正倉院に金銀平文琴という琴がある。琴とは君子の嗜みとされるあれである。孔子も弾いてたあれである。このことは金銀で装飾されているいわゆる装飾楽器だ。
 研究によると一度絃がかけられた後は見受けられるが、演奏された痕跡などはないという。そのことから無絃の琴の例えを出して東洋的だという。

 無絃琴とは詩人の陶淵明が琴に弦を張らず、ただ持って眺めていたことから言う。菜根譚には「無絃の琴を聴き、無字の書を読む」という。ようするに無窮の世界を言っているのだ。

 しかし、これは東洋だけのことではない。我らがヴァイオリンもまた然り。世の中にはちょっとしか弾けないのに高価なヴァイオリンと弓を揃える者が数多いる。全く弾けずとも高価なヴァイオリンを収集しておるものもいる。佐々木庸一著書の「魔のバイオリン」に出てくる工場主などその最たるものだ。

 彼らはその高価な楽器が自分の能力に見合わぬことなど百も承知なのだ。だが、そうするのは実際発音する以上に想像上の音色を楽しむからなのである。だから楽器は美しいにこしたことはないのである。だから自分の楽器に対する自己欺瞞が許されるのである。

 ヴァイオリンは見て楽しむものでもあるという。しかし、我々がヴァイオリンを見ているとき、必ずその音を聞いているのだ。穿った言い方をすると、我々が「これはヴァイオリンである」と認知するためには過去の様々な蓄積された経験・情報を照合して認知しているのである。だから、ちょっとスキルのある者ならば、いい加減な作りの安物を見れば、弾かずともその音の美しくないことを知ることができる。
 おもしろい実験をしてみよう。諸賢はヴァイオリンの音を想像してみてほしい。なるべく曲ではないく音をだ。次にヴァイオリンを手に持って眺め同じことをしてみてほしい。

 無絃の琴は洋の東西を問わないのである。

 序でといっては何だが、我々がなぜヴァイオリンを弾くのか考察したい。いくら無絃の琴のなかに無窮の音楽があるとはいえ、弓と楽器を手にすれば弾きたくなるのは避けられない。別にコンクールで一等賞を取るわけでもない。ワンステージで何百万稼ぐわけではない。それどころか、五月蠅いと嫌がられ、録音して聴けばその無惨さに唖然とする。修行を重ねればメニューヒンや海野義雄のようになれるのか? それなのに我々は何故に弾くのであろうか。管理人は率直にそれが「道」なのではないかと考える。人間の性である。

 歩き疲れれば座って休み、喉が渇けば水を飲むように、煩雑なるが心を美音に耳を傾け沈めるである。そうだとすると「琴の音楽はその曲が終わった後に楽しむ」という言葉の意味がわかる。元々君子の学問とは己を充実させ、その余力で社会奉仕をするというものだ。間違えても人に誇るための学問ではない。修己治人。あくまで修己が先である。

 学問が教養がなくては人間陶冶はままならない。至人と言われるような者で音楽が嫌いな人間は未だお目にかかったことがない。孔子は琴の達人。アインシュタインもムッソリーニもヴァイオリンを嗜む。ヒトラーは画家だ。嘘か誠かニーベルングの指輪全曲を口笛でそらで吹けたという。

 礼とは心の内を言動にして表すことである。故に心にないことを礼の様式に則った言動を以て行うとそれは虚礼になる。音楽をやる者は心からの喜びを以てそれを音にすべきではないだろうか。

2004/08/08


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