新聞の終焉

 想えば新聞との付き合いは長い。 昭和22年に就職して給料が貰えるようになってから購読を始め以来替わることなく同じ新聞を読んでいる。 新聞から多くのことを教えて貰ったし、またたくさんのことを学んだ。

 新聞が戦後社会に果たした役割は政党のそれをも凌ぐものがあったと思う。 新聞なくして民主主義社会は成り立たないだろうと確信していたのだがどうも最近少し可笑しくなってきた。

 第一に新聞の影響力に陰りが見え出してきたように思うがどうだろう。 その理由はいろいろあろうがなんと言ってもテレビの出現が挙げられる。 映像の持つ魅力は新聞のカラー印刷など遠く及ばない。 その上テレビは知識を得るのに余り労力を要しなくて済むという決定的な強みがある。 また耳から入る知識は忘れにくいそうだ。 

 更に追い討ちをかけるのが人々の活字離れがある。  印刷技術の発展が社会に齎した貢献は計り知れないのに、今それが敬遠され始めているらしい。 確かにいまゲーテのフアストを読めといって差し出されてもとても読めまい。 若い時だから読めたのである。 あのぎっしり詰まった活字を端から読み進める自信は全く無い。 それは年齢的なものもあるだろうが、私もまた活字離れをしているのである。

 第二が新聞の枚数の多さである。 とても読みこなせる量ではない。  しかも最近は全頁広告どころか2頁全部広告はいくらでもある。 驚くばかりの広告量である。 計った事はないが半分は広告で占められていないだろうか。 勿論新聞も営利会社であり利益なくして新聞発行は不可能だから、広告収入に頼るのは宿命ではあるが少し度が過ぎていないか。 毎日読みもしない古新聞の積み重なっていくのを見ると環境問題の見地からも考えさせられる。

 第三が記事の内容である。 スポース紙は別として一般紙はあれほどの娯楽性は必要ないのではないか。 購読者のニーズの多様性に応えると言う努力をしているのだろうとは思うが一考を要する。 このままでは新聞の持つ権威が失われひいては新聞記者の質の低下を招き、民主社会の公器としての役割を果たせなくなっていくのではないか。

 新聞の終焉は民主社会の終焉を意味する。 画期的な改革を望みたい。