手書き派に送る讃辞


 「書画同一」という言葉がある。東洋思想なのだが、書、すなわち「文字」と、絵画は同じものであるという意味だ。よく「仁義」とか「和而不同」はたまた「聖人君子」などと毛筆で大きく書かれた額が飾ってある。こういうものを「書」という。これが絵画と同一のものだという。確かにこれらの言葉は、言葉の意味そのものよりも、文字自体に「味」を求めてかかれている。活字で「仁義」などと書いた紙を貼っておいても、面白くも可笑しくもない。その意味から言っても、書は絵画に通じると言えよう。例えば王義之の快雪時晴帖、孔侍中帖、名筆であり国宝であるが、その内容はただの手紙であり、文章に価値はない。我々はその美しい筆致を愛でるのである。
 冷静に考えてみれば「書画同一」とは当たり前のことなのである。元来漢字は象形文字である。字そのものが絵なのである。現在、絵画は美術であると万人の納得するところ。だがしかし、その絵画も元を正せば、意思伝達の手段であったのである。インディアンの手紙などはその好例だ。次第に伝達手段としての「絵」は文字に取って代わられるようになったが、現在でも「挿し絵」などの形で残っている。
 さて、本題に入る。楽譜は芸術たり得ないのであろうか。余は音楽でなく楽譜それ自体が芸術になりうると信じている。なぜならば、美しい筆致で書かれた楽譜は文句なく美しいからである。どんな音楽か分からぬ前に、目に入って来たものだけで美しいと感じてしまう。たいていの手書きの楽譜は、美しい、まで行かなくても、言い知れぬ味わいがある。絶対に印刷譜では出すことの出来ない「味」があるのだ。
 最近はパソコンが普及してきたせいか、楽譜をパソコンで書いてしまう者が多い。かくいう余もその一人である。パソコンで書けば、それこそ売っている楽譜と寸分違わぬきれいな楽譜が出来る。だが、どうも有り難みがないのだ。忙しいのでほとんどパソコンで書いているが、それでも超現代曲でパソコンでは表現出来ないときに手書きにする。音符と自作の記号が半々位の意味不明な曲なのだが、手で書く音符には味がある。良く、パソコンを使って作曲することの弊害を議論するのだが、余はやはり第一に、楽譜に味がないことを挙げる。コピーペースト云々等というのは作曲者のすることであって、これをパソコンのせいにするのはお門違いもいいところだ。
 この前、教授の家に遊びに行ったら、片付けをしたらしく、昔の楽譜がどっさり出てきたとのことだった。見せていただいたが、どれも日付は一九六〇年代だ。教授は今でこそパソコンで書くが、当時は写譜ペンを使っておられた。それも、インキ壺からいちいちつけて書くタイプのものだから掠れやらがあり、思わず「美」を感じてしまった。
「やはり、手書きはいいですね。実に美しい。定規は使われなかったのですね」
 実際は縦線は定規で引かれていた。
「ええ、定規を使いすぎると楽譜が死ぬるんです。だから、縦線しか使いません」
 とのことだ。全くその通り。我々が提出用に一生懸命綺麗に書いた楽譜より、スケッチのように走り書きしたものの方が、人々には真剣に読まれるのだ。
 楽譜は音楽の情報が入っているだけのもの、読みやすいに越したことはない、と言う者がいるが、余は違うと思う。楽譜には人の思いが宿るのだ。楽曲は心の声、楽譜は心の鏡である。元代の文人画家、黄公望はこう言っている。
「一本の木を描くにも文人の気質がなくてはならない。表現が過ぎればそれはただの職人の絵に過ぎない」
 この職人とは、まさにパソコンのことではないか。職人は芸術家の書いた楽譜を正確に写すが、その魂まで移し書くことは出来ない。だから、プロの演奏家で大曲に挑む前、必ず直筆譜を入手して検証する者が多数いるのだ。楽譜は音楽の情報が入っているだけのもの、読みやすいに越したことはない、などとは思い上がりも甚だしい言である。直筆譜には楽譜というルールを超えて迸る感情が記されているのだ。八分音符で一点ハ音からドレミファソ、と書かれいる楽譜がある。コンピューターの印刷譜ならどれも同じだ。だが、あらゆる曲の、ドレミファソには、すべての作曲者の異なった感情から生まれたドレミファソなのである。楽譜のルールに則って書かれてしまえば、全く同じ外観だが、その裏側には千差万別の思想があることを忘れてはいけない。それを少しでも感じ取ることの出来るものが直筆譜なのである。
 迸る感情とその作者の持つ人品こそが人を感動させる芸術と相成るのである。これは、意味をなさぬ書と、音にならざる楽譜、両方に言えることである。
 教授は直筆譜の話で、面白くもあり、非常に興味深い話を教えてくれた。教授はまだ幼少の時分に、学校から展覧会に出す絵を制作するように命ぜられた。教授はユニークな人なので、絵を描かず、ホーマンを写譜して提出した。すると、銀賞を取ってしまったのだ。さらに、審査官からは、大変優れているが、こういう表現は前代未聞なので銀賞に止めた、とのコメントも頂いたらしい。音楽家は楽譜を見たときに、経験と先入観がじゃまをして、素直な美を感じ取れなくなっている。この審査官のような純粋無垢な目で楽譜を見たいものである。
 しかし、音楽とは素晴らしい芸術だ。目で見て楽しみ、さらに、その楽譜を再生して楽しむことが出来る。一挙両得である。このような芸術が他にあるだろうか。身近にあるではないか。まさにヴァイオリンがそうである。見て楽しみ、弾いて楽しむことが出来る。ヴァイオリン製作において、音が良ければそれでよい、などという考えは侮蔑に値する。これからは作曲家もただ曲が良ければよいなどという考えは改むるべきであろう。作曲家も是非、ストラディヴァリウスを目標にしたいものである。

                               2004/10/1


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