1974年4月25日にポルトガルのリスボンでカーネーション革命が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制は崩壊 して左派政権が誕生した。以降、新たに成立したポルトガルの革命政権と各植民地の独立勢力との間で独立交渉が開始され、ポルトガル 領ギニアでは既存のPAIGCの支配をポルトガルが承認する形で交渉が進み、同年9月10日にポルトガル政府により正式に独立が承認された。
独立後、当初PAIGCはカーボベルデとの統一国家建設を目指していたが、初代大統領ルイス・カブラルがカーボベルデ系であったことに象 徴されるようにギニアビサウではカーボベルデ系が高い地位に就いていたため、ギニアビサウ国内にてカーボベルデ系への反感が高まり、 1980年にジョアン・ヴィエイラ首相がルイス・カブラル大統領を軍事クーデターで失脚させたため、以降両国で統一が達成されることはなくなった。
ヴィエイラのクーデター後、革命評議会が全権を掌握し、ヴィエイラは革命評議会議長(国家元首に相当)に就任した。 1984年には憲法改正によって革命評議会に代わり国家評議会が設置され、同じくヴィエイラが議長に就任した。建国当初の親東側路線はヴィエイラ政権に より親米路線に変更されたが、国内の治安は悪く、軍に対する統制も不十分なものに留まり、クーデター計画が頻発した。
1990年代において、ギニアビサウは複数政党民主主義へと移行していった。政党の結成が1991年に解禁され、1994年に大統領選挙が行われた。 7月3日に実施された第1回の投票で、ヴィエイラは他の7人の候補を下して46.20%を得票したが、過半数に満たなかったため8月7日に第2回投票が実施された。 ヴィエイラは、52.02%を得票して、47.98%を得票した対立候補である、 元哲学の講師で社会革新党の代表であるクンバ・ヤラ候補を 下した。国際選挙監視団は、両方の投票とも公正なものと評価し、ヴィエイラは1994年9月29日にギニアビサウで初めての民主的選挙によって選ばれた 大統領となった。
1998年のクーデター未遂事件の後、ギニアビサウはヴィエイラ派の軍と反政府のリーダーであるアンスマネ・マネ派の軍との間でギニア ビサウ内戦が勃発した。内戦によって避難民30万人がビサウに流入するなど社会、経済は混乱し、1999年5月7日に反政府軍がヴィエイ ラ政権を退陣させた。ヴィエイラはポルトガル大使館へ避難し、7月にポルトガルへと亡命した。
ヴィエイラの亡命後、1999年11月28日の大統領選挙によって2000年にはクンバ・ヤラが大統領に就任した。しかし、実態はアンスマネ・マ ネが実権を握る軍事政権であった。まもなくヤラ大統領とマネは対立し、2001年11月30日にマネが暗殺される形でこの対立は決着したが、経済の低迷や政 情不安は続き、2003年9月14日にヴェリッシモ・コレイア・セアブラ将軍の無血クーデターでヤラ大統領が辞任・逮捕された。後任としてエンリケ・ ロザが臨時大統領に就任し、2004年にはセアブラ将軍が死亡したものの、議会選挙によりPAIGCが勝利。カルロス・ゴメス ・ジュニオル首相による連立政権が樹立された。
2005年の大統領選挙では亡命先のポルトガルから帰国した無所属のヴィエイラが勝利し、大統領に就任した。ヴィエイラの就任後、 カルロス・ゴメス・ジュニオル首相が更迭され、アリスティデス・ゴメスが首相となった。2008年11月の議会選挙では多数派与党が勝利したが、選挙から一週 間後には軍の不満分子による大統領官邸襲撃事件が発生した。この事件では反乱軍は撃退され、クーデターは未遂に終わったが、こ の事件によって大統領警護隊が組織された。
2009年1月、ナワイ参謀長が大統領警護隊の解散を命じた矢先に、ナワイ参謀長の暗殺未遂事件が起きた。3月1日には、首都 ビサウの軍司令部が爆撃を受け、大統領と対立していたナワイ参謀長が爆殺された。翌3月 2日、反乱軍兵士が大統領自宅を襲撃し、ヴィエイラ大統領を暗殺した。政府軍は、国営ラジオで反乱軍が「孤立した勢力」であり、 鎮圧寸前であると発表し、また、軍が憲法を守ることも保障した。ゴメス首相とルイス・サンカ国家安全保障顧問は、大統領が 死亡したことを確認したが、詳細は発表しなかった。首都には軍部隊が配置され、民間ラジオ局を閉鎖した。 BBCによると軍本部の建物が爆発で一部破壊されたと報じた。大統領代行には議会のライムンド・ペレイラ議長が就任 している。2009年の大統領選では、マラム・バカイ・サニャ元国民議会議長が大統領に選出された。
2010年4月1日には、ゴメス首相が一時兵士らに拘束される事態となったが、首相は数時間後に解放された。
2012年4月12日、クーデターが起きた。
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