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ブルンジ


  16世紀にブルンジにムワミ国が建国された。 ブルンジは隣国ルワンダ・ムワミ国と競争しながら拡大していったと言われ、 そして、1850年まで国を支配した、ンタレ四世の下で、ブルンジ・ムワミ国の領土は最も大きくなった。

  1856年ごろから、ヨーロッパの探検家と宣教師がブルンジを訪問するようになった。その後、隣国ルワンダは ドイツ帝国の申し受けを受け入れることを決断し、ドイツ領東アフリカの一部となった。しかし、時のブルンジ・ムワミのムウェジ四世はドイツの申 し入れを拒否。ヨーロッパ製衣類へのボイコット、そしてヨーロッパ人の圧力への抵抗を決定した。 ムウェジの決定に対しドイツ帝国は軍を用いてブルンジを攻撃、大きな損害を与えることに成功した。 しかし、ムワミの権力を破壊するまでには至らなかった。だがドイツ軍の侵攻に対して、国内ではムワミ国への不満が高まっており、内乱が発生した。 ブルンジ・ムワミ国はドイツに植民地とされた。

  ヨーロッパ人はブルンジに疾病を持ち込み、人間、動物に壊滅的な被 害を与えた。また、飢饉も発生し、ブルンジ全域において被害は甚大だった。 1905年から1914年にかけて、平原西部の人口の半分が死亡したとされる。

  1916年、欧州大戦のアフリカ戦線において、ベルギー領コンゴのベルギー軍が4月18日、参戦を決定。 ドイツ領であるブルンジは戦場になり、同年6月頃にはブルンジはベルギーに制圧された。1918年に 欧州大戦は集結し、ヴェルサイユ条約によってドイツは植民地を手放すこととなった。 ブルンジはルワンダと共に、ルアンダ=ウルンディとして、ベルギー領となった。

  第二次世界大戦の後は、誕生した国際連合によって、同国はベルギーの国連信託統治領となった。 1948年、ベルギーは政党を作ることを許し、ブルンジには王子ルワガソレ率いる民族進歩連合 、ベルギーが支援するキリスト教民主党が誕生した。1961年に行われたルワンダ議会選挙において民族進歩連合が勝利した。 しかし同年、ルワガソレを含む首相ら3人は暗殺されてしまった。

  1962年7月1日、ブルンジはブルンジ・ムワミ国として独立を果たした。 1915年からムワミの位置にあったムワンブツァ4世が初代元首を務め、立憲君主制を確立させた。 しかし、一方で少数民族であるツチがフツを抑えて実権を握っており、フツの不満は高まっていた。 1965年には、議会の選挙にフツが出馬することを、君主側が拒否した。

  1966年、ムワンブツァは自らの息子、ンタレ五世によって退位を強いられた。 ンタレ五世はムワミとして即位するも、大臣らのクーデターにより、彼も また元首を追放された。彼は西ドイツに亡命した。 代わって大統領に就任したのはミシェル・ミコンベロだった。 彼は同年、ムワミ制の廃止を宣言し、共和国宣言を行った。

  1972年、少数民族のツチ族による支配に不満をもつフツ族の反乱で、1万人のツチ族を殺害されると、その報復として 同年、4月から10月にかけてツチ族系の軍隊がフツ族10万人を殺害するという事件が発生した。

  1976年11月1日、ミコンベロの遠戚にあたるジャン=バティスト・バガザ中佐がクーデターを起こし、ミコンベロは失脚した。 同年11月2日にはバガザ中佐が大統領に就任した。パガザ大統領は人頭税を廃止し、コーヒー生産を拡大させて農民の所得の向上に寄与した。 ブルンジでは殖民地下時代の影響でキリスト教信者が多数を占めていた。パガザ大統領は、政教分離、世俗国家の建設を謳った。 1981年に憲法が改正されて世俗的共和国が記載された。また、ラジオでのミサ(典礼)の放送を禁じた。 また、欧州のキリスト布教者は国外追放、神学校は国有化された。大学や病院などの世俗的な機関に勤務していた宗教者は職場から外した。

  1986年6月、平日に教会でのミサ(典礼)を禁じる命令を下した。

  1987年9月3日、パガザ大統領が仏語圏諸国会議のためカナダに訪れて、留守にしていたこの日、 建国以来3度目のクーデターが発生し、同日午後、パガザ大統領の解任メッセージがラジオから流された。軍の ブヨヤ参謀長が大統領となった。この年のブルンジのひとりあたりGNPは250ドルであった。

  ブヨヤ大統領は同国の初のフツを多数とする内閣を成立させるなどフツ・ツチ両民族の融和に努め、 複数政党制を認めた新憲法の採択など民主化にも尽力したが、ツチ強硬派はこれに反発し、 2万人ともいわれるフツを虐殺した。ブヨヤは調停委員会を設置したが、両民族の対立は続いた。

  1993年6月1日、同国初の民主選挙でフツでブルンジ民主戦線党員のメルシオル・ンダダイエが当選し、ブヨヤは引退した。

  同年10月21日未明、4台の戦車と百名ほどのパラシュート兵がブルンジ大統領メルシオル・ンダダイエの官邸を襲撃し、 大統領と五名の側近を拘束した。クーデター発生の報が伝わるや全土は混乱に陥り、 暴力事件が各地で発生した。同日の夕方、大統領メルシオル・ンダダイエが銃殺された。 これにより、ブルンジ難民が、ルワンダ、タンザニア、ザイール(現コンゴ民主共和国)に押し寄せた。国連難民高等弁務官事務所の報告によれば ルワンダ、タンザニア、ザイール三国に押し寄せたその難民の数が75万人に上るとされた。また、国内に残る難民は20万人に上ると推定された。 また、死者は10万人と推定された。

  クーデター発生から8日目にあたる10月28日、国連総長特使・ジェームス・ジョナーとブルンジ首相のキニギは、

  「クーデターは失敗した。」

  の公式声明が発表された。これ以降、ブルンジは紛争状態になる。

  1994年1月13日、国民議会での投票で、ウンダダエ政権時代の農相・シブリアン・ンタリャミラが大統領に選出され、 同22日は憲法裁判所によって承認された。

  同年4月6日、シブリアン・ンタリャミラ大統領はタンザニア大統領主催の近隣国首脳会談に出席した。 隣国のルワンダ大統領ジュベナール・ハビャリマナも同席していた。このとき、ザイールのモブツ大統領からは、タンザニアのダルエスサラームには 行かないようにとの警告を出されていた。モブツによれば、フランス・パリ、エリゼ宮の高官よりもたらされた情報だという。 この日の夕方、シブリアン・ンタリャミラ大統領とルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領が同じ飛行機に乗って ルワンダの首都・キガリに飛んだ。着陸前にミサイル攻撃を受けて撃墜暗殺された。

  憲法の規定によりンティバントゥンガニャがブルンジ暫定大統領となり、同年10月には正式に大統領となった。 ンティバントゥンガニャは大統領に就任すると首相にツチ人政党・民族進歩連合のアナトール・カニェンキコを起用しツチ・フツ両民族の融和を図ったが、 多数派を占めるフツと少数だが軍を握るツチとの融和は成功せず、ルワンダ内戦の影響も受けて国内情勢は不安定なままとなった。

  1996年7月24日、元大統領ピエール・ブヨヤらによるクーデター計画を知ったンティバントゥンガニャはアメリカ大使館へと逃れ、翌日 クーデターは成功してンティバントゥンガニャは政権を失った。

  再びクーデターでブヨヤは政権を握り、暫定大統領に就任した。内戦の激しさは収まったものの、依然として混乱は継続した。 1998年6月、ブヨヤは正式に大統領となった。

  2000年にタンザニアのアルーシャでブルンジ政府、ツチ、フツの各勢力が和平協定に調印し、内戦終結を目指す暫定政府が 2001年11月1日、3年の期限で発足。ブヨヤ大統領(ツチ族)とドミシアン・ンダイゼイエ(副大統領、フツ族)が1年半ずつの任期で大統領を務 めることが決定した。1年半の任期を終えたブヨヤは2003年4月30日、大統領職をンダイゼイエに譲り渡した。

  2005年7月に行われた国政選挙で、上院・下院とも政党となった民主防衛国民会議が勝利し、8月19日、 上下院議員による選挙で、圧倒的な大差により、 元反政府武装組織兵士のピエール・ンクルンジザが大統領に選出され、2005年8月26日、正式に大統領に就任した。 2010年6月28日の大統領選挙では対立6候補が全員選挙をボイコットし、再選された。


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