司法制度改革に関する意見書
全国青年司法書士協議会
はじめに
当協議会は、今般の司法制度改革の流れの中で、貴審議会の議論を注視しつつ、その議論においては、司法を利用する「市民の視点」から考えることが最も重要であるということを提言してきた。貴審議会が最終答申をまとめようとしている中、当協議会は改めてこの立場から、司法制度改革についての意見を述べたいと考える。
1 「弁護士万能主義」は正しいのか
貴審議会は、司法制度改革の理念として新しい「この国のかたち」を規定していくことを標榜し、この国に「力強い司法」が隅々まで「あまねく存在する」という理想を掲げて議論を続けているが、そこにある司法の担い手としてただ弁護士のみを想定しているようである。しかし、本当に弁護士だけで現在の問題のすべてが解決するのであろうか。
貴審議会も指摘するように、これからは市民が「統治客体」から「統治主体」※1へとその意識を変革する必要がある。それに伴い、市民の司法との関わりもより能動的で積極的なものへと変化していくことが予想される。私達は日常接する市民から相談される法律問題や司法過疎と呼ばれる地域における法律相談事業を通じて、およそこの国のどこに暮らしていようが、その生活の多様さに応じて司法の場において解決するべき問題も多様性を有し、画一的対応ではこれらすべての問題を解決することは不可能であることを痛感している。このような多様な人間の問題の解決を今まで以上に求められることが予想されるにもかかわらず、これに対し単一・画一的職能ですべて対応しようとする事には無理があるのではないか。今の弁護士は確かに資格としてすべてのことができるが、実際に市民の問題に対応しきれていないというのもまた事実である。地域的過疎という問題をはじめ、専門分野における能力不足、少額事件に関与しなという事実。※2自らの職能に対する自己規定にとらわれ、あるいはその経済的問題から、自らが手がける仕事の範囲を限定することにより、低廉で雑多な、しかしながらその市民にとっては切実で重要な問題が司法の場から取り残されていく場面を、私達はその相談活動から数多く見聞するということも指摘しておきたい。また、そのような職能の自己規定が、高額であると予想されている報酬とも相まって市民の一般感覚からは離れたものとなっていることが、その存在が市民の目から見て遠いと感じられている一因であることは、今までに発表された数多くの論文や意見の中で指摘されているとおりである。
では、弁護士数を増加させることでこのような問題が解決されるのであろうか。ロースクールによる毎年3000人の法曹養成により弁護士の人的規模が拡大するといっても、十分と考えられる人数になるまであと何年必要なのか。仮にあと15年かかるとしても、その間も人は生活しており、法律問題は確実に存在しているのである。現在の司法の枠組みで救われていない人々は、今回の司法制度改革の議論の後、さらに15年を待たなくてはならないのか。現在の司法試験をへた弁護士が有する自己認識が市民の一般感覚からかけ離れているという批判があるのに、その司法試験に代わるロースクールを卒業し弁護士となった者が、果たして一般市民の感覚に立ち続けることができるのか。また、ロースクールにより、多様な学生の受け入れという方針がどのように運営されどのような現実を形成していくのか。弁護士は本当に15年後には自らの職能の再定義をし、地域的過疎は解消され、専門分野における知識もあり、市民の低廉で雑多で多様な法律問題に対処しているのであろうか。確かに、人員増加により量的問題は解決するが、このような本質的問題の解決については疑問を持たざるを得ない。
さらに、1964年の政府臨時司法制度調査会の意見書においては、当時の弁護士界の改善課題として「法曹人口の増加」「弁護士の大都市偏在の是正」「一般国民が容易に相談できる体制づくり」などが挙げられている。※3それから37年が経過するというのに、これらの課題は、そのまま現在の弁護士の問題そのものなのである。このような経過を見れば、今回の司法制度改革においていくら弁護士のあり方について変化の方向性を示したとしても、それだけで本当に改革がなされていくとは到底思えない。
もちろん、このような日本の司法制度や弁護士制度についてはそれぞれの歴史的経緯により現在の状況となっており、また行政政策により多くの隣接法律職能が規定され、日本特有の法律専門職分業体制が形成されていることも承知している。私達はただ単に弁護士を批判する事が目的で述べているのではなく、わが国の司法制度の将来像を考える上で、ただ現在の弁護士を増加させることのみが司法の人的基盤の拡充であるという議論に疑問を提示しているのである。弁護士の増加により、日本的法律専門職分業体制は大きな影響を受けることになるであろう。このような分業体制が日本的なものであるのなら、司法制度の将来についてはこれら隣接職能を含めたリーガルプロフェッション全体のあり方を議論すべきであり、日本の社会における法律家のあり方はどうなのかという大きな議論が不可欠である。また、リーガルプロフェッションの国際的規制緩和交渉を考えると、それは日本におけるリーガルプロフェッション、さらにはリーガルサービスの提供のあり方までを念頭に置いたものでなければならない。さらに、短期的対応としての隣接職能の活用のみではなく、中長期的なあり方の中で各職能がどのような位置を占め将来はどのようになっていくべきなのかということを貴審議会は提示しなければならないと考える。
2 司法書士の可能性
このように日本におけるリーガルプロフェッション全体から見ると、隣接職能の一つである司法書士をもっと活用していくことは、日本におけるリーガルサービスの提供という観点からも、あるいは市民に身近な司法の実現という観点からも非常に有用である。もとより司法書士はその依頼人に対するスタンスは明確に弁護士とは異なり、依頼人と共に問題解決を図るという、いわゆる本人支援型と呼ばれる対応をしており、当協議会が昨年発表した意見書にもあるとおり、市民にとって「身近な」存在としてその法律問題の解決にあたってきた。さらに、本年3月には弁護士会の公設事務所がある島根県浜田市において、司法書士により「いわみ少額裁判サポートセンター」が設立された。特筆すべきは、このセンターは弁護士過疎地に開設された公設事務所に呼応する形で、派遣された弁護士と地元司法書士との交流の中から、弁護士と司法書士のあり方を認識した上で設立されたという点である。このように、現場においては司法書士の将来像を模索しながら、地域住民の法的問題に対処する活動がすでに始まっているのである。
先にも述べたように、弁護士の増加により日本的法律専門職分業体制は大きな影響を受けることになる。経済的問題から、弁護士は今までのように法廷に立つことのみではなく、隣接職能の分野にも踏み出してくることは容易に想像できる。例えば、大都市圏では収入の道がなく、地方において開業し、登記業務をしながら訴訟事件を手がけるという弁護士も出てくるであろう。だとすると、このような弁護士がその地域で担うであろう役割は、現在、その地域で司法書士が担っている役割とどれだけの違いがあるというのだろうか。それは地方の司法書士のあり方そのものなのである。とすると、弁護士のみを司法の人的基盤ととらえるならば、そのような弁護士が日本全国に存在することになるまで、いったい何年かかるのであろうか。将来において弁護士が今の司法書士と同じ仕事をし、市民の身近な法律家となっていくのであれば、時間をかけてそれを待つ必要性はまったくない。現在において日本全国に存在し、司法過疎地における活動や消費者の多重債務問題等に対する活動によって既に一定の社会的な認知を受けている、「市民の身近な法律家」である司法書士を活用すればいいのである。例えば、当協議会においては常設的なものだけで年8回の全国・ブロック規模の実務研修会、年5回のシンポジウム・フォーラム等を主催し、会員のみならず自らの資質と能力の向上を図ろうとする司法書士はこれらに積極的に参加している。また、日本司法書士会連合会においても、現在その会費の約6割を研修に費やしており、今後とも更にそれを強化し、司法書士の資質と能力の向上を継続的に図っていく。このような能力担保の上で、司法書士に対し簡易裁判所の代理権や和解・調停事件と共に家事事件・執行事件・個人債務者の債務整理事件の代理権をも付与し、さらに地方裁判所以上の審級における輔佐人となる権限を公認すると共に、一般法律事務を扱う職能として確立し、司法制度における人的資源として長期的にも弁護士と同様に活用するべきである。また、司法書士を不動産取引や相続関係、消費者トラブルその他のこれまで司法書士が積極的に取り組んできた分野において裁判外紛争処理機関(いわゆるADR)を担う人材として活用することもできよう。このような司法書士の活用により、今すぐ市民の司法アクセスは飛躍的に良好になり、それは市民にとって身近な司法の実現により有用なものとなる。
しかし、このように私達は司法制度の中における司法書士の活用が市民のために有用であることを認識しつつ、同時に司法書士の活用について、その自治の不完全さから慎重論があることも知っている。確かに現在、隣接職能は行政庁の監督下にあり、その自治は完全なものではない。司法制度改革が市民の「統治主体」への意識変化を予定し市民と行政の対立的構造が増加することが予想され、さらに法律事務が裁判所や行政庁との対立的状況において遂行される場面があり得ることを考えると、職能が国家機関の監督を受ける立場にあることは妥当ではない。私達は市民のために司法書士が活用されることを望むと共に、それに必要となる自治の強化の必要性を認識するものである。
3 裁判所の改革
市民に身近な司法の実現のためには、裁判所そのものの改革も不可欠である。例えば、最高裁判所の正門からは一般の市民が中にはいることができないというのは一体何を意味するのであろうか。私達市民が最高裁判所に行ったとき、建物にたどり着くまで守衛に3度も止められるというのはどういうことであろうか。最高裁判所に傍聴に行ったとき、法廷まで傍聴人の全員を警備員が引率していき、開廷時間の15分前に法廷に入らないと傍聴ができないというのは一体何を意味しているのであろうか。このようなことは最高裁裁判所に限ったことではない。市民が身近に利用するべき簡易裁判所や地方裁判所においても、法廷で裁判官が着席する席はなぜ原告・被告の席より高い位置にあるのであろうか。 このような裁判所の外形的な姿は、すべて裁判官の自己規定が形になったものであるといえる。つまり、裁判所による、「裁判所はこうあるべき」という考えの表れであり、それはすなわち裁判官の哲学の結実であるといえる。最高裁判所事務総局に象徴されるこのような裁判所の官僚的・閉鎖的な組織文化が改革されることなしには、本当に「市民に身近な司法」の実現がなされるとはとても考えられない。裁判所は法的問題を抱えた者にとっては「最後の砦」である。いかに「在野法曹」が増加しかつそれが有用であって、市民がそこまでたどり着けたとしても、問題解決のためにはその先を歩まなければならないのであり、その距離がとてつもなく長いものであったり砦が開かないものであったりするならば、「身近な司法」は単なるスローガンに終わってしまうのである。貴審議会が指摘のとおり、本当に市民に身近な裁判所を実現するためには、最高裁判所事務総局の意向にとらわれず、個々の裁判官が社会の中で市民と共に生き、市民の意識や痛みを知る人でなければならない。そのためには、裁判所外での社会経験を積むこと、社会の一構成員としての活動や意見表明が自由にできることが必要である。この国の「法の支配」※4を実現するためには、法は常に市民と共になければならないし、裁判官は市民と共に生き、その感覚を重要視しなければならないと考える。また、かねて私達が主張してきたとおり、駅前裁判所等利便性の高い場所に数多くの裁判所を設置し、市民が気軽に利用できる体制を整えるべきである。さらには、物理的な裁判所建物を設置することが困難である場合には、裁判所が各地を巡回出張して行くことも可能であろう。現に、岩内簡易裁判所は月に1度北海道倶知安町まで出かけていき民事調停等の出張処理を行っている。このような工夫は日本全国においてできるはずである。
さらに、裁判が法関係の存否・判断につき終局的な決定を行う機関であることを考えると、その利用に一定の時間・金銭や専門性を要することも事実であり、貴審議会が述べているようにADRも一定の役割を果たしていくため、その整備が急務である。その上で、裁判にかかる時間や費用などの点についても、裁判所の運用の改善の余地がある。例えば、貴審議会でも議論されているとおり裁判における審理期間の短縮も求められるであろう。しかし一方で拙速な審理はさけなければならず、当事者の主張をよく聞くこと、現場の検証を行うこと、丁寧な証拠調べを行うことなどがないがしろにされてはならない。現状でも、特に弁護士代理がつかない本人訴訟でそうした傾向があり、これが裁判所への不信感を増す一因なのである。さらに、裁判所の手数料や予納郵券についての改善も不可欠であろう。裁判所は特に終局的な決定を行う機関であるからこそ、このような障害はできるだけ減少させるよう努め、市民に利用しやすいものとなっていなければならないと考える。
ただし、弁護士費用の敗訴者負担は、各方面から指摘されているとおり、市民に対して権利実現の確実性よりも訴訟回避の傾向を生むことになることは明らかであり、これについては強く反対する。訴訟になった事案では権利の存在・内容につき争いがあるからこそ訴訟になっているのであり、その解釈には双方にそれぞれ言い分があるのであって、正しい者が必ず勝訴するという程単純なものではないからである。このような制度は身近な司法・利用しやすい司法の実現にとって大きなマイナス方向への改革となるからである。
加えて、簡易裁判所の抜本的改革も必要である。簡易裁判所は市民に一番身近な裁判所であるべきであり、現在のようなミニ地裁的性格で利用されるべきものではない。簡易裁判所の理念は、市民の直面する問題の多くがこの裁判所で解決できるもので、さらに庶民が下駄履きでも気軽に行くことができるような感覚の裁判所であるべきであり、簡易裁判所を市民のための裁判所として今以上の活用を進めることは、真に市民に身近な司法の実現に寄与するものである。そのためには、簡易裁判所の開設当時からの経済変動や市民の法意識の変化を考慮して、簡易裁判所の事物管轄を300万円程度まで引き上げるべきであり、さらに少額訴訟の管轄も100万円程度まで引き上げるべきであると考える。この程度まで事物管轄を引き上げることにより市民の紛争の多くの部分が簡易裁判所の管轄となり、簡易裁判所が市民にとって真に有用な問題解決手段となり得るのである。
このような裁判所の改革をするには、日本の司法関係の予算はあまりにも少なすぎる。貴審議会が指向する、この国にあまねく存在する司法を実現するためには、やはりあまねく存在する裁判所が求められるのである。そのために、現状でも不足している裁判官・裁判所職員の大幅な増員も必然的に求められることになる。しかし、日本の現在の司法予算は諸外国と比べても愕然とするくらい少額であり、今回の司法制度改革が実効的な改革となりうるのかどうかということは改革のための法を整備することもさることながら、それを実現していくための司法関係予算の大幅な増額が不可欠であろう。この問題については貴審議会の審議内容とは直接関係ないかもしれないが、貴審議会の最終答申を実現するためには欠かすことができないものであるから、その中であえて指摘されるべきではないかと考える。三権の一つを担う機関として、司法予算の大幅な増額をもって、これからの市民社会の司法への期待に応えるべきである。
一方、裁判(所)の改革にあたっては、利用者としての使いづらさの回避だけでなく、「裁判や法律など他人事だ」という人々の意識を改革する手立ても考慮すべきである。貴審議会は「裁判員制度」につき積極的に審議を行っている。これは今までになかった司法への市民参加のあり方を模索するものであり、画期的なものである。ただし、この制度論が「参審制か陪審制か」という議論から生まれてきたものであるため、この「裁判員制度」が今一つ解りづらくなっているのではないだろうか。私達はこの制度の具体的内容について、今後も注視していくものである。アメリカにおいて陪審制が「司法の学校」と呼ばれているように、この制度の導入にあたっては、これが市民の司法への主体的な参加意識をもたらすものとならなければならず、裁判官や専門家の判断に引きずられることなく、市民が独自の役割を果たせるものとするべきである。また、現在でも司法委員・調停委員・検察審査会委員といった市民参加のシステムは採用されているが、その選任や執務基準及びその運用形態について、更に透明性を高める努力をするべきである。
このような司法制度への市民参加に関しては常に能力の問題が語られるが、主権者である国民が司法の場でも主人公であるべきであり、過度の能力論は司法における民主主義の理念を否定することにつながりかねない。むしろ、主権者として、主人公として国民がそうした役割を果たしていく能力を身に付けるためにはどうしていくべきか、という方向から考えるべきなのである。自分の問題を弁護士その他の専門家に依頼をして後はまかせきりにするのではなく、突然自分に降りかかった法的トラブルを自分自身の問題として再認識し、専門家の援助を受けながら自らの手で解決していこうとする人が、その後一人の人間として大きく成長していくということを、私達は日常の業務を通じて何度も経験している。
その国の民主主義の成熟度を測るには、その国における少数派に対してどのような手当がなされているのかが目安であると言われる。これはつまり、その世界の中で弱い立場にあるものがどれだけ強い立場にあるものと互して生活していけるようになっているか、どれだけそのような手段が講じられているのかということでもある。これを司法制度に当てはめて考えてみれば、司法制度が個々の市民にとってどれほど身近で使いやすいものとなっているかがその判断基準となるであろう。「法の支配」が普遍的なものとなった国において、法的な問題を抱える市民がその解決を図るのは司法しかなく、裁判所しかないのである。このような本来司法が担うべき役割を、決して忘れてはならない。
まとめ
以上述べてきたように、今回の貴審議会においては、現在の司法制度における問題解決のために必要な議論が十分になされたとは思えない。確かに、今回の司法制度改革によって司法制度が自分たちのものと認識する市民が増加するであろうという可能性は否定できない。しかし同様に、今回の司法制度改革の機運の高まりは主に経済界からの要請によるもので一般市民の間からのものではないし、その議論も十分なものではなかった以上、やはり司法制度が市民のものとはなり得なかったという可能性もまた否定できないのである。新しい制度を作り、それによって新しい世界が形成されていくのであるから、今後その結果についてある時点で検証し評価していくという作業は不可欠であろう。
また、制度というのはすべて社会の発展と共にその社会の中で最善なものであるように変化していくべきものでもある。どのような経緯があるにせよ、市民にとって遠い存在であった司法制度が改革され、少しでも身近なものになろうとしていることは評価できる。問題なのは、市民にとって司法が遠いものであった原因が、上記のように現在のような弁護士の量的不足という問題に矮小化され、あたかも弁護士の数さえ増やせば問題は解決するかのような議論となってしまっていることである。今回の議論の結果がどのようなものとなるのかの再評価は、このような観点からも必要である。
従って、私達は司法制度の中で司法書士が今以上に活用されることを求めると共に、今回の貴審議会の提言に基づく改革が実行された後において、その実効性と効果の検証は不可欠であると考え、「市民に身近な司法」の実現のため、改革の問題点を再度議論する場を、少なくとも数年以内に設けることを求めるものである。
以 上
※1 司法制度審議会中間報告5頁(平成12年11月20日)
※2 月刊司法改革No.18 37頁(2001年3月号)
※3 ドキュメント「弁護士」中公新書 183頁(2000年4月25日)
※4 司法制度審議会中間報告3頁から4頁(平成12年11月20日)