政策批判を許さない弁護士報酬の敗訴者負担制度
────  政策形成訴訟の立場から ────

即位礼・大嘗祭違憲神奈川住民訴訟の会 石下 直子


 私は、即位礼・大嘗祭違憲神奈川住民訴訟の原告の一人です。この裁判は、今の天皇の即位式を国が行ったことは、日本国憲法の定める国民主権主義と政教分離原則に違反すると告発しているものです。即位式は、神である天皇を日本の統治権者とする戦前の国家神道時代と同じ神道儀式でした。憲法の政教分離規定は、その国家神道体制が市民を侵略戦争に駆り立てた反省から設けられたものであり、平和主義を支えるものです。私たちはいま、東京高裁の判決を待っているところです。

 私たちと同じ政教分離訴訟は各地で行われていますが、7月に相次いで出された「大分抜穂の儀」違憲訴訟と「鹿児島大嘗祭」違憲訴訟の最高裁判決は、二つながら行政の違憲行為について判断しようとはせず、原告敗訴で終わりました。私たちの訴訟の一審判決も、始めに行政追随の結論があり、そこへ導くために論理をすり替えたものでした。私たちの主張の綿密な立証は全く無視され、司法の尊厳はどこにあるのかと思う判決でした。ところが最高裁さえ同じような判決を出したのです。 

 しかし、こうした裁判官ばかりではありません。1997年に出された愛媛玉串料最高裁大法廷判決は、憲法の政教分離規定に基づいて厳格に判断し、靖国神社への公金支出は違憲であると宣言しました。1991年の岩手靖国訴訟控訴審判決は、形は原告の敗訴でしたが、理由の中で靖国神社への公式参拝と公金の支出は違憲である、と明快に判断し、実質的には完全勝訴でした。このように裁判をすることで、私たちは政治の誤りをただしていくことができるのです。

 それでも、特に行政の違法を正そうとする政策批判の訴訟では、憲法を守るという裁判官としての責任を放棄して行政に追随した判決が少なくありません。どんな判決を出しても、責任を問われないのが今の裁判所です。担当の裁判官によっても裁判の結果が左右されます。裁判所の改革が先決なのにそれは後回しです。

 私たちは侵略戦争の体験から、日本を再び戦争をする国にはしたくない、平和な社会を次の世代に手渡したい、という切なる願いをもって裁判を起こし、弁護団も同じ情熱から、勝訴をかちとるために骨身を削ってくださっています。そうした弁護団に報酬と言えるものを差し上げられていないのが、私たちだけでなく政策を正そうという市民の裁判の現実です。それが勝敗の予測のつかない中で、費用など問題にしないでよい相手方の弁護士費用の負担がかかるかも知れないとなれば、私たち市民は違憲訴訟や社会改善のための訴訟は起こせなくなってしまいます。

 政府は今、憲法の平和主義に違反して戦争への道を突き進もうとしています。そのために政策批判を許さず、憲法を機能させない、違憲訴訟は起こさせないというのが敗訴者負担制度の導入ではないでしょうか。私たちは、何としてもこれを認めるわけにはいきません。


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