1「五 日本人の健康」のサマリー
この講義に関わる公衆衛生学とは医学の一分野であり、マクロスコーピングに見て人々の健康状態を考える学問である。
まず始めに日本人の人口の傾向について考えてみたい。現在の日本人の人口数は約一億二千五百万人であり、これは世界人口の約2%に及ぶが、今この割合は減少しつつある。その訳は、世界の人口が増加する一方で、日本の人口数は停滞しているからだ。では、何故そうなのか。それは最近の合計特殊出生率をみることで類推できる。これは子供の生める年齢の女性の出生率をそれぞれ調べ、そのデータを元にして女性が生涯で産む子の人数を年度ごとに測る数値である。日本の場合恒久的な人口増加には二・〇八の値が必要なのだが、一九七四年以降はずっとこの数値を下回っているし、この数値は毎年減少しているのである。この為、二〇〇七年以降には人口減少が始まるし、高齢者の人口に占める割合の増大も進んでいくのだ。では何故少子化は進んできたのだろうか。それには幾つか理由があるが、主要なとしては、日本人全般が豊かになったとか、女性の結婚観の変化、晩婚化、それによる出産時期の遅れ等が挙げられる。また、働く女性を助ける育児インフラの未整備も一つの理由である。これは他の理由より問題が明確な分、対処もしやすい。だから早急に対策を始めるべきである。
次に日本人の寿命について考えてみたい。その参考としてまず平均寿命の求め方について述べたいと思う。まずx軸に人口、y軸に年齢をとったグラフである生命表をつくる。そしてそのグラフの0歳時にある数の集合を取り、それに対しある一年度の世代別の死亡率を利用することで右下がりの曲線を描く。そしてx、y軸と曲線に囲まれた面積を前に仮定した人口で割る。するとその年度の平均寿命が求められるのである。つまり、平均寿命を求めるのに重要なのは死亡率の度合という事が解る。だから日本の平均寿命の高さは同時に死亡率の低さも意味しているのである。だが、実はこれは常に日本人が健康であるということとは結びつかないのだ。なぜなら半数以上の日本人は何らかの病気の自覚症状を持ったり、通院をしたりしているからだ。だから、必ずしも日本人が無病息災で長生きするとは言えないのである。
次に日本人の主な死因について考える。それは三大疾患といわれる癌、心疾患(心筋梗塞等)、脳疾患(脳卒中等)である。これらは全体の死因の50%以上を占める。ではこれらの病気の撲滅は更なる寿命の延びにつながるのだろうか。答えはNOである。例えば癌が撲滅されてもせいぜい3年しか寿命は延びない。それは、平均寿命を超えた高年齢になると人は免疫が落ち、その為あらゆる病気に対し弱くなり、軽い病気でも死ぬようになってしまうからなのだ。つまり、平均寿命はすでに限界を迎えつつあるといえる。
次に日本の高齢者の健康について考えてみたい。高齢者に占める不健康の老人の割合は今、せいぜい四分の一であり、残りはまあ健康な老人達である。この訳は、今の老人は主に七十五歳以下の初期老人からなるからだと考えられる。だから、日本人の高齢化が進むとこの割合が悪化する恐れ、つまり介護が必要な人口が増大する事が確実に予想されるのだ。だから、不健康で介護が必要な老人の数が今少ないからといって決して高齢化社会の介護を楽観視してはいけないのである。
次に先進国の中でさえ日本が何故比較的に健康なのかについて幾つかの理由を考えてみたい。確かに前述した通り日本人は少し不健康なところもあることはあるが世界レベルに見るとやはり健康なのだ。その訳は幾つか考えられる。まず、日本人のライフスタイルが素晴らしく良いことがある。例えば食事の栄養バランスは良いし、間食もそれ程しない。また、鮭も飲めない為あまり飲まない。次に、環境衛生の整備がある。日本ではどこでも水道水が飲めるという環境はそれを示す良い例といえる。最後に、治安上、防衛上の安全が基本的に維持されてきたことがある。危険な環境は健康の悪化を起こしやすいが、日本はそれが無かった。こう言う訳で、日本人が健康なのにはちゃんとした理由があるのだ。
最後にこれからの日本に対しての健康についての課題について考えてみたい。まず、ストレスの多い現代社会で発生する心の病への対策の問題である。次に前述した高齢化社会への対策である。そして、日本の国際化による新たな脅威の発生(ドラッグやAIDS等)に対する対策である。このように、日本にはまだまだ多くの課題がある。これらに我々が対処するには何よりもまず一人一人が問題への意識を持つことが大事なのだ。
2生命の科学についての批評など
私はすべての授業に出させてもらったが、生命の科学の授業は総じて興味深いものであった。それには幾つかの理由がある。
まず、講義をする方々は皆それぞれ様々な工夫、例えばOHPによる実験の説明、脳の模型による脳の構造の説明、映像による肝臓移植の動物実験の説明、プリントによる人口の推移の説明、解剖学の書の引用による解剖学の歴史の移り変わりを説明する等、わかりやすい講義をしようという努力をしていたことだ。これらのおかげであまり生物が得意でない私でもある程度は講義を理解することはできた。
次に講義そのものの内容も解り易くしようという努力をしているのが感じられたことだ。例えば感覚では解りにくい現象を日常の一例にあてはめて考えたり、最近の流行の話題(脳死について、等)を持ち出したりすることで講義の本題についてアプローチをする等である。確かに理解するのが難しい内容も講義中には多かったが、このような努力のおかげでなんとなくという程度にはそれを考えるくらいは出来る様になった。
また、先生が生徒に質問をすることでより良い授業への理解を生徒に求めるという双方が関わる授業を目指していた先生もいたなど他にも多くの工夫を所々に垣間見ることができた。
このようにこの授業には多くの良い点があったと私は思える。でも、残念ながら批判されるべき点もまた幾つかあった。
何よりもまず授業を履修しようとしている生徒の人数が抽選で減らす必要があった程多かったのに、実際の授業の出席者は数えられる程しかいないということである。これには二つ大きな問題が含まれているのである。
一つ目は履修が抽選になってしまうことだ。この為、ただ単位取りのためだけに楽な授業としてこの授業を履修する学生が大量に発生する一方、授業に全て出席するつもりで授業を履修したかった学生が抽選落ちして授業を履修できなくなってしまうという問題が発生してしまう。この問題は他の人気授業の場合にも当てはまるが、特にこの授業の場合は代用できる科目が無い為、この授業を落とした履修者のショックは必然的に大きくなってしまうのである。このように、やる気がある人が授業を取れなくなる恐れがあり、その一方で授業に出ない人が大量発生してしまうというアンバランスが生まれてしまう。
二つ目の問題は19号教室の大きさと授業に実際必要な教室の大きさのギャップが非常に大きくなってしまうことで起こる。それはどういうことかというと、四百人入る教室に実際には数十人しかいないのに授業はあたかも数百人いるかのように行われてしまう事なのである。大人数の生徒に対する授業では授業形態は教授の演説のようになり、授業の内容も一方的になってしまい、その為に授業に出席している生徒の多くもまた授業の内容を考える余裕をもてなくなり、結局その人達は寝たりして授業を聴かなくなってしまうのである。これは出席人数の多い授業ではよく起こる現象なのでその場合ならある程度仕方が無いと思う。だがこの授業の場合はそうではない。あれくらいの人数(数十人〜百人。それも聴いていそうなのはその半分くらいである)だったらもう少し双方向の授業をすることが可能なはずだ。でも、実際には大教室で授業が行われている為に教師と生徒の距離がそこでは必然的に離れてしまい、互いに質問をしにくいような環境がつくられてしまっているのだ。実際に竹内教授が学生に質問したときも最初は誰も答えられなかった。
このように授業の人数に関する問題は様々な問題を引き起こすのである。だからこの授業をより良くする為には現場よりもまず、根本にある問題を改善することが必要なのである。これからその方法を幾つか考えてみたい。
まず課題の量を増やしたり、テスト形式したりすることで課題を難しくするという方法がある。この方法は履修の人数を減らすのに非常に有効である。なぜなら慶應大学内では楽な授業はどれかという情報が常に流れており、それにしたがって授業で楽をしたいと思う学生が授業を選ぶ為に楽といわれる授業に多くの履修者が集まるのである。だから、課題を難しくすると、情報が流れ、すぐに来年の履修者人数の減少につながるのである。
次にこの授業と同じ種類のコマ数を増やすという方法がある。これが出来れば、履修者が抽選無しで授業を履修する事が可能になるかもしれない。
このように問題を改善する方法には履修者を減らす方法と授業を増やすという方法がある。これらの方法を実行するには間違い無く多くの手間がかかるが良い授業をする為にはこのような努力は必要だと私は思う。