作曲とは強弁である
管理人は今日ほど不毛にして疲弊した日を知らない。
ある作曲家達三人(音大教授クラス)と話してきた。憚りながら、管理人も
作曲家の端くれであるので、控えめにだが意見を言ってきた。余が書いた論文
について談話してきたのであるが、論文した主張の中の、二つの事柄について
議論することとなった。一つは「最も美しい音はただそれだけの音」というこ
と。二つ目は「音楽には音楽以外必要ない」ということ。
このページの読者諸賢は当然のことながら管理人が最も愛している楽器がヴ
ァイオリンであり、至高の編成は無伴奏ヴァイオリンだということをご存じの
ことと思う。すなわち、
「最も美しい音はただそれだけの音」というのはただの一音のみの響きであり、
芸術性が最も高まるのは、一人が全神経を注いで、一人だけで完成させる楽曲な
のだ。二人三人と増える時点で芸術性は薄くなる。Vnをパーツごとに分担して
作ると良いものが出来ないのと同じように、Vnも音楽も一人が最初から最後ま
で、全体を見ましてバランスを保って作り上げて、初めて真の芸術になるのであ
る、ようなことを言ったらものすごい反感を買った。「じゃ、なんでオーケスト
ラ書いたの?(余はオケを見せていた)」などという、可愛らしい質問も出たが
それは置いておいて。
「そういう風に決めつけるのは押しつけだ」
と仰る人がいた。
「でも、余はそう思っているのだから、例えそれを受け入れられない人がいたと
しても良いではないですか」
と返すと、
「作曲家は万人に喜ばれるものを書くべきだ」
と仰る。
「そうですか? 百人に嫌われても、一人にでも受け入れられたら良いと思うの
ですが」
「でも、理想は万人に受け入れられることだろ?」
彼は本気だ。
「それは、原理的に不可能ですよ」
ということで、みんな納得したのだが“万人に喜ばれるものを書く”という、
理想というか思想は面白いと思う。こうやって話してると自分が思いもよらなか
った意見が出て良い。万人に喜ばれるとは、厳密な意味で、永遠に万人が全く同
一にその曲を捉えなければいけない、ということになる。音楽とは常に聴く側の
人間が勝手に聴くものなのだ。同じ音楽でも、二人として全く同じに受け入れる
ということはあり得ない。故に、原理的に不可能なのだが、もし仮に(世界でそ
ういうことはただの一度も起きたことはないが)万人が全く同じ感慨を抱いたと
仮定する。これは、ベートーベンでもモーツアルトでもバッハでも起きえなかっ
た現象である。とすると、過去の音楽を如何に学ぼうとも、それは役に立たない。
これはまさに超越音楽なのだ。音楽と言うより魔法だ。面白い野望ではある。も
し、今の世の中でこの“理想”を実現する手があるとしたら、一人を除いて皆殺
しにするしかない。そして、その一人が“良い”と感じた瞬間に殺す。人間の気
持ちは時間によって変化するからだ。そうすると、計測する手段が跡切れたとい
うことで、理想は一応実現できることになる。やはり、音楽とは色々な考え方が
あって、色々な音楽があるのが良いのだろう。今のところ彼の“理想”は悪夢で
しかない。
で、次が管理人の理想“音楽には音楽以外必要ない”というものだ。どういう
ものかもっと詳しく言うと、音楽を表現するのにその音楽以外必要なく、あらゆ
る外的干渉を許さないということだ。具体的には、楽曲解説などもってのほかで、
題名や、その曲に込められた思いなども情報として聴衆にあたえてはいけない。
音楽は音楽のみで勝負する、というものである。なぜかと言えば、言語表現やそ
の他諸々の要因で、その音楽の良さを表現できてしまうのであれば、もうそれは
音楽である必要性がないからである。だが、これも実現不能の理想にすぎない。
なぜなら、作曲者や題名を如何に伏せたところで、今度はその“伏せた”という
現象が聴衆にある指標を授けてしまっているのである。もっと言えば、聴衆の心
の状況がそれぞれ違うのであるから、同じ音楽が与える影響も、その心の状況か
ら判断されるものにしかすぎないのだ。状況によって全く違う効果をもたらして
しまう。要するに、さっきの彼の理想を否定したのと全く同じ原理で、余の理想
も否定されてしまったわけだ。一体、音楽とはどこまで説明することが許される
のか、というのが新たな命題となってしまった。これについては今後詳しく検証
したい。
四人の中でもっとも革新的なさっきの彼が「形式などというものにとらわれて
曲を書くのは古い」と言い出した。彼はとにかく新しい物好きで、既成を親の敵
のように思っている。などと言いつつも、構成にかなり力を入れて作品をつくる
ので、一体形式の何を否定しているのか実は謎だったりもする。みんな一度は形
式をわざと外そうとするのだが、無形式自体がすでに“形式”になってしまった
のでやりようがない。だから、最近は今まである形式をマイナーチェンジさせて
新しさを出そうとする人が多いような気がする。“既成のものが駄目”という人
間は多いが、この既成の範囲の曖昧なことと言ったら、古典派以上なら良し、
無調でなくては駄目、形式があってはいけない、などと好き勝手な状態だ。とど
のつまり、自分が新しいと思ったものならば良いらしい。既成でない新発明の楽
器を使おうとも、音というものは既成だ。音という既成物を使用するならば、も
はや妥協点は好き勝手にするしかない。勝ったものが勝ちなのだ、という“音楽
=株”理論は次回書く!
最後に究極の質問をされた。
「君はなんで作曲をやっているんだね?」
これに答えられる人はいないだろう。未だかつて明確な答えを出した人もいな
い。書きたいから書く、以外答えようがないのだ。どんな理由をこしらえたとこ
ろで、その理由を突き詰めていけば人間は“そうしたいからそうする”という結
論に達するのだ。“そうしたいからそうする”という主張に、“なぜそうしたいの
か?”という疑問は成立しない。なぜ作曲するのか? という質問は取りも直さ
ず、なぜ生きているのか? という質問と同義なのだ。なぜ山に登るのか? と
聞かれて、そこに山があるからだ、と回答したのは、能動的に言わないで受動的
に言ったものである。気の利いた回答だが、意義が同じなのが分かるであろう。
もし、作曲をする明確な理由が分かったならば、作曲をやめるだろう。だが、こ
れも原理的に不可能な気がする。例えば、暑さと同時に寒さを知ろうとするよう
なものである。寒さを知った時、暑さは消えてしまうし、暑さを知れば寒さは消
えてしまう。お菓子も同じだ。お菓子の味や食感、喉越しを知った時点でお菓子
は消えてしまっているのだ。作曲をする理由もこれらと同じように原理的に不可
知な気がする。
結論。今日は不毛にして疲弊した日ではあったが、たまには頭を働かせるのも
悪くないような気がした。どうせ、これからもこれらの答えを探すために考え続
けることは必定だ。それが、不毛であるとしても、そうしたいと思う限り、そう
せざるを得ないのである。いつかこの堂々巡りが目的地に行き着くことを願って。
05/02/07