現代音楽と現在の音楽

 現代音楽… 非常に明快な言葉である。だが、これの存在の意義やその示唆するところは限りなく深い。
 現代音楽… もちろん現代に作られた音楽ということなのだが、現在作られた音楽がすべて現代音楽かといえばそうではないのだ。いや、現代作られている音楽の殆どが現代音楽ではないといえる。

 では、どのようなものを現代音楽というのであろうか。よく一般に言われているのは、現代という社会や文化を反映した芸術、であるとのこと。要するに、バッハみたいな曲を新たに書いたところでそれは現代音楽とは言わない。過去の模倣、再現なのである。

 はっきり言ってしまえば、現代音楽の定義は曖昧で、ロマン派後期っぽくても、ごくまれに現代音楽といわれたりもする。だが、ごくまれにだ。誰もが現代音楽と認める作品は、やはり、意味不明、分けの分からない作品だろう。ピピー! ガ! ヒュルルルル〜 ポ コ ポ コ ポ… ドッシャーン!! といったような曲に心当たりがあると思う。現代音楽作曲家の湯浅譲二などは「未聴感」なる言葉を作り出し、評価の上で重要視している。サボテンの電磁波で曲を作るとか、ピアノを破壊するだけ、とかいう音楽があり、実験音楽と呼ぶ者がいるがこの定義は危険だ。思考や理念の上からも実験音楽は現代音楽に間違いはない。分けが分からないものと一緒にされるのを嫌った現代音楽作曲家が言い始めたことだからである。しかし、一般大衆から見れば現代音楽と実験音楽の差異は認められぬであろう。

 しかし、現代音楽がすべてだめな音楽だと考えるのは早計である。ベートーベンの曲、全部が全部名曲ではないのと同じである。もはや、好き嫌いの範疇であり、なかには現代音楽ばかり聴く者もいる。

 前置きが長くなってしまったが、ここで何が言いたいのかというと、現代音楽はどうしてここまで人気がないのか、ということである。人気がないとは、ジャズやPOPS、同じ現在に作られた音楽に比べてのことである。1999年まででB'zのCD総売上は7000万枚である。世界中の現代音楽CDが束になってかかっても太刀打ちできない。諸賢らの周りに現代音楽を好んで聴く者がどれほど居られようか。

 管理人の師は「聴衆と作曲家との間の認識の相違が大きくなった」と仰っていたが、これはどうも違うと思う。なぜなら、現代音楽を書かない作曲家の方が多いからである。しかし、このような者達も、そのうちには現代音楽を書くようになる可能性が高い。初めから現代音楽を書きたくて作曲を始める人間に未だお目にかかったことがない。

 話を元に戻して、どうすればここまでの人気の差を説明できるか、ということであるが、これはもうジャンルが違うとしか言えない。それも、ロックとイージーリスニングの違いなどというものではない。眼鏡と食パンくらい違う。同じ音楽でありながら全く違うものではなかろうか。それは殆どの聴衆を共用しないことからもいえることだろう。

 現代音楽の作曲家はその他のジャンルの音楽を書こうと思えばいくらでも書ける。ヒットするしないは別として、それらしいものがちゃんと書けるのだ。

 ではなぜ、一般大衆に受け入れられないリズムやハーモニー、メロディーを書くのか。彼らは構造を目指しているのだ。音楽の三要素よりもさらに音楽たらしめているものは構造に他ならない。クラッシック界が脈々と受け継いできたのは、この「構造」なのである。美しいメロディ・ハーモニーを捨てて構造に重点を置いたのだ。この一点でも他の現在の音楽とは違う。後は突飛と偶然性だ。しかし、この二つは構造に比べると割合は低いと思う。突飛は突飛というだけあって目立ってはいるが。

 音楽を牛乳パックに喩える。すると、他のジャンル、POPSやジャズが、いかにおいしい牛乳を入れるかを思案するのに対し、現代音楽は牛乳パックでロボットを作るくらいの基本理念の違いがあると思っていい。すると同じ音楽とはいえここまで差が生まれるのも納得できるではないか。
 どちらの方が優れているということではない。方向性が違うだけだ。最近の現代音楽作曲家で牛乳パックに米のとぎ汁などを入れている者を見受けるが、どうせなら未来都市くらいを作ってもらいたいものである。

2004/8/28


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