「臓器移植」の文化論美濃口坦 (メールマガジン「Navigator」の「独逸回覧記」から転載) 今年に入って日本でも脳死臓器移植が始まった。周知のように、これは欧米諸国では1980年代はじめから盛んに実施されている医療技術である。ちなみにドイツでは脳死後の心臓移植だけでも年間500回以上実施されている。日本でも、またドイツでも、一昨年ほぼ同じ頃に臓器移植法が成立した。ドイツはすでに移植医が自分で作り長年実施してきた倫理綱領をほぼそのまま法制化したのに対し、日本では今から脳死臓器移植を本格的に始めるために立法化した。 この過程で、日本でもドイツでも、激しい議論がかわされた。当時の議論を思い出しても、また日本からの脳死臓器移植の報道を読んだりしても、この医療技術についての考え方がドイツ(多分他のヨーロッパ諸国)と日本のあいだではかなり異なっていると、私は思わざるをえない。それもドイツが長いあいだ実施して、反対に日本では始まったばかりであるといった問題ではないように思われる。今からその点について考えてみる。眼につきやすい相違点から始めてみる。 日本で臓器移植というと「いのちの贈りもの」とか「いのちのリレー」とかいった表現がよく使われる。死んだ息子の心臓が別の人に移り生き続けるとか、息子の命がその人の命と合体するといった考え方が表現されているのではないのだろうか。実際、日本移植者協議会は次のように説明している。
本当に欧米諸国の臓器移植は、このような「いのちの贈りもの」的考え方に基づいて展開されてきたのだろうか。欧米と一口にいっても色々な国があるが、この点については少なくとも、ドイツに関して私は以前から疑問に感じている。 ためしにドイツで臓器移植の啓蒙活動をするドイツ移植財団(DSO)に尋ねた。電話に出た広報担当ヴィクトリア・ローゼンベルクさんは、 といって、この数年来使われている以下のスローガンを紹介してくれた。 A
「死んだ後に命を助けよう」 彼女は日本的「いのちの贈りもの」にコトバの上だけでは C が近いかもしれないが、意味がかなり異なると断言した。 彼女の説明によると、英語に近いドイツ語にも「ギフト・オブ・ライフ」、「いのちの贈りもの」という言い方はある。感謝の気持をこめて自分が生きていることをあらためて表現するときに使われる。あらためてというのは、例えば死にかかったけれど助かったという場合である。 C の「命を贈る」だが、例えば誰かの命を奪うことができるのに、それをしなかったという意味で使われる。上記の「命を贈れ」という日本語訳は、ドナーが自分の命を捧げることになってしまうかもしれないが、これは私がわざと直訳のままにしたからである。 つまり C
の「命を贈れ」も正しく訳すれば「命を助けろ」になってしまうのである。ということは、C
も A や B
と同じようにレシピエント(臓器を移植される人)の命が問題にされていることになる。ローゼンベルクさんは、 と逆に尋ねられた。 いずれにしろ、上記ドイツのスローガン A、B、C にある「命」とは臓器を受けるレシピエントの命で、死にかかっていたのに移植で助けられる命である。それは決して臓器提供者ドナーの命ではない。 それに対して、日本でいわれる「いのちの贈りもの」とか「いのちのリレー」の「いのち」とはドナーの命でもあり、同時にレシピエントの命でもある。というのは、日本移植者協議会が上記引用した解説に「しかし、いのちは様々な形になって人から人へと伝わり生き続けます」と書いてあるからである。 上記 A、B、C のドイツで流布しているスローガンをご覧になった読者はどのように感じられるであろうか。「ドイツ人って、本当に広告の才能がないのねー」と思われるのではないのだろうか。 日本にもドイツのように隣人愛を強調して、レシピエントの命が救われる点だけを表現した「あなたの愛で助かる命があります」という標語がある。確かにこのほうが何となくスマートである。 また「いのちのリレーが始まっています」というのも眼にしたが、これも本当に上手にできているとつくづく感じる。こうなると自分だけが「バスに乗り遅れる」ような気がしてくる。こう考えると、本当に気のきいた宣伝文句を思いつく才能がドイツ人にはあまりないのかもしれない。 また読者のなかには、このスローガンにむきだしで出てくる「臓器」というコトバに抵抗を感じて「牧畜民族の子孫はさすがに違う」と思われるかもしれない。 これらドイツのスローガン A、B、C の「命」は、すでに述べたように助かるレシピエントの命である。それでは、ドナーの「尊いいのち」はどうしてしまったのだろうか。もちろん人間の臓器はトカゲの尻尾ではない以上、死んでしまったと見なされていることになる。これは、レストランで給仕が運んできたお肉料理が元「命」で、どこか「モノ」になってしまっているのと同じような事情である。 読者のなかには、「これじゃあ、浮きぶくろを投げて溺れる者を助けろ」と叫ぶのとあまり変わりないと思われるのではないのだろうか。日本人から見れば、ドナーの「尊いいのち」の一部が浮きぶくろと同じで、人命救助のための『モノ』になってしまっているからである。 その点では、日本の移植推進のスローガンは死体の一部で「モノ」になった臓器を移植する印象がはなはだ希薄である。脳死臓器移植でなく、生体からの臓器移植推進キャンペーンではないのだろうかと一瞬思うほどである。それでは、今からドイツでドナーの臓器を「モノ」にする仕組みについて考えてみる。 キリスト教的な社会構造は、ドイツ社会で二十世紀も終ろうとする現在すっかり世俗化して擦り切れたかもしれない。ところが、臓器移植のしくみを見ていると、私はキリスト教的なものを感じないわけにいかない。 これは、この社会の住人にとってはあたりまえのことで無視されるが、私にはとても気になる点である。このことは私がキリスト教と無関係な日本人だからだと思う。 日本では「臓器を提供する」というが、ドイツ語では臓器とは「提供する」ものでなく、あくまでも寄付(寄贈)するものである。ドイツ語で無理して「臓器を提供する」といえないことはないが、おさまりが悪い。 これは私の悪い癖かもしれないが、「寄付」というコトバを聞くとどうしてもキリスト教的なものを感じる。私は英語がよくできないが、日本語になってしまった「ドナー」にもこの種のニュアンスがあるのではないのだろうか。 次にこの「臓器の寄付」にあたって強調される隣人愛もキリスト教的なものである。提供するのでなく寄付する以上、条件をつけることはできない。 例えば、私が「社会的弱者である生活保護を受けている人びとにのみ私の臓器はご利用いただきたい」と条件をつけたとする。私のこのささやかな願望は絶対聞き届けられない。私の所有するマックス・ウェーバー関係の書籍は、死後神戸の友人にあげてほしいといえば、家族はこの願いを聞き届けてくれるはずなのに……。 身体の一部である臓器と本とは異なるからだ、といわれるかもしれない。多分そうであろう。それではどう違うのだろうか。たしか私の胃や腸は私のものではなかったのか。だから暴飲暴食をして忠告してくれる人がいても、私が自分の本に散々書き込みをするのと同じことで、最終的には胃や腸との付合い方は自分で決定できたのである……。 確かに寄付をするにあたって条件をつけないことがこの社会で良いこととされている。私の臓器をもらう人を、なぜ私が選んではいけないのであろうか。本当は、移植臓器の分配に関して百パーセント隣人愛の原則でやらなくてもかまわないのである。 日本のメディアでも伝えられているように、移植の盛んな国々はどこも慢性的臓器不足に悩まされている。自動車の安全性の向上や、救命救急医療体制の充実で、脳死者がどんどん減ったからである。 そこで臓器の分配にあたって、ドナーカード所持者、もしくはその家族は優先するといった条項を設けたらどうなるであろうか。もしかしたら今より多くの人びとが自分も、あるいは家族の誰かが臓器移植を受ける身になるかもしれないとおそれる。 そういう人がどんどん出てきて、ドナーカード保有者の数はどんどん増加していくかもしれない。この場合、ドナーカードをもつことは掛け金なしの保険に入るようなものでもある。同時に、このようにするのは臓器分配にあたって相互扶助の精神、連帯主義を取り入れることである。 現代社会では、労働組合をはじめ、連帯精神に基づいた組織が実際に数多く存在し、機能している。臓器移植分配についても、連帯精神的要素を取り入れていけない理由はないはずだ。 ところが、この種の提案は移植関係者にも政治家にも、歯牙にもかけられない。ことが臓器となると、どうしても百パーセント隣人愛、キリスト教的博愛主義でやっていくことになっている。なぜそうなのであろうか。 その理由は、臓器移植が死、あるいは死体と関係があるからである。臓器移植など昔はなかったので、ヨーロッパでは以前からあった死体処理の方式やルールを転用しているのではないのだろうか。 国によって事情が少しづつ異なるかもしれないが、死体やお墓のことは長い間教会の管轄下にあった。それは(少々単純化するが)教会こそ「あの世」と「この世」の両方にまたがって存在する機関であったからである。例えば、ドイツ語に「神の畑」という古臭い表現があって墓場を意味するのもこの事情を反映する。 ところが、たいていの西欧諸国では、国民国家の勃興とともに墓場は教会の管轄を離れ、世俗化すなわち国家の管轄下に入った。例えば私が住む南ドイツの村落には教会があり、必ずその横に「神の畑」すなわちお墓がある。 ところが、このお墓は現在では教会でなく、国家、具体的には市町村の管轄下にある。傍らの教会はカトリックであるが、お墓には新教徒も他の宗教、また無宗教者も入ることができる。 市町村の管轄下にあろうが、「神の畑」に土葬されようが、また火葬されようが、死体は土に戻って決着した。ところが、ここで臓器の再利用という厄介な問題が起こった。どこか異様なことでもあるために、臓器の管理・分配については、発展段階でいえば逆戻りして教会的原理でやることにしたのではないのだろうか。 より率直にいえば、死んだ人から臓器を摘出して移植するなど薄気味悪いので、近代国家もこの薄気味悪さを祓い清めるためにキリスト教的隣人愛方式を採用した。 こうして臓器は一度「あの世」的管轄下に入り、そこから「この世」に「モノ」になってバックしてくる。この結果、薄気味悪い臓器も「浮きぶくろ」のように利用できるのではないのだろうか。 自分の臓器の処理については自己決定権などは「この世」の俗事であるから、「あの世」への境界線の手前で無効になる、その結果、提供するかしないかの意志表示しか私に許されない……そういう話ではないのか。 よく日本では「欧米諸国で日常化した臓器移植」とか「国民皆に支持される臓器移植」といった表現に出会う。本当に誤解を招く言い方である。 「欧米諸国」で死が日常から追放されて、タブー化されていることは、多くの文化史やその他の研究者(例えばアリエス)が指摘している通りである。とすると、死と関係している臓器移植が日常化することなど期待できないのではないのだろうか。 エッセン大学の社会学者の調査では、ドイツ国民の5人に1人、医者の2人に1人が、臓器は公正に配分されていないと考えている。臓器配分を担当しているのは移植関係者という専門家集団であるが、臓器移植を待って死んでいく人も多いので、彼らは生殺与奪の権利をもっていることになる。 確かに臓器分配基準は、ドナーとレシピエントの適合性、サイズ、臓器運搬距離等の比較的客観的なものだけではない。その他の、より主観的な種々の基準の組合わせになると当然裁量の余地がうまれる。 とはいっても、この世論調査に見られる批判の強さは、臓器移植の実施現状を考えると、移植医の専門家集団に対してかなりアンフェアであると思われる。これは、どちらかというとイメージの問題で、多くの人びとが臓器移植を不自然なことと感じているからではないのか。 またそれだけでなく、この強い反感度は、「あの世」と「この世」にまたがって存在し、かつ生殺与奪の権を握っている臓器分配移植組織の在り方と無関係でないと思われる。 というのは、このような組織の在り方そのものが、現在死刑が廃止された西ヨーロッパ社会で表向き正しいとされる価値観に合致しないからである。 私は日本でもドイツでも身近な人の死を何度か経験している。葬式がどこでも儀式化していたり、役所の手続きがあったりする点では、日独似たり寄ったりである。大きな相異の一つは、ドイツのほうが日本よりはるかに早い時点で遺体(死体)に近づけなくなる点にある。 医者が死亡診断を出した後、もよりの役場に通知する。その後、役場から「死体手入れ係り」が派遣される。この人が、死者に衣服を着せるなどして、届けられた棺に入れる。 たいていは24時間以内に棺はお墓の管理所に移される。その後は葬式である。この経過は、自宅で死ぬ場合とか病院で死ぬ場合とか、ケース・バイ・ケースで事情が異なることはいうまでもない。 この役場から派遣された「死体手入れ係り」が現れた時に、もはや遺体は遺族の手を離れる。すなわち、この瞬間、例えば身近な人の遺体は、遺族が触れてはいけない死体になり、教会の後釜に座った国家の管理下に入ってしまうのではないのだろうか。またこの瞬間こそ、制度上での「魂と肉体の分離」であり、遺族関係者には魂のみが委ねられる。 私は不精な日本の男で、自分の親しかったドイツ人が亡くなり、途方に暮れていたので、「死体手入れ係り」の女の人が何もかもしてくれるので頼もしかった。ところが、最後に立会ったのが、気丈で思いやりのある日本人の女性で、死んだ人が日本人となると、事情は異なってくる。 不幸にも病院で亡くなった日本人の女性がいた。臨終の場にいた私の知人の日本人女性が「親友にあの世にはきちんと旅立って欲しい」と思った。そこで友人の闘病と苦痛の痕跡を残す顔を「少しでも美しくしてあげよう」としたときに、病院から連絡で役所が派遣した「死体手入れ係り」が現れた。 その後、彼女は親友の遺体にいっさい触れることができなくなった。彼女はそれでもあきらめずに何とかしようとするが、叱責と警告を受けるだけであったそうだ。結局彼女ができたことといえば、「死体手入れ係り」の指示に従って、衣服を手渡すくらいであった。彼女は今でも、「本当にしてあげたかったことができなかった」と嘆いている。 以上の例からわかるように、遺体に対して、死後ドイツより長い間、濃厚で親密な感情を抱く日本人から見れば、「死」という事件の後のプロセスがドイツと日本とでは異なるのである。 私は早過ぎると感じ、知人の日本人女性には忘れることのできない精神的衝撃であったが、ドイツ人は、こんな(日本人から見れば)遥かに早い時期に遺体を取り上げられることを何も変に思わないのである。 ドイツ、恐らくヨーロッパの脳死臓器摘出と移植は、このように極めて早い時点で遺体が死体になり、国家の管轄下に入る体制のなかで発展することができたのである。 ヨーロッパには、ドイツのように脳死後臓器摘出に本人もしくは家族の同意が必要とされる国だけではない。例えば、フランスやベルギーやオーストリアなどのように、提供拒否の意志表示を登録していないと勝手に臓器が摘出される「反対意志表示方式」を採用している国が数多くある。 この方式に国民が特に反発するようすがないのも、死んだ人の身体が比較的早い時期に国家の管理下に入る体制に慣れているからである。ちなみに、ドイツの隣国オーストリアで臓器提供の反対意志表示登録者は1パーセント以下である。 私が会った移植コーディネーターは、ドナーに個人的関心を抱くレシピエントも、逆にレシピエントに個人的関心をもつドナーの家族も全体の2%か3%に過ぎないと異口同音に証言した。 このようなさらっとした関係も、遺族が抱く死者の身体との情緒関係が、早い時期に国家の管轄下に入ることで、切られてしまう体制を考えれば理解できるのではないのだろうか。 確かに私たち日本人は遺体に対して濃厚で密接な情緒関係を長く維持している。とはいっても、火葬後の灰がどこに捨てられるかまで気にする人は稀だと思われる。 ということは、遺体に対する関心は日本でも特定の儀式的手続きを踏んだ時点でなくなることでもある。逆に、この遺体に関する情緒的関心が、ドイツの体制では日本よりずっと早い時点で消滅するということでもある。 レシピエントのほうから見ると、臓器が国家的管轄下に入り、世俗化したキリスト教的構造を通過して隣人愛で祓い清められて自分に移植されることになる。このような構造になっていると、ドナーに対する距離が遠くなると思われる。 もちろんドナーについてレシピエントに、またレシピエントについてドナーの遺族に、通り一遍のことしかいわないルールになっている。その種のルール以前に、どこか聞くことじたいがはばかられる雰囲気があるように見える。 日本では脳死移植が始まって、とてつもない報道合戦になったそうである。今まで述べたように、日本的尺度からいえば遺体が死体になる前の段階で臓器の摘出と移植が実施されることになった。この時点での遺体に対する濃厚な情緒がドナーやレシピエントに対する熱烈な関心に転換したのではないのだろうか。 今まで書いたことからわかるように、ドイツもしくはヨーロッパの臓器移植は日本とは本当に異なった精神風土のなかで発展してきた。ドイツとは異なり日本では「遺体」が「死体」になる遥か前に摘出される以上、この臓器はやはり「いのち」と形容するほうが、日本人が死者に抱く気持ちに合致しているのだ。 この気持があるために、恐らく日本のレシピエントはドナーが死んだのに自分だけが助かって悪いといった感情を表明するのではないのだろうか。ドナーに対してドイツ人のレシピエントも感謝の気持を抱くことはあっても、ドナーが例えば交通事故で死んだことまでも自分と結びつけて、悪いという感情にかられることはないと思われる。 「いのちのリレー」式の臓器移植観は、このように考えると日本の風土にマッチしていることになる。だからこそ、新聞で報道されているように、ドナーカード所持者の数が増大していると推定される。 日本社会で脳死後の臓器移植に対する抵抗が強かった。これは、今まで述べたドイツの事情を考えると当然なことに思われる。 反対論拠の基盤となったのは、「部分である臓器を全体性ある命から切り離してモノと見なすことができない」日本人の死生観であったり、またドイツと比べると脳死時点に存在する「遺体に対する濃密な感情」であったりした。 皮肉なことに、「いのちの贈りもの」的キャンペーンは、この移植反対論を助けた同じ基盤に乗っかって進展していることになる。キャンペーンでも、臓器という部分が移植されるだけなのに、「いのち」という全体が強調されている。 またドナーの死は、もはや「孤立した個人に閉じ込められた死」でなく、「いのちのリレー」で「共同体的な死」として扱われているからである。この事情は(日本の)土着的な基盤に立って、近代の技術の進歩に抵抗するのがいかに難しいかをあらためて示すものである。 移植推進派が、ドナーの命がレシピエントの命になって生き続けることをこれほど強調するなら、「脳死=人の死」にあれほど固執しなくてもよかったのではないのか。私にはそう思える。 移植を待つ人びとを死なせないために、例えば脳死後臓器摘出をする移植医に対して違法性阻却にするといった妥協を、もっと早い時期に求めてもよかったのである。憲法九条の運用に示された日本人の法的実用主義を考慮すれば、これも本当は大きな問題ではなかった気がする。 |
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