N a v i g a t o r

No.73(1999年7月20日号)

独逸回覧記 No.11/美濃口坦
 

小林よしのり「反日ドイツ記者への手紙」について
  

◆「日露戦争と明治大帝」と私の戦争ごっこ
◆「フキダシで歴史歪曲」
◆「歴史的事実」とは法廷で耐えられる事実のことか?
◆「東京裁判」再審願望
◆「ホロコーストはなにものとも比較できない」という考え

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小林よしのりの『戦争論』に対して、あるドイツ人ジャーナ
リストが「歴史的事実を否認している」と批判した。これに
対して小林は、雑誌の連載で「反日ドイツ記者への手紙」と
やり返した。果たして、小林は「歴史的事実」をねじ曲げて
いるのか? ドイツ人ジャーナリストは「ホロコースト・コ
ンプレックス」で「反日」なのか?
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◆「日露戦争と明治大帝」と私の戦争ごっこ

 私が小学校に通っている頃、今のようにコンピューターゲームもな
かったので、遊びといえば棒を振りまわすチャンバラか戦争ごっこだっ
た。またよく友達と映画を見にいった。

 ある日、皆と「日露戦争と明治大帝」という映画を見た。私たちも大
人の観客もすっかり良い気分で歓声をあげ、拍手し続けた。鞍馬天狗が
馬に乗って助けに来る時など私たちは歓声をあげて拍手したが、今回は
比べものにならない。私たちはすっかり興奮し、映画を見た後、棒を鉄
砲に見たてて高瀬川の土手で戦争ごっこに興じた。その日も次の日も、
そして何日間か、私たちの「二〇三高地」になった川土手をめざして
走っては地面に伏せて射撃し、突撃を繰り返す遊びをした。

 私の友達も私も、それまで鞍馬天狗であった俳優が明治天皇になった
この映画ほど素晴らしい映画はないと思った。私たちが本当に気合を入
れて戦争ごっこをすることができたからである。でも私は子供心に当時
遊びながら「なぜ今回の映画はこれほど自分達の気持にぴったりと来る
のだろうか」と不思議に思った。またその時、それまでいくつか見た別
の映画で日本軍と戦う米軍の颯爽とした姿と、負け戦をする日本兵の泥
臭い姿が脳裏をかすめた。

 小林よしのりの『戦争論』を読んでいて、私がふと思い出したのはこ
の京都の高瀬川の土手でした戦争ごっこであり、自分が当時不思議に
思ったことである。

 個人の人生にもビデオで言えば早送りしたいような場面があるのと同
じように、ある国民にもできたら早送りしたい時代があると思う。これ
をどうするのが一番よいのか、本当に難しいと思う。


◆「フキダシで歴史歪曲」
 
 漫画など読む習慣もない私が『戦争論』を読んだのは日本でよく売れ
ているとのことで、好奇心を感じたからである。上から下に読み進むの
か、それとも右から左へ読み進むのか最初戸惑ったがすぐに慣れて読む
ことができた。

 読み終わって、その感想文のようなものをドイツの新聞に書いた。し
ばらくしたところで、今度は「新ゴーマニズム・反日ドイツ記者への手
紙」が掲載されている『SAPIO』の6月23日号と、このドイツ語訳と思
しき手紙がベルリンの知人から転送されてきた。ここで「反日ドイツ記
者」と呼ばれているのはヘンリク・ボルクというドイツ人ジャーナリス
トである。

 彼は、今年の3月11日号の『ツァイト』誌に掲載された「フキダシ
で歴史歪曲」で、小林よしのりの『戦争論』について書いた。またこの
記事のなかで彼は、日本でアイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・ナ
ンキン』の翻訳をだそうとする出版社が、強引な著者と出版に反対する
右翼のイヤガラセの挟み撃ちにあって苦労する様子も描いている。とは
いっても、記事の力点は、小林が「南京大虐殺」を「歴史的事件」とし
て否認しようとしていることに置かれている。

 小林よしのりはこのドイツ人の記事に腹を立てて、「反日ドイツ記者
への手紙」という漫画を書いた。まず、取材にさいして自分は誠実で
あったのにそれにこたえてくれなかったという非難、また「南京大虐
殺」についての小林の説明の繰り返しは割愛する。

 私が後で問題にするのは、小林の次のような批判である。それは、例
えば、「あなた方ドイツ人は旧日本軍を巨悪に仕立て上げることでホロ
コーストという大罪を犯した自分達の罪悪感から逃れようとしている」
とか、あるいは「他国に同様の罪があって欲しいと必死に願うような…
…」態度をもっているといった、この漫画のなかにある非難である。そ
して最後に、自分の意見を言うだけなのに(へりくだっている?)
「ごーまんかましてよかですか」と読者に尋ねてから、次のように言
う。

 「以上のような手紙をわしはドイツの『ツァイト』に送ることにし
た。返事が来たらみんなに知らせる。ホロコースト・コンプレックスの
ドイツ人は日本のマルキストと組んで反日ドイツ人となり南京虐殺で救
われたがっている」

 彼は『ツァイト』以外にもドイツの色々な機関に送ったが、返事する
人は多分いないと思う。


◆「歴史的事実」とは法廷で耐えられる事実のことか?

 まず『ツァイト』の記事にある「歴史的事実の否認」であるが、本当
に小林よしのりはそんなことをしているのであろうか?

 多くの人は、当時南京で多数の人々が殺され、多数の中国人女性が強
姦されたと思っている。私もそう思っているし、日本人だけでなく多分
色々な国の人々がそう漠然と考えているのではないのだろうか。

 次に小林よしのりはどう考えているのかというと、この人も「では5
〜6万人から3万を引くと被害者は2〜3万人か?」と書いている以
上、私たち門外漢と同じように多くの被害者があったと考えていること
になる。とすると、小林も「歴史的事実」を否認していないことにな
る。

 私がこのように書けば、『ツァイト』の記事を書いたジャーナリスト
は、「私たちはそんなことを問題にしているのではない」と言うに決
まっている。彼の考えを理解するために引用する。

 「作者小林はこの本(=『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』)の写真の
信憑性を疑う。学者やジャーナリストの記述の過ちを見つけだして、そ
うすることで事実全体を否定しようとするのは常套戦術である」

 私たちは「学者やジャーナリストの記述」に関してだけにこのドイツ
人記者のいう「常套戦術」を使うだろうか?

 テレビや映画の法廷ドラマから知られるように、この「常套戦術」を
一番よく使うのは法廷に立った弁護士である。殺人事件の証言者に事件
の細部について反対尋問を浴びせる。証言者の記憶力が、いかにいいか
げんなものかという印象をもたせればよい。また事情が許せば、事件と
直接関係のない証言者の素行にも話をもっていく。とにかく最後に陪審
人がこの証言者の証言能力を疑い、「犯行者がピストルを手にしてい
た」ことや、あるいは「銃声を聞いた」といった発言に疑問を感じ、事
件全体を疑うようになればよいのである。どこでも「疑わしきは罰せ
ず」だからだ。法廷ドラマのこんな場面にこそ、ドイツ人記者がいう
「事実全体を否定しようするのは常套戦術」が一番よく用いられる。

 それではここで問題になっているのは本当に「歴史的事実」であろう
か? 私はそうでないと思う。ここで「歴史的事実とは何か」などとい
うことは論じないが、この種の「常套戦術」を用いる人々の「事実」と
は裁判に耐えることができる法的事実、証拠と呼ばれる「事実」に近い
ものである。

 このドイツ人記者が非難しているように、確かに小林はこの「常套戦
術」を用いている。

 また「日中の歴史家が共同研究をして、事実をはっきりして欲しい」
と思う日本人も多い。このときの「事実」も、文脈によっては「歴史的
事実」でなく法的事実に近いと私は思っている。このような人々はどこ
かで「事実がはっきりする」と思っているのだが、これは歴史学に対す
る過剰な期待ではないだろうか。私は「南京大虐殺」のことなどよく知
らない。ドイツでの類似した議論にお付き合いしたことは何度もあるの
で、そこからの類推でそう思う。歴史学がそんな過剰な期待にこたえる
ことができないことなど、少しでも歴史学に従事した人々には自明なこ
とである。どんな「証拠」も事件全体の一部分を代行するだけで、カ
バーされていない白紙の現実が残っている。したがって、事実を疑うこ
とはいつも可能だし、またこの事実を疑っていることにも反論すること
はいくらでもできる。


◆「東京裁判」再審願望

 去年だか一昨年だか忘れてしまったが、ミュンヘンの近くの町イン
ゴールシュタットに住む友人が私に『朝まで生テレビ』という討論会番
組のビデオを貸してくれたので、見たことがある。テーマは歴史教科書
のあり方といったものであった。

 ところが、議論は本来のテーマをそっちのけにした従軍慰安婦問題に
ついてであった。私が本当に驚いたことに、そこは法廷のようなものに
なり、被告席に座ったのは当時の日本軍、そして日本国家であった。確
か、国家もしくは軍が慰安婦問題にどこまで関与していたかとか、ある
いは、集めるにあたってどこまで強制的性格があったかといった問題が
論じられたと記憶している。

 ここでも歴史的事実が問題になっているのでなく、弁護士の役割を演
じたがる人々と、検事役を演ずる人々が、自分の都合のよい証拠を出し
合いっこするという進行であった。半世紀近くも昔のことでちゃんとし
たデータもあまり残っていない以上、この事件は奇妙な模擬裁判にはあ
まり適していない。検事気取りが、弁護士役を買って出た人々と交わす
議論の情緒的ボルテージの高さから、私は、もしかしたら彼らはもう一
度「東京裁判」を自分達で繰り返したいのではないのかと思った。

 また、ことあるごとに「東京裁判史観」を口にする人たちも、本当に
日本の戦後にそんな史観があったかどうか、一度落ち着いて考えて見る
べきである。東京(ニュールンベルク)裁判史観からいうならば、第二
次世界大戦とは、「連合軍」と呼ばれる米国に率いられた国際自警団に
よる、犯罪国家ドイツと日本に対しての警察権の発動であったことにな
る。ところが、戦後の日本国民は自分たちが負けた戦争をそのように理
解しなかった。国民そろって、米国という太平洋のかなたの巨大な国に
無謀な戦争をしかけて、打ち負かされたと考えたのである。

 この点、「東京裁判史観」を云々する人たちが目の敵とする左翼も例
外でない。彼らも戦後日本を米国の「半植民地」と見なし、自国を打ち
負かした米国との軍事同盟に反対した以上、ナショナリストで愛国者で
あったのではないのか。また東京裁判で、誰も「戦争そのもの、あるい
は戦争一般が悪い」などといっていなかったのに、戦後日本の平和主義
者は「戦争が絶対悪」と考えた。こう考えることで日本やドイツだけで
なく、連合国まで悪い戦争をしていたことになってしまう。となると彼
らも愛国者であったことにならないだろうか。

 いずれにしろ日本の戦後に「東京裁判史観」など、本当の意味で存在
しないのである。存在しないものを亡霊のように見つづけている人たち
は、もしかしたら「東京裁判」をやり直したい願望を密かにもっている
のではないのか。

 この種の願望は二十世紀も終りつつある現在かなりトンチンカンな話
である。こんなことを恐らく国際社会は日本国民から期待していないと
思われるのだが……。

 また「南京大虐殺」について、国際社会でろくでもない本が出ただけ
で、常軌を逸し、「ちゃんとした証拠を出せ」と大声で叫ぶのも、あま
り賢明なことだとは思わない。本人はこうすることで日本の名誉を救っ
たように思っているだろうが、ヨーロッパ人にとって30万であろうが
3万であろうが、たいした違いはないのである。戦後間もない頃、ドイ
ツの人々も、ユダヤ人殺し「600万」という数字にこだわったことが
あった。当時もう死んでしまった有名な現代史家が「これは象徴的数字
で、、」といった。この反応のほうが「証拠出せ」より賢いと思う。こ
のような本当に賢明なことはドイツから学ぶべきである。


◆「ホロコーストはなにものとも比較できない」という考え

 次に論ずるのは、「あなた方ドイツ人は旧日本軍を巨悪に仕立て上げ
ることでホロコーストという大罪を犯した自分達の罪悪感から逃れよう
としている」とか、あるいは「他国に同様の罪があって欲しいと必死に
願うような……」態度をドイツ人がもっているといった、小林の非難で
ある。

 本当にそうなのであろうか。少なくとも『ツァイト』に掲載された記
事を見る限り、著者のドイツ人ジャーナリストにそのような意図を認め
ることは不可能である。すでに述べたように、「南京大虐殺」について
「ちゃんとした証拠を出せ」と叫ぶ人、すなわち小林よしのりがどちら
かというとこの記事の主題だからである。

 またもしドイツ人がこんな小林の批判を聞いたら、「とんでもない誤
解だ」とか「滅相もない」とかいうはずである。というのは、ホロコー
ストは「絶対的悪」とか、「他のものと比べることはホロコースト肯定
につながる」とかいった、神経質な考え方がドイツ社会で支配的見解に
なっているからである。

 このようにホロコーストを“なにものとも同列に置かない”ことにし
たドイツ人が「他国に同様の罪があって欲しいと必死に願う」ことは考
えにくい。ということは、逆に言えば、日本国民がホロコーストという
「巨悪」を犯したヒットラーの地獄の道連れになる心配も、どこか日本
的被害妄想と思われる。

 次の「ドイツ人が……ホロコーストという大罪を犯した自分達の罪悪
感から逃れようとしている」という言い方も、ドラマチック、センチメ
ンタルでマンガチック過ぎるのではないのだろうか。

 ドイツ人について「贖罪」とか「罪」とかいったことばで表現される
イメージは、奇妙なことに、小林と正反対の立場に立つ日本人にも共有
されている。このようなイメージは、少数の文化人や政治家の言うこと
をそのまま受けとっているだけではないのか。

 自分がやったわけでない悪いことなど(ドイツ人も含めて)普通の人
間は「罪悪感」などもたない(本当に悪いことをした人も「罪悪感」な
どもたないことが多いのである)。とすると、どこの社会でも「罪悪
感」などおぼえる人など少ないことになる。そんなものを感じていない
以上、逃げる必要などないのであり、「南京」に救いを求めることもな
いのである。

 このように考えると、読む方のドイツ人から、「反日ドイツ記者への
手紙」は種々の無知と誤解に基づく妄想の所産であると思われ、理解さ
れない。多分小林にとって、分ってもらえることなどどうでもよく、自
分のいうことが身内で賛成されたらよいだけなのかもしれない。

 正直いって、私は「反日ドイツ記者への手紙」という題名のなかの
「反日」というコトバに苛立ちを覚える。私は漫画家が、なぜこんな治
安警察のまねをしたがるのかよく理解できない。小林は、この漫画に書
いたことをドイツ語に訳させているが、「反日」というコトバは出てこ
ない。翻訳した人が賢明であったからである。こんなコトバを使う人は
通常反対意見の存在を認めない人と見なされるからである。「反日ドイ
ツ記者」の「反日」というコトバに日本人は慣れて、多分何も感じない
かもしれないが、慣れたことが本当は不幸なことかもしれない。■

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