諸賢はどのように作曲をしているであろうか? 作曲をしたことがないという人は、作曲家がどのようにして作曲をしていると考えているであろうか? ピアノや各々の楽器に向かって適当に指の動く方向、気の向くままに音を出してみて、たまたま良い旋律が鳴ったらそれを譜面に書き込むか? パソコンに適当に音符を入れてみて、そこから想像を膨らますか? 頭の中で鳴った音を直接譜面に書き込むか? これらはいずれも違った方法である。そして、どれも最初の動機作りのことをさしたつもりだ。だが、ある程度音楽が出来てみるとそこからの作業はその方法こそ違え思考は同じと心得る。最初の旋律が頭にはいれば、ほとんどの人間はその次のメロディを考え出せる。そして、曲が大きくなればなるほど構成というものに神経を行き渡らせねばならない。小さい曲ならば誰でも書ける。つまらない曲も誰でも書ける。作曲家とは良い曲、大曲を作るために勉強をした者をさすのである。
一昔前までは感性は極めて重要だった。否、今でも重要である。つまらない前置きは無しにして、余が何をここに言いたいかを述べると、生まれてこの方一度も音を聞いたことのない聴覚障害者でもコンクールに入賞するような曲を書けると言うことだ。右にどのように曲を作るかの種類を上げたのは曲を作る方法の多様性を知らしめたかったからである。
またも結論から先に言う。コンクールに入選する曲はつまらない曲である。嘘だと思ったら作曲賞の本選会に足を運んでみられるがよい。譜面審査に通過した数曲が演奏されるから。何故つまらない曲が選ばれるかというと、まず現代音楽の風潮が頼るものを構成にしてしまったからである。今まで調性音楽しか聴いたことのない人類が無調の旋律を理解出来るはずがないからである。それでもリズムは理解出来る。しかし、リズムは単純だからこそ理解出来るのに、バルトークあたりで出尽くした嫌いがある。故に複雑化したリズムはもはやリズムではなくなった。
和声にルールがあるように現代音楽にもルールがある。和声はそのルールと若干の経験があれば、全く違う音楽を聴きながらでも美しいハーモニーを作ることが出来る。要するにルール通りやれば、例の聴覚障害者でも美しい和音を作れるのだ。もちろん彼にはそれがどう美しいのか確かめるすべはないし、自分が何のために音符というものを書いたのかも理解出来ないはずである。それでも、その譜面を鳴らせば美しい。
現代音楽の作曲もこれと全く同じ論理である。旋律ならば旋律学の本があるし、構成には楽式論とか色々ある。ご丁寧に現代音楽のハーモニーの本まである。こうしたものを研究して曲を書けばいわゆる立派な曲が書けることは請け合いだ。人を感動させることは無理だが。万が一そうして出来た曲が人々に感動を与えたならば、それはまぐれであり、作った本人もそれを確信している。
音を聞かずリズムを刻まず、右にある土砂を左に移すごとく不毛なこの作曲は作曲家にとって無意味であろうか? 音楽にとっては完全なるナンセンスだ。ゴミである。だが、作曲の勉強には非常に役立つのではあるまいか? 何となれば音に誤魔化されることなく、楽曲の構造を考えられるからだ。それに統一が取れる。無理な演奏をさせることがない。楽器の研究にも繋がる。
こうして出来た曲には何ら喜びを見いだせないであろうが、(もし見いだせるようならば作曲家をやめた方がよい!)一度はやってみることを勧める。その際、何か音楽を聴きながらやると良いかもしれない。楽譜から音が漏れてしまうから。
2003/10/20
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