非演奏の芸術 意義

 昔、とある作曲の教授が「曲ってもんは演奏されなきゃ意味がないんだよ。音にならなければ楽譜なんかはただの紙切れだ」と言っていた。

 余はそのころ作曲一年生であったが、このことに非道く反発を覚えた。作曲家が精魂込めて書いた楽譜が、ただの紙切れなのであろうか? そのようなことは絶対にないと心得る。例えば、バッハの無伴奏Vnソナタ、あの名作が生み出されたことに意味はないのか。あの偉大な作品が人の目に触れないで何処かの葛籠の中で眠っていたら、それは価値がないことなのであろうか? それはただの紙切れなのか? 否、余はそれが生み出された時点ですでに価値があると心得る。確かに、その作品の存在を知らない我々にとって、その作品は価値がないかもしれない。価値があるもないも存在すら知らないのだから。だが、果たして、その何かの下に埋まっている芸術自体が無価値と言うことになるのであろうか?

 例え話ばかりで恐縮だがもう一つ。ある人が誰にも知られぬ善行をしたとする。だが、それは間が悪く誰の役にも立たなかった。例えば、突然雨が降ったので、お父さんに傘を持っていってあげようと駅に行ったら、先にお母さんが傘を持って待っていた、などということがあるとする。お母さんがいるならば自分は用はない。その子は誰にも知られずに帰る。言わない。結局、彼の善行、思いやりは誰にも知られることはなかった。

 さて、私たちはこの彼の人知れずした行為を、無価値なもの、無意味なもの、と言い切ることができるであろうか。西欧合理主義者ならば「無価値だ! なぜならこの子は自分が行った誉められるべき行為を報告して、相手に認められる形にすることをしなかったからだ」と言うかもしれない。だが、逆に管理人などは、言わざるところになお一層の美、を感じてしまうのだ。彼の行為が、無価値、無意味、などとはとうてい思えない。

 芸術作品にしても然り。そこには生み出されたという事実と、作り上げる魂が確かにあるのだ。その価値はその作品が地上から消滅してしまうまでなくならない。真の芸術にはそのくらいのオーラはある。

 実際、バッハの無伴奏Vnソナタはヨアキムが取り上げるまではその価値は認められていない。モーツアルトの最後のいくつかの交響曲は誰に頼まれるでもなく書き、そして、死ぬまで演奏されなかった。だが、その作品には価値があった。後世において認められたのは偶然に過ぎないのだ。

 芸術は存在自体に価値がある。演奏されるとか認められるとかは別のプロセスだ。認められる=価値がある、などとするのは西欧合理主義だけで十分である。本質を見ていない。故に、余は間違えても「演奏されなければただの紙切れ」などとは言えない。ヴァイオリンだって「弾かれなければただの木塊」などということはあり得ないのだ。

                                   2004/9/14

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