弁護士費用敗訴者負担制度は「中国残留孤児」を再び闇に葬る

東京法律事務所 平井哲史


1 戦前の日本政府は、中国大陸侵略のために、関東軍の他に、植民政策として大量の満蒙開拓団を彼の地に送り出した。
 敗戦間近の1945年7月から8月にかけて、関東軍は「転戦」と銘打っていち早くソ連軍から遠い南方の地に移動した。このため、置き去りにされた開拓団民は、背中に迫るソ連軍の砲撃や銃声におびえながら、必死の集団逃避行の途についた。
 この逃避行の過程で、親を失い現地の人に拾われ、あるいは親から「自分の手にかけるよりは」と現地の人に預けられたのが、いわゆる「中国残留孤児」と呼ばれる人々である。

2 その後、中国社会において、日本人と知られた孤児は、周囲から「小日本人」「鬼子」などと呼ばれていじめや監視の対象となり、日本の戦争責任を一身に背負わされる人生をたどることとなった。そして、多くの孤児は、日本人であることを押し黙って生活することとなった。

3 日本政府は、1949年に中華民国が誕生して以降、いわゆる冷戦体制のもとで、中国政府からの協力の申し出があり、多数の孤児が現地に残されているのを知りながら、国策として孤児らの早期帰国を促進することは行わなかった。むしろ、1959年には、孤児らを含む未帰還者に対する死亡宣告を行うための法律を成立させ、孤児らを法的に抹殺する方向に進んだ。このため、孤児らは歴史の闇の中に葬られることとなった。

4 1972年の日中国交回復後、1981年からようやく集団訪日調査が始まるが、この時点では終戦時0歳であった孤児でさえ36歳になっており、再び日本語を覚えて社会の一員として定着するのには大変な困難を伴う年齢になってしまっていた。にもかかわらず、政府のとった諸施策は、自ら引き揚げ援護策の延長と述べるように、時の経過により生じた孤児らの現状をふまえないものであった。

5 このため、永住帰国を果たした孤児らの多くは日本語での日常会話さえ困難で、当然ながら就職口も少なく、過半数が生活保護を受けざるを得ない状況となっている。また、孤児らの平均年齢は58歳をこえているが、将来受けることのできる年金は、長年に渡り掛け金を払っていなかったとして、戦後すぐに日本に引き揚げることのできた人々の1/3にとどまっている。そして、地域社会では、言葉の壁が立ちふさがり、日本人でありながら「中国に帰れ」などと言われる人々もいる。孤児らは、日本人でありながら、日本社会の中で居場所を失っている。アイデンティティーを喪失したと言ってもよい。

6 孤児らは、自らがおかれた境遇の改善を求めて国会や政府に陳情を繰り返し、10万人を越える請願署名も集めたが、孤児らの願いは政府与党に握りつぶされてきた。
 その孤児らに、昨年一筋の光明が差した。ハンセン病患者らの国賠訴訟熊本地裁判決である。長年に渡る患者らの闘争と勇気ある判決に励まされた孤児らは、ハンセン病患者と同様に、国策によって奪われた自らの人間の尊厳の回復を求めて裁判闘争に訴えることを決意した。
 そして、昨年夏、700名余の孤児が国家賠償訴訟の原告となることを決意し、道程は楽ではなかったが、今年の9月23日に原告団の結成を予定するところまでこぎつけた。

7 ところが、弁護士費用敗訴者負担制度が導入された場合、この制度が孤児らの人権回復に大きく立ちふさがることになる。
 孤児らの多くは生活保護受給世帯である。私たち弁護団に対する着手金はおろか当面の活動費用を捻出することさえ大変である。しかも、政府の行為に対する違憲・違法判断を下すことに極めて消極的な現在の裁判所の姿勢から見て、国賠訴訟の勝敗は楽観など決してできない状況である。それゆえ、原告団への参加を見送っている人も少なからずいる。
 これに加えて、日弁連の反対を押し切って弁護士費用敗訴者負担制度が導入されれば、当面の生活を維持するため、泣く泣く人権回復を求めることをあきらめざるを得ない孤児が激増することは明らかである。
 そうなれば、孤児らの願いは、今度は司法によって圧殺され、歴史の闇の中に葬り去られることになる。国民の司法参加をうたう司法制度改革がまさに孤児らを司法から遠ざけようとしているのである。


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