弱い者いじめ

 弱い者いじめは建前としては道徳的に非難されているが理屈がつくと怪しくなる。それは確かに卑劣な行為で見聞して大方の人は気分が悪くなる。ところがこれに快感が伴うと言ったらこれまた大いに非難されるだろうが

 どうも本音のところでは否定できないのではないか、これが問題を複雑にしている。これから先は哲学者の世界で私には考察する力はない。弱い者いじめ を生業としているのは何々組とか言う暴力団であろう。これには暴対法がかなり効果をあげたり、社会がやくざ社会を戦前のように美化したりしなくなって、若い者からダサイとか言われ始め、最近では入会者が少なくなって暴力団が人手不足で困っているとの新聞報道には笑ってしまった。

 弱い者とはどんな人だろうかと考えるといろいろある。力の弱い人もそうだ。力には実力もあれば知力もある。また容姿なども含まれるかもしれない。それらが申し分なくても 弱い立場 にたったばかりに 弱い者 になることもある。これにはいろいろあるが病気になって病院に行くとたいていの人が弱者になってしまって回りは強い人ばかりで閉口する。そう考えると弱者は沢山いてというよりも、全ての人が弱者予備軍かもしれないから強い人もあまり胸を張らない方がよいかもしれない。

 さて今日のテレビを見ていたら路上生活者の一時収容施設建設を市が作るのを、付近住民が怖い顔して反対行動をしているのが映し出されていた。これも弱い者いじめに見えた。過日野宿者を少年達が襲い殺傷事件を起こしたと報道され驚いたが、その度に学校長が 誠に申し訳ない命の大切さを教えます と判で押したような謝罪をして深深と頭を下げていた。

 加害者の親が謝罪したのは寡聞にして知らない。 命の大切さはわかるが、教えなければ判らないようなものとは知らなかった。とにかく最近は何がなんだかさっぱりわからない。

 同朋の路上生活者には冷たくても遠いイラクの人には親切にしないといけない、とばかりに憲法違反をしてで自衛隊を送るのにはおおらかだが、何か可笑しくはありませんか と言う声が日増しに小さくなっていくのは寂しい。いつか来た道 と思うのも戦中派のせいだろう。

 となりの弱者の頭を叩くのは勿論よくないが、気に入らないからと言って他国を武力で攻撃したり、それを手伝ったりして罪も無い人々を殺傷するのが、最大の弱い者いじめであることだけは哲学者の力を借りなくても確信できる。弱い者もいじめられない社会が安心できる社会だ。