ある朝のこと。郵便受けを覗いたら。
小さな箱が入っていた。
「……何、これ?」
それは本当に小さくて……大体文庫本くらいの大きさだろうか。厚さは本とは違って、それなりにあったけれど。辞書くらい?
くるりと回して見てみても、差出人のさの字もない。代わりに、宛先は丁寧な、といってもレタリングされた字なんだけど、できっちりとわたしの名前が書かれていた。けれども、包装らしい包装がないもんだから、かえって不気味に映るのはどうしたことか。
よくこれで届いたものだ。……ああいや、直接投函していったのか。
わたしは手で箱を弄びながら、どうしたものかと思案していた。妙におしゃれなレタリング文字で書かれた、「マエリベリー・ハーン様へ」という文字を指でなぞりながら。
◇
「ふーん。それで?」
大学併設の図書館。その外れで、ばったり友人に出会ったので、その朝起きたちょっと奇怪な出来事を、すこし修飾たっぷりに話してみたのだが我が友人はそっけなく一言もらしただけだった。何故だか悔しい。
「それで、って。それだけよ。一体何なのかしらね」
手に持った本のページを捲る。いつになっても紙媒体の書物というものは残り続けている。それは、精神的な文化が尊ばれている今だから、というわけではないと思う。本、というものに、人は何かを感じているのだろう。それは浪漫とか、夢とか、そういうこっ恥ずかしい単語が付いて回るのに違いないとは思うけれど。
「あれ、開けてないんだ? メリーなら何も考えず開けてみると思ったのに」
ぱたん、と音がした。きっと本を閉じたのだ。彼女は本を読むのが早い。それはつまり、頭の回転が速いっていうことなのだろうか。
まあそれはともかく。
「なんだか、その印象は面白くない印象ね。訂正を要求するわ蓮子」
本を読んだままでは、彼女の勢いに負けてしまう。しおりを挟んで、こちらも本を閉じた。
そして彼女――わたしの友人であるところの宇佐見蓮子を見た。蓮子は、今まさに本棚に近寄り、持っている本を収めているところだった。こっちを見もしないで会話する、というのはよくあることだが、さっきの発言も相まってわたしの気分は良くなかった。
「そう? じゃあ何も考えないで開けないのかなー」
よいしょ、なんて言いながら高い段の本を取ろうとしている。こっちの話題に振り向きもしないところをみると、蓮子的には全く興味をそそられない出来事らしい。
はあ、と溜息をついた。肩透かしにもほどがあるっていうものだ。
まあ確かに、ただそれだけの出来事ではあるんだけど。蓮子なら、すこしは面白そうに聞いてくれると思ったのだ。それで、未だに扱いを図りかねているあの箱を、どうすればいいか決められたらいい、と思ったのに。
すこしだけ肩を落としながら、鞄に手を入れて箱を取り出す。
朝のまま、何もしていないその箱は綺麗なままだ。
よく考えれば、自分の名前だけ書かれている箱っていうのもずいぶんヘンな話だ。これを投函した人は、なにを考えていたのだろう。
「お、それが例の箱ね」
ぼんやりと眺めていると、蓮子が近寄ってきた。どうやら、実物を見るのはまた興味の度合いが違うらしい。
「そう。なんかわかる?」
「んー。持たせてもらってもいい?」
「いいわよ。ほら」
箱を手渡す。蓮子はそれを受け取ると、くるくる回したり、ぶんぶん振ってみたり、まるで初めて物をもった赤ん坊みたいな仕種を繰り返した。
「何してるの?」
「ん? いや何となく」
「そ」
特に意味は無かったらしい。まあ蓮子の行動の殆どは、意味の無いもので成り立っているんだけど。だから、何でそんなことをするんだ、っていう突っ込みはお門違いなのだ。
しばらくして、蓮子は気が済んだのか箱をわたしに突き出してきた。もういいよ、の仕種だ。
「どう?」
「ん。どうって言われてもね……結構軽いな、ってくらいかな。ああ、あとは柔らかいものが入ってるっぽいね、振っても音がしなかったし」
「ああ、それを調べてたの」
「いや意図はしてなかったけどね」
箱を受け取りながら、そんな言葉を聴く。ますます何がなんだか、という気分になってくる。
そもそもだ。何が入っているか、というよりも何で投函なんてされていたか、のほうが個人的には気になるのだ。不気味にもほどがあるとおもう。危ないものが入っていたら嫌だし。
「にしてもね。なんでメリーはあけないの? 開けちゃえばすっきりするじゃない」
蓮子の弁ももっともなのだけど。なんだか、それは躊躇われたのだ。その理由ははっきりしないけれど。
「何となく、何となく嫌なのよね。開けないままのほうがいいような気もする。けど開けないといけないような気もして……。結局迷ってるのよ」
「優柔不断ね」
その言葉はすごく的を射ている。わたしは結局決められないだけで、きっとこの箱だってそう大したものじゃないと思う。けれど、何でだか……決められないんだ。
「んー……。ね、メリー。こんな話を知っている?」
蓮子はそういうと、近くにあった椅子を引き、腰掛ける。そしてこちらを見ず、すぐそばの窓に向かっていた。わたしはその光景に引き摺られるように、蓮子の前の席に腰掛けた。
「箱の中に猫が居る。その中の猫は、生きているのか死んでいるのか判らない、っていう。その猫の生死は箱を開けて猫を見た瞬間確定される……そういう話」
蓮子の話は……どこかで聞いたようなものだった。
というか、それって。
「それ、確か、ええっと……昔の何かの論文よね? なんだっけ、手芸フィンガー?」
「違うよメリー。ちょっと惜しい。正しくはシュレディンガー」
あはは、と蓮子は笑う。間違えた身としては、ただ笑われるしかないわけで、恥ずかしいやらなんやら、といった感じ。
「でもそれっておかしくない? 箱の中に居るって……密閉されてたら死ぬでしょ。まあされてなくても苦しいと思うわ。なのに」
「まあまあメリー。話の続きを聞きなさいな」
そういうと蓮子はこちらに向き直る。その顔は笑みで彩られていて……まるで何か、笑いたいものを我慢しているようにも見受けられた。
「つまりね。観測されていないものは考えられるだけの確率が存在するって話。たとえば猫の話なら、生きているか死んでいるか、二つに一つよね? それが箱を開けて見るまでは、同じだけ確立として存在するって言うんだって」
わたしは思わず、手の中の箱を弄んだ。つまりこれに当てはめて、わたしの考えを適用するなら、普通のものと危険なものが入っている確立は半々だってことか。
つまりこういうことだ。
「はあ。つまり蓮子は、良いか悪いかなんて判らないんだから、とりあえず開けてみれば? って言いたいのね?」
「ん。バレちゃあ仕方ないね」
あははー、と大口を開けて笑い出した。ここは図書館だってのに、全く。
「それにしても、そんな小難しいのまで持ち出してくるなんて、どんな風の吹き回しなのかしら」
「ああ、それはね、このまえ古い論文マニアの教授に半ば無理矢理聞かされたからよ。同じ目にあわせてやろうってね」
くっくっく、なんて含み笑いまで。全く、この数分で蓮子ってば、どのくらい笑えば気が済むのかしら。それに対してわたしは、眉を顰めたり、落ち込んだり、しかめっ面になったり、そんなのばかりな気がする。不公平なのではないかしら?
「まあ、殆ど流し聞きだったからうろ覚えで、正しくは無いかもしれないけど。でもまあその箱に関してはそうだと思うよ。開けずに色んな可能性を考えるのもいいけど、スパッと開けちゃったほうがいいんじゃないの? つまらない結論になるかもしれないけど。そのほうがすっきりすると思うし」
そう言うだけ言って、蓮子は席を立った。
背中を向ける。その仕種から、ここから立ち去ろうということなのだろう。そういえば、蓮子はもうすぐ講義があるとか言っていたっけ。
「じゃあねメリー。遅れるから行くわ」
「そうね、いってらっしゃい」
軽く手を振って、蓮子はそこから去っていった。
わたしはというと、手の中の箱を見つめていて。
「ま、そうね。猫だって、どうせなら生きて居たいだろうし」
簡素なテープで留められていた開き口を、今までの鬱憤を晴らすかのように豪快に開いた。
その中には――。
「……リボン? なに、これ……?」
中には猫でもなんでもなく、ただのリボン。色合いとか可愛いものではあったけれど、入っていたのはそれだけだった。
他には何か無いのか、と箱を逆さにして振ってみると……ぱさり、と一枚の紙切れが落ちてくる。
その紙切れには短い文章が書かれていて……。
それを見たわたしは、頭を抱えてしまった。
「やられたわ」
すぐさま今日の日付けを確認すれば、それは確かに真実だった。ああ、全くしてやられた。
全く。この箱に限っては、確立なんて存在してなかったんじゃないか。多分、それは昔の猫の話だって同じだ。開ける側が、見えないものをあーじゃないかこーじゃないかってこねくり回しているだけの話じゃないか、って思う。
恥ずかしいことに、わたしもその罠にかかってしまったというわけだ。
本当に、全くもう、っていう感じ。しょうがないから、このリボンはありがたく使わせてもらうとしよう。わたしは自分の髪を束ねて、きゅっと結んだ。
そして、手鏡を出して自分を見る。薄い紫色のそのリボンは、自分で言うのもなんだが、わたしの金髪に良く映えて……選んだ人間のセンスのよさを表しているようだった。
「ふん、やるじゃない」
悔し紛れに呟く。いまのわたしは敗北者なのだから、そういう発言しか出来ない。
本当に悔しいのだ。悔しくてたまらないのだ。
――けれど。手鏡の中のわたしは、何故か笑っていた。
◇
ああ。ちなみに。
その紙切れの文章は、こうである。
『親愛なる友人メリーへ。お誕生日おめでとう。
ふふふ、これを見て迷う貴女の姿が目に浮かぶようだわ!
まあ、これに懲りずにこれからもよろしくね。
――宇佐見蓮子』
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