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プロフィールと今までのこと(記憶の中から)
1954年、出雲市大津町に生まれる
子どもの頃の一番の思い出は、まだ、きれいだった斐伊川で春、夏、秋と遊んだこと。
今は、ゴルフ場になっている場所は、昔は、広い野原で子どもたちの遊び場所だった。
夏は、毎日のように川で泳ぐ。時には、子どもが溺れて死ぬこともあり、青ざめて横たわった
遺体を見たとき自然の厳しさが身にしみた。
夏休みの早朝は斐川平野で作られた農作物をリヤカーで引いて売りにきた農家の
おばさんや買い物をする人で通りがにぎわった。
住んでいた町内には、豆腐屋さん、魚屋さん、うどん屋さん、雑貨屋さん、駄菓子屋さんが、歩いて
すぐのところにあり、町は、にぎわっていた。国道ができてから徐々に、店がなくなり、今は町は、
ひっそりとしている。
中学に入学して川で覚えた泳ぎで水泳部に入部するが、やせっぽち(当時)の私にいい記録が
出せるはずもなく市営プールで開かれた大会では、決められた距離を泳ぐことが精一杯だった。
200メートル泳いでゴールに着いたとき、先生が、手を伸ばして引き上げてくださったことを覚えている。
それでも泳ぐことは、ずっと好きだった。
中学校の頃から近所の人に連れられて日曜ごとに教会に通う。
松徳女学院高校に入学してからは、宗教が身近になり、神父さんやシスターなどを
通して宗教を考える機会が多くあった。教会や学校のマリア祭やクリスマスなどで静かに祈ったり、
聖歌を声をあわせて歌うことは、その当時の私には、特別な時間だったような気がする。
ただ、聖書は、私の理解の範囲を超えていて、信者になるほど熱心な気持ちをもつことはなかった。
高校では、合唱部に入部し、歌う楽しさを知る。そのときの指導の江田先生とは、塩冶にきて再会する。
先生の美しい歌声は、今も変わらない。
島根県立女子短大時代は、いろんな地方からきている友人たちと出会う。
結婚をするまでで一番の思い出は、就職してから入った英会話サークル(松江ハーンズクラブ)で
推薦していただき総理府主催の海外派遣事業に参加したこと。
約1ヶ月間かけてエジプト、ケニア、タンザニアに行った。
はじめての海外で降りたところは、インドのボンベイ。
夜中なのに子どもの物乞いがいたことに衝撃を受ける。
アフリカでは、それぞれの国の大学や地域で若者の団体と交流した。
中でも海外協力隊員の家に1人づつ、滞在したことは、貴重な経験だった。
私は、ケニアのナイロビから100キロあまり離れたギルギルという小さな町で活動する飛坂さんの
お宅でお世話になった。
ここで飛坂さんは、貧しさから満足に教育を受けられなかった18歳から25歳ぐらいまでの
女性たちに洋裁を教えていた。学校や寮(と言っても粗末な小屋にベッドが並べられているのみ)での
生徒たちとの交流、鍋を提げて牛乳を買いにいったり、市場に出かけたり、現地の女性宅に泊めて
もらったり。
いろんな体験は、私が1人で行動できるように飛坂さんが、配慮してくれて、実現したものだった。
帰りのバス(スピードメーターなどが壊れていた)には、現地人だけが乗っていて、日本人は私ひとり
だったのでみんなからジロジロ見られるという経験もした。
この派遣事業は、当時の皇太子夫妻の成婚記念事業でもあったので、帰国後、東宮御所へ行き、
旅の報告をする。
夫妻がアフリカの情勢にも精通しておられ驚く。
結婚してからは、5人の子どもに恵まれ、夫の家業を手伝いながら、子育てをする。
少しでも、安心できる食べ物を求めて、出雲すこやか会に入会する。
子どもが小さかった頃は、活動も満足にできず、他の会員に随分助けてもらう。
長男が幼稚園に入る頃、遊びの集団を求めて、塩冶学童クラブの活動に参加する。
ここで、はじめて遅れた島根県の教育行政の現実を思い知らされる。
また、出雲すこやか会で有機農業に取り組む生産者の方々との交流や講演会や学習会から農薬の
怖さを知り、松枯れの農薬の空中散布を考える会に入り、活動を始める。
出雲市に農薬空散の中止を求めるが、聞き入れられることなく現在に至っている。
これがきっかけとなり、1999年、出雲市議会選挙に立候補するが、落選。
さらに、4年後の昨年も挑戦するが、落選。
現在は、できるだけ身近なことを中心にこれまでの活動を続けている。
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