜ、こんなことになってしまったのであろうか? もともとドイツは、平和主義とか反戦運動の伝統の強い国であった。60年代の「ベトナム戦争反対デモ」も盛大であったし、また80年代、中距離ミサイル配置に反対するデモが強かった。

 「湾岸戦争」のときも、ボンの市役所の広場に多数の若者が集まり、凍りついた雪の上で焚き火をしていた。通りがかった私がその焚き火に手をかざしたのを今でもよく覚えている。

 ユーゴ空爆が始まった瞬間、ドイツのいたる所で反戦デモがあってもいいはずである。かつてはあれほどたくさんいた平和主義者は、どこに行ってしまったのだろうか? 誰にも思いつく回答は、ボンの首相官邸や外務省の大臣室である。シュレーダー首相もフィッシャー外相も、その他現政権のお歴々は、かつては平和運動のデモの先頭に立っておられた。

 しかし私の回答は、これとは少し異なる。簡単に言ってしまえば、「戦争」とか「平和」の意味が変化して、ドイツの「平和主義者」の頭が混乱して、いったい何に反対すべきかが、はっきりしなくなったためである。

 この意味の変化を説明するために、冒頭の西部の町「ユーロ市」に戻る。町の自警団が鉄砲を撃つ。家にこもって家族を虐待している男が鉄砲で撃ち返す。そのうちに相手の弾が切れたと見た自警団のほうも、やっと勇気を奮い起こして突入する。やっとこさで札付きの暴れ者を押さえ込むことに成功する。

 「ユーロ市」の「自警団」がやった集団的行為を、戦争と呼ぶのは不適切ではないのだろうか。というのは「戦争」の結果は「勝つ」か「負ける」かであり、ここで起こったことは、刑法的ルールを実施したに過ぎないからである。

 この架空の町「ユーロ市」について説明した関係は、ヨーロッパという国家同士の関係についてもあてはまるはずである。いずれにしろ、従来の「国家対国家」の闘争という意味での戦争でなくなったから、シュレーダー首相は「私たちは戦争をするのではありません」と述べたのである。

 
●シュレーダー首相が「平和に対する裏切りの罪」に?

 「国家対国家」という戦争の従来の意味は、冷戦下も「国家集団対国家集団」の対立であるので変わらなかった。それが冷戦の終結以来「ユーゴ動乱」で、変わってしまったのである。西ヨーロッパの戸口で起こったこの凄まじい内乱が、西欧の知識人や政治家に及ぼした影響は計り知れないものがあると思う。

 西欧諸国は多かれ少なかれ、ボスニア難民を引き受けたわけで、最盛期にはドイツでは60万人もいた。メディアの報道と、距離の近さと、難民の受入と、また動乱が始まる前から「外国人労働者」として居住していた旧ユーゴ人(ドイツだけでも数十万人いるが)の存在が、バルカン半島も含めたヨーロッパを、冒頭の西部劇の町「ユーロ市」に変貌させてしまったのである。

 今回のNATO空爆を「西欧軍事同盟」が勢力の拡大のためにやったと理解する人がいれば、その人はここに述べたヨーロッパの変化を無視することになる(私にも「冷戦ノスタルジー」があるのでそのように考えたいときがある)。モスクワ市民の多くがそのように考えるのは外電が伝える通りである。

 またこの西部劇の町「ユーロ市」の眼がねで見れば、自国内の少数民族アルバニア人を虐待しているユーゴの国家主権とは札付きの暴れん坊の「ここは俺の家だ。外からとやかくいうな」というセリフになってしまう。

 だからこそ、そんなセリフを無視した「ユーロ市」自警団と同じように、西欧諸国の政治家たちは介入してしまった。そして彼らは「国家主権」とか「内政不干渉」の原則をこうも簡単に無視してしまったのである。

 ところが、三十年戦争が終結した1648年の「ウエストファリア条約」以来通用しているこの原則は、本当は彼らにとってとても重要なものだったのである。

 ということは、従来の国際社会のルールに基づいて考えれば、今回の「NATO空爆」は「内政不干渉」の原則を踏みにじるものであり、また「侵略戦争」以外のなにものでもない。

 この点は現在ロシアや中国が非難しているだけではない。ドイツの刑法に「平和に対する裏切りの罪」という条項がある。これによると「侵略戦争を準備し、かつこれによってドイツ連邦共和国にとって戦争の危険を引き起こした者は、終身自由刑」(80条)とあり、訴追の対象になる。何人かの法律家がこの条項でシュレーダー首相とシャーピング国防相を訴えたというニュースが数日前流れた。

 このお二人が余生を監獄で過ごすことにはそう簡単になるとは思わないが、訴えられることは、今回のNATO空爆の厄介さと複雑さを物語ると思う。

 
●人権か平和か〜「平和主義」の衰退

 「戦争」の意味が変化したことで、平和主義者にとって、なぜ彼らの運動が困難になるかについて、もう少していねいに論じたほうが良いかもしれない。

 例えばワルシャワ同盟軍とNATO軍とが対峙している80年代、平和運動とは、イマジネーションの上で緩衝地帯、あるいは中立地帯を拡大することであり、それが平和の維持と戦争の回避に役立っていると思うことができた。当時は「戦争」と「平和」が対立概念であったのである。

 「戦争に加担しない」こと、「何もしないことの意思表示」あるいは、「自国政府が介入、加担しないことの要求」が平和運動であり、これは帰属する国家に戦争の意図が前提とされることによって存在意義があったのである。

 冷戦が終結して90年代に入る。ユーゴ動乱が始まる。これは近くの国の内部で民族グループAとBが戦う戦争である。これに対して従来の「何もしないことの意思表示」あるいは、「自国政府が介入、加担しないことの要求」としての平和運動は、もはや意味がなくなる。

 要求は180度転回して今度は、自国政府もしくはEUに対する、「介入すること」の要求になった。同時に民族グループの相互の闘争も「戦争」でなく、「民族の浄化」であり、「人権の相互侵害」に変わってしまう。

 こうなると平和運動は人権擁護運動になり、「人権」をまもるための介入か、戦争に加担しない、何もしない意思表示の「平和」かの選択枝になる。多くの人は「人権」を選んだ。

 ところが、介入するといってもこの十年間の歴史が示すように、それは本当に難しい。いずれにしろ、かつての「平和主義」はそのままでは成り立たなくなった。

 では、非暴力主義はどうか。非暴力主義と平和主義を同一視することはできない。とはいっても長い間、非暴力主義は平和運動を支える柱であった。この柱がくずれるきっかけとなったのは、ボスニア内乱の1995年、PKO部隊が駐留する国連保護地区スレブレニツァが、セルビア人軍隊に制圧され、ムスリム系住民が追放され、壮年男子数千人が「消えてなくなった」事件である。この事件ほど、「話せばわかる」式の平和主義の無力をさらけだしたことはないとされている。

 以上が「平和主義」が衰退した事情である。しかし、これはおかしなことである。「人権」と「平和」は本来一方を捨てて、他方を取るといった関係にあるものではないからだ。「人権」とは国家内のことで、「平和」とは国家同士の外交関係で、政治である。国家の在り方は変化したかもしれないが、地球上に厳然としてそれは存在しているのである。

 
●「政治」の退場、そして戦いは泥沼化する(?)

 シュレーダー首相がいうように、「NATO空爆」が、勝ったり負けたりする「戦争」でないとしても、それが政治の決断である以上、どこまでその目標を達成できるかという尺度で評価されるべきものである。

 ところが期待される成果となると、ここで書くのが憂鬱になるほどである。もともとコソボでの「民族の浄化」を止めるために始めたことであるが、それが空爆によって加速したことは確実だ。一説によると、後10日ほどすると、200万人アルバニア人がいなくなって、コソボが空っぽになるといわれている。

 空爆がなければ、これほどミロシェビッチが「浄化」を徹底的に実施したであろうか。弾圧され、人権侵害されていたかもしれないが、彼らアルバニア人にとってそれは現在の状況よりましなのものであったとはいえないか。

 西欧諸国は200万人ものアルバニア人難民を引き受けることはできないし、そんな気もないのである。マケドニア、モンテネグロ、アルバニアといった隣国に難民を長期滞在させることは、新たな紛争の火種をつくることになる。ということは、コソボに難民を戻すしかない。セルビア人は当然抵抗するので、コソボを奪還するための地上戦をしなければいけなくなる。

 しかし、ベルリンEUサミットの農業補助金のカットで徹夜のマラソン交渉をしてきたばかりの西欧諸国に、そんな地上戦に入る気も、また覚悟もできていないのである。

 とすると、政治サイドが軍事的エスカレーションの論理で、本当は望まないのに、地上戦を決定するという構造が見られることになる。だからこそ、「ベトナム」というコトバがささやかれるのではないだろうか。正直いって、私はかなり不安を感じている。

 ランブイエの和平調停案をミロシェビッチが受諾するまで空爆をするということになれば、論理的に考えて最初から「政治的解決」を排除していることにならないだろうか。受諾するまで他人を殴るのなら、外交交渉は不可能になり、多くの政治家が今でも口にする「政治的解決」は不可能になるからである(敗戦国家に生れた私は「無条件降伏要求」を思い出す)。

 これに関連して気になるのは、ドイツの政治家が記者会見でミロシェビッチを「ヒットラー」と比較したり、「戦争犯罪人」呼ばわりしたりすることだ。これも政治的解決を不可能にする発言ではないのか。ミロシェビッチを弁護する気は毛頭ないし、そのように呼びたい気持はわかるが、外交交渉の相手を「犯罪人」呼ばわりしたら、交渉は始まらないと思う。もしかしたら彼らは「政治的解決」の本当の意味がわかっていないのではないだろうか。

 ヨーロッパの良かったところとは、EUが示すように「会議は踊る」で、外交交渉や調停とかいった政治的解決が占める役割が大きかった点にあるのではないだろうか。いずれにしろヨーロッパが西部の町「ユーロ市」になれば、「犯罪者」を保安官が逮捕するかしないかだけの問題になってしまい、政治とか外交の役割はいたって小さいものになってしまうのかもしれない。

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