故郷に対する権利:ドイツの「永遠に昨日のままでとどまった人々」

美濃口坦  (メールマガジン「Navigator]の「独逸回覧記」から転載)

 


●「よそ者」と「土地の者」

 私は1968年、はじめてドイツにやって来た。小さな南ドイツの町に半年滞在し、そこでドイツ語の講習会に参加した。当時の私は、それまでの人生で唯一の苦労が受験勉強だけという、気楽な日本の大学生であった。ドイツ語は辞書を引きながら少し本が読める程度で、話すことも聞くこともよく出来なかった。

 私が暮らしはじめたこの田舎町は方言が強く、ドイツ語ではないような気がした。町の人々は私と話をするときは、幼児か赤ん坊にするように特別にはっきりと発音し、ゆっくりと標準ドイツ語で話してくれた。それでもよくわからなかった。

 よくわからないために、自分が幼年期に逆戻りした気持がして、この状態が特別に居心地良かった。多分私には、成人したくない「モラトリウム人間」的要素があったからだと思う。

 映画館も喫茶店も銀行も一軒しかないこの小さな田舎町で、骨折ることなく標準ドイツ語を話す女性に知り合った。彼女は、町に一軒だけある本屋の店員であった。私は昔から本屋では長々と立ち読みするくせがある。小さい町で一日に何度も出遭う。私たちは話をするようになり、親しくなった。

 彼女は、私に対して保護者のような立場であったためか、自分よりはるか年上のような感じがした。ところが本当は私より5つも若かった。彼女といっしょに泳ぎに行ったり、映画を見に行ったり、またよく散歩をした。また彼女を通して、この田舎町の同年代の若者と接触したが、そのときは彼女も方言を話し始めるので、話していることがよくわからなかった。

 なぜ私が、こんな個人的な話をはじめたかというと、「独逸回覧記」の今回のテーマに関係あるからである。当時あまり考えなかったが、後になって戦後の西ドイツ社会のメンバーについて、重要な区別があることを知った。

 このことに関心を抱くようになったのは、1968年に彼女と親しくしたからだと思う。そして、これが何かというと、6000万人の西ドイツ社会で「よそ者」と「土地の者」との区別があることである。

 
●「私はそんなところへもう行かない」

 「ホロコースト」という、ドイツ人がした悪いことは有名である。だが、もしかしたら、ドイツ人が被害者になったほうの話は、あまり知られていないかもしれない。東部戦線でソ連軍の攻勢を支えきれなくなった1944年後半から、戦争が終わって2年後までに起こったことは、ドイツ民族の悲劇という名前に値すると思う。

 旧ユーゴ紛争以来、国際社会で「民族の浄化」というコトバが定着した。欧州での第二次世界大戦は、スラブ人に対するゲルマン民族覇権国ドイツの「民族の浄化」ではじまり、最後はドイツ民族に対するスラブ人東欧諸国の「民族の浄化」で終結したといっても過言でない。

 戦争末期、多くのドイツ人がソ連軍に追立てられるようにして、東プロイセン(現在ポーランドとロシアに属する)やシュレジア地方(現在ポーランド領)など、ビスマルクが築いたドイツ帝国の東部から逃げて来た。また戦闘終了後、ドイツ人がポーランド、チェコ・スロバキア、ユーゴスラビア、ルーマニア、ハンガリー、ソ連、バルト諸国といった東欧圏から追い出された。

 このようにして、東欧圏から戦後西ドイツにやって来た人の数は1200万人にのぼり、戦後西ドイツの人口を考えると、5-6人に1人は、自分たちが慣れ親しんだ故郷を失った人々ということになる。

 この事情は、ドイツが中欧の国家であったことと、同時に「国民国家」モデル出現以前の東欧圏で、いかにたくさんのドイツ人が(ユダヤ人と同じように)分散(ディアスポラ)して暮らしていたかを物語る。

 東欧圏からの「ドイツ人の移住」は、ヤルタ会談からポツダム会談にかけて、連合国が決めたことである。各々国民が、ナチドイツの「民族の浄化」に対して「民族の浄化」で仕返した以上、この「ドイツ人の移住」が、たいへん残酷なかたちで進行したことは言うまでもない。

 ここで1968年に戻ると、あの時私が親しくした女性の両親も、チェコのズデーデン地方から逃げてきたドイツ人であった。そのことを私は下宿のおかみさんから聞いたが、その口ぶりから「よそ者」であることを強調しているように思われた。

 私は世界史の授業で少し習っていたので、「ズデーデン地方」「ヒットラー」「チェンバレンの宥和政策」「ミュンヘン協定」といった単語を、線で結びつけることができた。

 当時私は、彼女の両親がズデーデン・ドイツ人であることに何の関心も抱かなかった。私たちは、私の下宿の部屋や町の喫茶店で会った。でも一度だけ、彼女が自宅に連れていってくれたことがある。町はずれの比較的みすぼらしい家には、誰もいなかった。彼女は家族が留守にする日を選んだのだと思う。彼女の部屋の壁に写真がかかっていた。

 そのなかで民族衣装を着た彼女が、数人の女の子といっしょに踊っていた。そんな彼女をかわいらしいと思ったので、今度踊るときは見たいので是非連れていってくれ、と私は頼んだ。彼女は「もうそんなところへ行かないし、そんな衣装を着て踊ったりしない」と答えた。この返事が断固とした調子であったので、私はそれ以上何もきかなかった。

 
●公平な負担の分担こそ国民国家の課題

 1200万人の難民となった同国人の存在は、敗戦で疲弊した戦後西ドイツ社会において、厄介な問題であった。これは、戦争によってより大きな貧乏くじを引いた人々と、あまりそうでなかった人々の亀裂を、社会が抱えることになったということである。

 日本でこれら1200万人の人々を「引揚げ者」と呼ぶ人がいるが、これは適切でない。ドイツ人の東欧の移住は、中世時代からはじまったものである。追い出され、命からがらたどりついた人々は、「国民国家」というモデルが成立するはるか以前の昔から住んでいたので、追い出された場所が彼らの故郷なのである。

 中欧にしろ東欧にしろ、昔から種々の民族が入り組んで住んでいた。この事情はユーゴ紛争、現在進行中のコソボ問題を見てもわかるはずである。戦後の西ドイツとは、着の身着のままで逃げ込んできた居候のような人々と、運良く西ドイツに住んでいたために、大きな貧乏くじを引かないですんだ人々とが、いっしょになった社会である。

 国民国家とは、ある程度まで公平な負担の分担に努めなければいけない。戦後の西ドイツの政治家は、この厄介な問題の解決に、少なくとも「象徴的レベルの上で成功した」と歴史家に評価されている。「驚異の経済復興」という、とてつもない追い風が吹いたことが、その成功の最大原因である。

 とはいっても、種々の立法、例えば西ドイツで財産を保持できた人々に課税し、その税収を、故郷を喪失した人々の援助と編入のための財源にあてるといった具合に、国民の大部分に不公平感を抱かせないように努めた。

 
●永遠に昨日のままでとどまった人々

 どこの社会でも、善意に訴えるだけでは不公平を除くことができない。当然、政治家や世論に働きかけるロビー団体が必要になる。新たに西ドイツに住みはじめた1200万の人々も、最初は自助会のようなものから戦後、徐々に組織化されて、自前の政党をもつようになる。この政党が50年代にアデナウアー政権の連立の一翼をにない、上で述べた立法化にも影響力を行使した。

 彼ら「故郷を失った」人々の組織は、「東プロイセン同国人会」、「ズデーデンドイツ人会」、「カルパチア・ドイツ人会」といった具合に、出身地ごとに組織されていた。

 これは、故郷を同じくする人々の集りで、日本でいえば県人会のようなものである。ただし彼らの故郷は「鉄のカーテン」の彼方に消えてしまった。オーガナイザーは徹底的な反共主義者で、はじめのころは、人脈的にナチ・イデオロギーに近かった。

 戦後の西ドイツ社会では、その思考が第三帝国の時代から変わっていない人々を指して「永遠に昨日のままでとどまった人々」という表現がある。東欧圏から追い出されて「故郷を失った」ドイツ人の団体は、このような「永遠に昨日のままでとどまった人々」の巣窟というイメージが強い。

 1960年代後半とは、それまで反共的であった西ドイツ外交は旋回しはじめ、ヤルタ体制という現実を追認し、東欧圏との対話の道を模索しているところであった。これはその後ブラント政権の「東方外交」として結実する。「故郷を失った人々」の団体は、この「東方外交」に猛烈に反対した。

 
●故郷の文化継承者として

 とはいっても、彼らの組織を単なる政治団体と見なすことはできない。それは、かつて居住していた地域の、民族文化の保存団体でもある。昔同じ村に住んでいた人々が、西ドイツ全土に散らばってしまった。そのような人々が、一年に一度会う。同窓会のように昔話に花を咲かせる。そんな親睦団体でもあった。

 また彼らが集まると、かっての故郷の村祭と同じように、民族舞踊が催された。もちろん彼らが集まる最大の動機は、失われた故郷を嘆き、懐かしむ気持である。

 1968年の夏、私が親しくした女性が、民族衣装を着て踊っていた写真も、そのような集まりで撮られたものだと思う。また彼女が「私はそんなところへもう行かない」と答えたのは、「自分は自分の人生を歩む」という主張を意味したのではないだろうか。

 彼女の両親にとっては、ズデーデン地方が故郷であるかもしれない。だが、その子供である彼女自身にとっては、「よそ者」として扱われることがあったかもしれないものの、自分が生れ育った南ドイツの小さな田舎町が、故郷なのである。

 おそらく彼女は、家では両親の故郷の方言で話し、外では南ドイツの方言を話して育ったのであろう。だからこそ、彼女には言語切換え能力があって、面倒と思わずに、私にわかりやすい標準ドイツ語を話してくれたのだと思う。彼女が日本人の私に好意を抱いてくれたのも、自分が「よそ者」だったからではないのだろうか。

 それから何年もたってから、私は再びドイツで暮らし始めた。何しろ、人口の6分の1が、「鉄のカーテン」の彼方から西ドイツに逃げてきた人々である以上、私は彼女のように、この社会で「よそ者」として育った人々にたくさん知り合った。

 これらの人々の多くは、ある年齢に達すると、死児の歳をかぞえるようなことを続けている両親に対してうんざりしたり、距離をとりたいと思うようになるそうである。

 だが不思議なことに、そのような人々も、さらに何10年もすると、発作的に、かつて両親が住んでいたポーランドやチェコの村や住居を訪ねることがある。そして、両親の故郷が、繁栄して便利なドイツ社会に住み慣れた二代目にとって住みたいところではないということを発見する。

 そのような体験をした友人の一人はかつて、「親父は(今の東側を)見ないで死んで本当に良かった」と私に話したことがある。そして、その後しばらくして「息子がポーランド語の勉強をはじめた」と、喜んで電話してきたりした。

 
●故郷に対する権利〜国境の意味を問い直す

 私が暮らした70-80年代の西ドイツ社会では、故郷を失い「永遠に昨日のままでとどまった人々」の団体は、評判が悪かった。要するに、彼らは右翼と見なされていたのだ。外国人である私が、そのような団体に関心を抱き、同情心をもっていることに、眉をひそめる人も多かった。この傾向は、文化人とか知識人と呼ばれる人々ほど強い。ここには書かないが、彼らの反感や嫌悪の心理は錯綜している。

 当時の私には、同国人の被った犠牲にも、もう少し同情と理解の気持をもってもいいように思われた。というのは、幼稚といわれるかもしれないが、私は、自分が殴られて痛いから、他人の痛みを感じるようになり、殴るべきでないという倫理観が生れると思っているからである。

 同国人とは、自分に近い存在である。「加害国ドイツ」ばかりを強調し、故郷を失った同国人の痛みを無視することは、自分の痛みも感じないのに等しいことに思われた。もしかしたらこのような人達は、本人が思いこんでいるほど、外国人被害者の痛みを感じることはできないのではないか。

 そんなことを、私はそのころよく思ったからである。議論がはじまると、他人(=外国人)の痛みに専業する人間と、自分(=同国人)の痛みに専業する人間とに分かれてしまう。いかに現代社会が分業社会とはいっても、これも残念に思われた。

 「永遠に昨日のままでとどまった人々」の団体が、当時のドイツ社会で厄介者扱いにされた理由は、ドイツの外交政策と関係がある。彼らの組織は、オーデル・ナイセ(ドイツ・ポーランド国境)以東の領土の返還を求めていたからである。

 欧州統合とともに「国境線は移動させるのでなく、国境線を越える人間や物や情報の移動を自由にすることによって、問題を解決するべきである」という考え方が強くなった。この欧州統合は、東ドイツとの再統一と並んで、戦後西ドイツにとって重要な外交目標であった。

 国境線の変更要求は、欧州内で展開されるドイツ外交にマッチしないどころか、邪魔になったので、厄介者扱いにされたのである。このオーデル・ナイセの国境線も、ドイツ東西統一で確定されてしまった。

 「永遠に昨日のままでとどまった人々」と悪口を言われながら、連帯を保ってきた彼らも、寄る年波には勝てない。この数年来、彼らの団体も会員数もどんどん減り、社会的影響力も失いつつあるとよくいわれる。

 とはいっても、彼らの要求を擁護するために、ドイツの国際法学者が使い出した「故郷に対する権利」は、その重要度を増しつつある。この権利は単なる居住権より多くの側面を包括し、精神的要素を含むものである。これは、個人とその生存空間の関係を規定する権利であり、人間のもつ基本的権利であるために、領土主権などより、上位のものとして扱われる。

 ということは、国家同士が勝手に領土変更をして、住民を退去させることができないことになり、そのような場合、あくまでも住人個人の意思が優先することでもある。

 そして「民族の浄化」とは、「故郷」と呼ばれる慣れ親しんだ生存空間に住むという、基本的権利が踏みにじられることである。この場合、侵害国が領土主権を主張しても、国際社会は介入する権利をもつことになる。 (国際社会が「面倒くさい」とか、その他色々な事情から、この権利を行使しないことがあれば、それは別の話だ)

 このように考えると、「永遠に昨日のままでとどまった人々」と呼ばれていた人々は、実はどこか明日の世界に通じるところもあったのではないのだろうか。

 ユーゴ紛争、コソボ問題などに対して、ドイツの世論は英仏よりセンシブルに反応するといわれる。もちろん地理的に近いことがあるにしても、この事情は、ドイツ社会が戦後「故郷に対する権利」を踏みにじられた1200万人もの同国人を受け入れられたことと、無関係でないように思う。

 
●「北方領土招致運動」(?)

 1970年代、80年代に、保守的政治家や上記の「故郷を失ったドイツ人」の団体関係者に会うたびに、私は日本のことを褒められた。これは、日本国民の「北方領土返還要求」のためである。

 オーデル・ナイセ以東の領土請求で国民の大半から厄介者扱いにされていた彼らにとって、「国民が一丸となって」ソ連に対して領土返還を要求する姿は、うらやましく見えたのである。彼らの多くは国家とか国民の価値を上位に位置づけ、そのような意見でナショナリスティクな考え方をする人々であった。ところが、彼らも事情を知るにつれて羨ましくなくなるようだ。

 まず私の直感的疑いのようなものを書く。もしかしたら日本国民の意識の上で、「北方領土返還」とは何か国際的な催しを招致しようとする試みと同じ次元にあるのではないのだろうか、ということである。例えば不幸な戦争で開催されるはずのオリンピックが中止になった。今度こそ日本で開催したい。これこそ、「日本国民の悲願」である。

 何となくこんな感じで、だからこそオリンピックや万博やサッカーワールドカップといったものとどこかで類似した次元で、これは「北方領土返還」ではなく「北方領土招致運動」というべきかもしれない。私はかなり前からこのような印象を漠然と抱いている。

 たとえば、ミュンヘンサミットのとき日本政府は「北方領土」に言及させようと他の参加国に働きかけた。当時日本の外務省の役人が配るリリースに眼を走らせながら、私が思ったこともこれに近い。こうなってしまったことを私は悲しく思う。

 なぜ私がそのように思うのだろうか。それは多分私がナショナリズムに特有のどろどろとした情緒的なものを「北方領土返還」に全然感じないからである。

 ナショナリズムの根底にあるものは、国家という共同体の成員同志の連帯である。他の成員が例えば土地を奪われて嘆く。そのとき他の成員は連帯を呼びかけられると感じる。この連帯・共鳴の呼びかけは情緒的圧力であり、その嘆きに共鳴する者も反対する者もこの圧力にさらされている。だからこそ、どちらも情緒的に反応せざる得ない。

 ナショナリズムとは情緒的ポテンシャルを高度に帯びた人間関係であり、当然内部での感情的議論を起こすものである。だからこそ、愛情や憎悪や悲しみや痛みといった感情的火花が飛んできて、いたたまれない気持がしてくるのである。

 私はこのナショナルでどろどろとしもの、情緒的な要素を「北方領土返還要求」に感じない。「我が国固有の領土」という文句がいつも繰り返される。この文句が国際社会で説得力がないという事実を除いても、「失われたもの悲しむ」という情緒的要素がなければ、多くの日本人に訴える力にならない。

 日本からのドイツ訪問者とこの問題について話す度に感じるのだが、日本で「北方領土返還」に賛成する多くの人々の「賛成」とは、「返ってくることは返ってこないことより良い」といった意味での賛成なのではないのだろうか。このレベルの「賛成」は、私が今書いたような被害を受けた共同体の他の成員から発信される連帯の呼びかけの圧力に対する反応としての「賛成」「反対」ではない。 

 
●領土問題に矮小化された故郷に対する権利

 それでは、なぜ日本の「北方領土返還要求」が「北方領土招致運動」になってしまったのであろうか。

 私の答えははっきりしている。すべてが国境線の変更という領土問題、それ以上でもそれ以下でもない問題に還元されてしまったからである。その結果、元住民の故郷を失った悲しさとかいったナショナリズムに重要な情緒的側面が消えてしまい、「一部の熱心な人々の招致運動」になってしまったからだと思う。

 起こった事件は、後に「北方領土」と呼ばれる北海道に近い島々に住む私たちの同国人が彼らの慣れ親しんだ居住空間から追い出された、ということである。それは「故郷に対する権利」がソ連軍によって踏みにじられたことである。そうなってしまったのは、成員の諸権利と安全を保護する義務がある日本という国家が敗戦によってその義務を果たすことができなくなったからである。ここまでは東欧圏から着の身着のままで逃げてきたドイツ人と変わらないと思う。

 日本でも最初のうちは絶対そうでなかったと私は想像するが、いつの間にか元住民不在に近い、地図の上の線引きだけの問題になってしまった。これが「故郷を失ったドイツ人」と「北方領土」元住人の大きな相違である。

 もちろんこうなってしまったのも、1200万の「故郷を失った」ドイツ人と比べて、1万6000人という「北方領土」元住民の数があまりに少なかったという事情が手伝ったことはいうまでもない。とはいっても、これは「領土」というものについての考え方の問題でもある。

 「北方領土返還要求」の本来あるべき姿は、元住民が剥奪された「故郷に対する権利」を行使できるようにするために、国家が領土主権を主張するという形になるのではなかったのだろうか。

 法的に見て「故郷に対する権利」が国家の領土主権より優位あることはすでに述べた。元住民の権利が主で、国家の領土主権は従なのである。こうなっていないことを如実に示すのは「北方墓参」についての日本政府の処置である。

 元「北方領土」住民がお墓参りをすることは、ソ連によって奪われた「故郷に対する権利」の極めて小さな部分的行使である。一方、領土主権を主張する日本が実施してきたのは係争中の「北方領土」のビザなし入国である。これは領土主権を放棄していないことを強調するためだ。

 ソ連側が墓参りのために日本政府の発行する身分証明書だけで入国を認めている限り問題はない。問題が出るのはソ連側が日本政府の身分証明書を認めなくなったときである。この時日本政府は自国民の元住人に残された墓参りという「故郷に対する権利」のささやかなる部分的行使を認めるか、それとも自国の領土主権を示威するかの選択枝に立たされることになる。

 周知のように、1976年日本政府は、自国民の「故郷に対する権利」より領土主権の強調を優先する決定をして「北方墓参」がストップする。この処置は年老いた元島民のことを考えると、きわめて厳しく残酷な処置であったのではないのだろうか。

 というのは、これによって、「故郷に対する権利」をソ連から踏みにじられた元住民が、自国政府からも今一度権利を踏みにじられることになるからだ。驚いたことに、このような状態が十年以上も続いたのである。私は当時日本の政治サイドや世論でどのような議論があったか、また元島民がどのように反応したか、残念なことに知らない。

 領土を幼稚な「陣取り合戦」の対象と考えなければ、自国民の「故郷に対する権利」の再行使こそ返還を正当化する重要な根拠ではないのだろうか。それなのに、自分からその権利を侵害したら、「自ら墓穴を掘る」ことになる----この「北方墓参」の話はかなり後になって聞いたことであるが、私はこのように思った。また、自国民の「故郷に対する権利」を軽視する人々が、仮に返還がかなったとして、その返還後に、居住ロシア人の「故郷に対する権利」を本当に守ることができるのであろうかと考えて少し不安にもなった。

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