「臓器とは人命救助の浮きぶくろ」
−ドイツの脳死臓器移植について−
日本で「臓器移植法」が衆議院を通過してから間もない一九九七年六月二五日、ドイ
ツ連邦議会でも「移植法」が可決された。こうして先進国としては例外的に臓器移植
法をもたなかった二つの国がほぼ同じ頃立法化したことになる。ところが、立法化に
至る経過はまったく異なる。というのは、六〇年代末「和田心臓移植事件」で躓いた
日本とは異なって、ドイツの移植外科医は早い時期に「移植綱領」を作成し、よく機
能する臓器移植システムをつくったからである。ちなみに、ドイツは心臓移植だけで
も毎年五百回以上実施している。
このような事情から「移植法」の提案者の一人であるベアトリックス・フィリップ議
員が「この法案で、私たちは移植医が自ら作成し、遵守義務を果たしてきた移植綱領を引
き継ぐことになる」と述べた。
ドイツの立法化では、移植の現状維持派と、党派の違いを超えて集まった移植の現
状に批判的な改革派とが対立した。
ドイツは脳死臓器移植を始めるために立法化した日本とはこのように正反対の状況に
あった。ところが、立法化では議論が日本と同じように「脳死」と臓器提供の意思表
示の問題に集中した。
今からこの二つのテーマを出発点にして臓器移植の根底にあるドイツ人の考え方が日
本人と異なっていることについて考えてみる。
「脳死」論争は今後も継続
ドイツは脳死臓器移植を続けてきた。この現状に対して、改革派の立法上の苦労
は、「脳死」を「人の死」でないこと、すなわち「死ぬプロセス」の一段階であるこ
とをはっきりさせ、同時に今後も臓器移植を可能にすることである。そのために、臓
器提供に同意している限り、「脳の計測可能な機能の欠落」した人から臓器を摘出し
ても嘱託殺人にならない旨を法案に明記することにした。
彼らがそうしたいのは、人の生死が脳機能の有無に帰着することに不安を覚えるから
である。というのは、こうなると、人間の生命の価値を等級づけることにもつなが
り、「生命が保護される権利」や、また「人間の尊厳」といった憲法の根幹となる基
本権に抵触するケースが出てくるからだ。例として引かれるのは、人間の存在が脳機
能の有無に還元されてしまうと、この機能をもたずに生れた不幸な赤ん坊は人間でな
くなり、「生命を保護される権利」が認められないので、死んでもらってよいことに
なる。この種の可能性をここで封じて置くのが彼らの目標であった。
ところが、「脳死」を「人の死」としない彼らの対案はあっさりと葬り去られた。
議会を通過した法案では、「大脳、小脳、脳幹の全機能の欠落が決定的に修復できな
いことが確認されないときには、臓器を摘出することが許されない」とあり、事実上
「全脳死」が「人の死」として認知されたことになる。この現状維持の法案に大多数
の議員が賛成したが、これはこの「脳死」概念に基づいて救急病院で人命の救助努力
をやめたり、また臓器摘出のために医者が「脳死」を診断するといった移植の実施が
二五年以上も続いてきたからである。
このように立法化では「脳死」賛成派が全面勝利したことになるが、これで議論が
終ったことにならないといわれている。
まず生命倫理学者の議論からもわかるように、現在のところ「人格」という概念を経
由して脳を最後の砦として生死の区別に使っている。とろころが、移植医学の発展で
脳組織部分の移植が可能になれば、この最後の砦も守れるかどうかは怪しくなるから
だ。
次に「脳死」について論争されるのは、この問題が別のもっと厄介な大問題と結びつ
けられて、本当のところは、この別の大問題を議論したいからである。よく指摘され
るように、私たちは「脳死」を救急病院で救命活動の続行か停止かの目安として使っ
ている限りあまり問題にしなかった。ところが、臓器摘出と結びついた途端に、この
目安が問題になった。これもこのような議論の在り方をしめす。
「脳死」といっしょにされる大問題とは、現代社会が科学技術の進歩にどのように対
処すべきかとか、死の意味づけとかいったことで、正直いって誰もが途方に暮れる幾
つかの問題である。例えば、すでにずっと昔から進行している「社会の医療化」と呼
ばれ、私たちの生活のなかで医者の管理分野が拡大してきたこともこのような厄介な
問題の一つである。ドイツでは六〇年代前半までに、昔は病気でもなかった「お産」
がほぼ百パーセント近く医者の管轄下に入ってしまった。この文脈では「脳死」を
きっかけに、ドイツの改革派が「死という事件」を医者の管轄から奪還しようと試み
たことになる。いずれしろ論争はかたちを変えて今後も続けられる。
臓器提供は「良心の問題」
ドイツでは、本人が生前に死後臓器提供の意志表示をしているか、本人の意志表示
がないときには遺族が提供に同意すると、死体から臓器を摘出できた。これは「同意
方式」と呼ばれて、ドイツ以外の国(例えば米国)でも実施されている。
ドイツの改革派はこの同意方式を更に狭くし、本人が生前に書面(ドナーカード)で
臓器提供に同意している場合にのみ臓器摘出を認める法案を提出した。この理由は、
すでに述べたように「脳死」を阻止したいからである。臓器摘出を実施する外科医を
嘱託殺人から免罪するためには、臓器摘出の同意を第三者の遺族にひろげないで、本
人だけに限定するのが法的スマートな解決だからだ。
大多数の議員はこの改革案でなく、従来通りの同意方式に賛成した。というのは、臓
器摘出を本人の臓器提供同意だけに限定すると途方もない臓器不足をなるからであ
る。移植法成立の前年の一九九六年に、ドイツで三千二百二十八回脳死臓器移植が実
施された。そのうち書面による同意があったのはわずか三四件で、一パーセントに過
ぎない。残りの九九パーセントは脳死者の遺族の同意で臓器摘出が可能になったので
ある。
また改革派の方式を採用すると、パスポートや自動車免許の更新時に臓器提供意志の
有無の表示を義務づけるといった処置を導入しないと臓器供給減に対処できなくる。
ところが、よその国で平気で実施されるこの種の政策がこの国で導入できるとは楽観
できない。これはドイツで戦後特に強くなった思考習慣に合わないからである。とい
うのは、この社会で臓器の提供はどちらかというと「徴兵義務に応じるか、それとも
拒否するか」といった問題と同列で、「良心の問題」と見なされている。もちろん私
的会話でドナーカードを所持しているかどうか、また徴兵義務を拒んで社会奉仕をし
たかを尋ねることはさしつかえない。ところが、もしパスポートに「徴兵義務遵守も
しく拒否」欄ができて、その記入が義務付けられることになれば、国民の多くはどの
ように反応するであろうか。同じように「良心の問題」と見なされる臓器提供ついて
類似処置をとれば、大きな抵抗が予想されるといわれる。
臓器とは寄付するもの
ドイツの改革派が臓器の提供に関して遺族をツンボ桟敷に置こうとした第二の理由
は、本人の臓器提供に関する自決権の尊重である。理性を備えた個人が今述べたよう
に良心に基づいて下した決断を「どこかの国」のように遺族が反古にするなどもって
のほかである。このようにドイツ人は考える。
ドイツで長年実施され立法化された「同意方式」では、提供意志の書面がないと、遺
族による故人の意志の忖度ということになる。ところが、移植コーディネーターの話
を聞けばわかるように、実情は遺族が臓器摘出に同意するかどうかだけの問題となっ
ている。つまり、本人の生前の同意がないと、普通の「同意方式」では臓器に関する
個人の自決権、良心に基づいて下された決断などはあまり真面目に扱われていない。
この形骸化した方式を、自決権をより尊重するように変革する。そうすることで臓器
移植が社会でより多くの人々に心から支持されるものになる。このように、改革派の
政治家は力説する。本当にそうなるのだろうか。
今からドイツの改革派が尊重する臓器提供の自決権を問題にする。
それでは私が臓器提供に同意する前に「(脳)死後摘出された私の臓器はアジア人に
のみ移植していただきたい。そうでなければ私の臓器を移植に利用することを禁ず
る」という具合に条件をつけたらどうであろうか。
臓器提供の自決権を主張する以上、このささやかな願望を認めてくれてもよいはずで
ある。ところが、これが絶対駄目なのである。臓器提供については提供するか提供しないかの選択肢しか認められていない。条件をつけるのはいっさいご法度なのである。
なぜそうなっているのであろうか。
日本語で私たちは「臓器提供」と表現する。ところがこの表現はドイツ語ではピッタ
リ来ないし、使われない。というのは、この社会で臓器とはあくまでも寄付するもの
であるからだ。確かに寄付するときに条件はつけないのが普通である。私はこの「寄
付」というコトバにどこかキリスト教的なもの、教会臭いものを感じる。臓器提供で
強調される「隣人愛」とは不特定多数に向けられるもので、これもキリスト教的であ
る。
いずれにしろ死んで臓器を寄付した時点で自決権が消滅してしまうので、私の条件も
認めてもらえないのではないだろうか。私が提供する臓器はいったいどのように扱わ
れるのだろうか。これは死んだものになるのであろうか。ドイツ語に「神の畑」とい
う古臭い表現があって墓場を意味する。私の臓器の入った死体は本来なら「神の畑」
に埋められてこの世から消滅する。臓器移植など昔はなかったので「同意方式」にし
ろ、また臓器提供拒否の意志表示がない限り臓器が自動的に接収される「反対意志表
示方式」にしろ、昔からあった死体処理の考え方を転用しているのではないのだろう
か。私の死体は教会の敷地にある「神の畑」に本来土葬されるものであった。だか
ら、私の臓器はその前に急いで摘出され、神もしくはその代理人の教会に属するもの
にされる。誰も今時「神」とも「教会」とも言わないが、このようにドイツの移植関
係者はどこかで考えているのではないのか。
これが私の疑いで、仮説である。
キリスト教的意味で生に属する世界を「この世」とし、死に属する世界を「あの世」
とすると、この区別が彼らの臓器処理システムの根底にあるのではないのだろうか。
そのように考えないと色々なことが説明できないと思う。
ドイツの改革派が尊重する臓器の自決権はあくまでも「この世」の話なのである。臓
器の管理や分配は「あの世」の管轄下に入る。この暗黙の約束があるから「この世」
で私が生きているときに主張できる自決権とは提供するかしないかだけの意志表示に
なる。
次の例に移る。
周知のように臓器移植が盛んなヨーロッパ諸国は慢性的臓器不足に悩まされている。
その最大の理由は自動車の安全性が改善されて交通事故死が減ったからである。九〇
年代はじめと比べて交通事故の死者数がドイツではほぼ半分になったといわれる。皮
肉なことに「脳死」論争を続けているうちに脳死者がどんどん減ってしまったのだ。
「同意方式」を採用し、ドナーカードの普及率が3%か5%で深刻な臓器不足に悩む
ドイツで今まで私が論じてきた改革派とは質的にまったく異なる提案をする人たちが
少数ながら存在する。彼らの提案は、
《現在臓器不足で多数の人が移植を待ちわびている。なかには臓器が配分されないた
めに死んでいく人もいる。この待機者リストで臓器提供の意志表示をした人々と、臓
器提供の意志表示をしなかった人々が臓器分配では区別されない。これはおかしい。
臓器提供の意志表示は他の分配基準と共に考慮され、意志表示者はこうして少しは優
遇されるべきだ。家族が臓器提供の意志表示をしている場合は、本人に対するほどで
はないにしても、臓器配分にあたって考慮されるべきである。》
この提案通りにしたら、どうなるであろうか。確かに自分もいつか臓器を必要とする
かもしれない。今より多くの人々がそう思って掛け金ナシの保険と思い、ドナーにな
るかもしれない。またこのやり方は「隣人愛」でなく、「連帯」という相互扶助の精
神を反映しているのではないのか。労働法が完備していなかった頃不当解雇を見て
「明日はわが身か」と思って労働組合に入ったこともあったのだ。もしかしたら、ド
イツの改革派の対案以上に個人個人が臓器移植について理解を深め、連帯精神から臓
器提供の意志表示をするようになるかもしれない。本当のところ、そう考えることも
できるのである。ところが、ごく少数のこの提案はこの社会の臓器移植関係者から問
題にもされない。
それはなぜなのか。
それは、この提案も、臓器提供に際して私が条件をつけるのと同じように、ドイツ社
会の臓器移植の根底にあるタブーを犯しているからである。というのは、この提案者
は、臓器提供に同意したことから「あの世」の管轄下にある臓器配分に口出しできる
と思っている。これは口出しする権利が発生すると考える点で私と同じ過ちを犯して
いる。
このように見ていくと、ドイツの臓器移植が、二十世紀末の現在世俗化して擦り切れ
てしまっているかもしれないが、キリスト教的精神に基づいた思考様式や社会構造に
のっかって機能していることになる。気味悪い死体の一部もこの構造で一度「あの
世」に行き、無害に消毒されて「この世」に戻される。
ドイツの法学者はどんな屁理屈でもこねまくるが、その彼らもまだ死にもしてない人
間の臓器摘出を合法化する改革案をあまり支持しなかった。これも、システムに根底
にある「あの世」と「この世」の区別を混乱させるからである。
それでは、臓器の管理・分配している「あの世」はどこなのでろうか。もちろん法王
庁でもないし、キリスト教関係の慈善団体でもない。それは、移植センターの外科医
と、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、オーストリア、ドイツの五カ国に所在す
るこれら移植センターが参加するユーロトランスプラント(本部がオランダのライデ
ンにある移植ネットワーク)である。
「国民から支持される臓器移植」などは、もしかしたらとんでもない幻想かもしれな
い。というのは、エッセン大学の社会学者の調査ではドイツ国民の五人に一人、医者
の二人に一人は臓器が公正に配分されていないと考えているからだ。確かに臓器分配
基準は、ドナー・レシピエントの適合性、サイズ、臓器運搬距離等の比較的客観的な
ものだけではない。その他のより主観的種々の基準の組合わせになると当然裁量の余
地がうまれる。
それにしても、この世論調査で見られる批判度、反感度は強過ぎると思われる。確か
に、どこの社会も臓器移植を不自然なことと思っている。この反感度は、それだけで
なく、「あの世」と「この世」にまたがって存在し、かつ生殺与奪の権を握っている
臓器分配移植組織の在り方と関係があるのではないだろうか。というのは、この在り
方は現在の社会で表向き正しいとされる価値観に合致しないからである。もし教会に
生死の決定権までも賦与すれば物議をかもすのは必至である。
ドイツの移植外科医はこの世俗化した宗教的構造に守られながら移植を続けることが
できたのである。ちなみに新旧揃って教会は昔から臓器移植を人助けとして支持して
きた。この事情が、裁判が嫌いでない人も、「脳死」反対者も多いこの国で、今まで
脳死臓器移植が殺人で訴えられた例がないことの一つの理由だと思う。確かにドイツ
社会で教会公認の人助けを刑法上の罪で訴えるのはかなり勇気がいる。
「命の贈り物」vs「人命救助」
日本で臓器移植というと「命の贈り物」とか「命のリレー」といった表現がよく使わ
れる。死んだ息子の心臓が別の人に移り生き続けるとか、息子の命がその人の命と合
体する。このような考え方がこれらの表現の根底にあると思われる。輪廻転生を思い
起こさせるこの考え方をアニミズムと呼んでも差し支えないと思われるが、ドイツの
臓器移植にこのアニミズム的要素は至って希薄である。
ドイツは「同意方式」の国である以上、臓器提供同意者を増やすための啓蒙活動が必
要になる。例えば、毎年六月の第一週目に「臓器寄付の日」があり、またパンフレッ
トも色々な場所に置かれている。この活動で大きな役割を演じるドイツ移植財団
(DSO)に尋ねたところ、広報担当ヴィクトリア・ローゼンベルクさんは
「『命の贈り物』という表現が今まで移植関係で使われたことは一度もなかったと思
う」
といって、この数年来使われている以下の標語を紹介してくれた。
A「死んだ後に命を助けよう」
B「臓器の寄付は命を救う」
C「臓器の寄付 − 命を贈れ」
彼女は日本の「命の贈り物」にCが近いかもしれないが、それでも意味がかなり異な
ることを強調した。というのは、ドイツ人は感謝の気持をこめて自分が生きているこ
とをあらためて表現するときに「命の贈り物」という。あらためてというのは、死に
かかったけれど助かったという意味だ。「命を贈る」は誰かの生殺与奪の権を持つ者が命をとらずに済ますといった意味で使われる。ということは、Cの「命を贈れ」もAとBと同じように他人の「命を助けろ」という意味である。ローゼンベルクさんは「『命のリレー』は聞いたことがないし、同じ心臓を三人目、四人目と移植していく誤解を招く」と評した。
いずれにしろ、A,B,Cにある「命」とはレシピエントの命で、「この世」に属するも
ので、ドナーの「命」は存在しない。ドナーの臓器とは「あの世」で分配されて、
「この世」で人助けに役立つモノに過ぎないのである。このドイツの標語を読んだ日
本人は「臓器」というコトバに抵抗を感じて「牧畜民族は違う」と思われるかもしれ
ない。あるいは「これじゃあ、浮きぶくろを投げて溺れる者を助けろと言っているの
と変わりない」と言われるのではないだろうか。
私が会った遺伝コーディネーターはドナーに個人的関心を抱くレシピエントも、逆に
レシピエントに個人的関心をもつドナーの家族も二%か三%に過ぎないと異口同音に
証言した。個々の例外はあっても、これも日本的意味での「命の贈り物」でないこと
をしめす。
このように見ていくと、ドイツの臓器移植は日本と本当に異なった精神風土の上で展
開しているのである。《日本の「命の贈り物」でドナーの命が前面に出されるのは、「誰かが死んだのに、私が助かるのは悪い」という気配りの反映として理解することもできる。この感情はドイツのレシピエントにも存在するが、あまり表現されない。
日本人の死生観は遺体を死体と見なし、部分である臓器を全体性ある「命」から切り
離して「モノ」と見なすことがなかなかできないのである。だから脳死臓器移植に対
する社会的抵抗が強かった。皮肉なことに、「命の贈り物」的キャンペーンはこの移
植反対論を助けた同じ死生観に乗っかって進展していることになる。というのは、臓
器が移植されるだけなのに、こちらでもドナーの「命」全体が強調されているからで
ある。ドナーの命がレシピエントの命になって生き続けることをこれほど強調するな
ら、移植推進派も「脳死=人の死」にあれほど固執しなくてもよかったのではないの
か。移植を待つ人々を死なせないために、妥協はもっと早い時期に成立してもよかっ
たように思われる。
そうならなかったのも、日本では臓器を気安く浮きぶくろのようにして、人命救助に
使うことができなかったからかもしれない。
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