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コンゴ共和国



  1957年5月、ユールーはコンゴ自治相のオパンゴールの下、農業長となった。 フランス植民地のコンゴ政界はユールーのUDDIAとオパンゴールのMSAとで二分されることになった。 UDDIAはすぐに議会で過半数を占め、第1党に躍り出た。オパンゴールとユールーはシャルル・ド・ゴールの第五共和国憲法にはどちらも賛成の立 場であり、これによってコンゴ独立の方向性が決まった。1958年12月8日、フランスの黒人迫害を契機として人気を掴んでいたユールーが、 コンゴ自治相に就いた。当時、オパンゴールのムボチ族とユールーのラリ族は対立しており、これが1959年には暴動へとつながった。 ユールーはゲリマンダー(選挙において特定の政党や候補者に有利なように選挙区を区割りすることをいう)をおこない、 これによって同年の選挙ではUDDIAは58%の得票にもかかわらず84%の議席を獲得した。さらに3ヵ月後、オパンゴールとMSAを吸収した。 1960年にコンゴ共和国が独立する際には、オパンゴールは名誉職に就くことでユールーと合意していた。

  1960年、フランスより、コンゴ共和国として独立。ユールー政権はフランスと緊密な関係を保ち、フランスとコンゴの関係は新植民地主義 から一歩も抜け出ることはなかった。フランスよりの内政外交と、フランスからの資金を得た開発プロジェクト、コンゴ動乱 でカタンガのモイーズ・チョンベを支持するなどの行動は国民の間に不満を募らせていった。 1963年8月、UDDIA以外の政党を禁止し一党制に移行しようとしたことに端を発して市民が蜂起し、 「栄光の三日間」と呼ばれる革命によって8月15日に、ユールーは失脚した。

  1963年12月19日、ユールー政権の元閣僚であるマサンバ=デバが臨時政府の首班となり、大統領に選出された。 マサンバ=デバ政権は穏健な社会主義を掲げ、反フランス・反資本主義路線を採った。共産主義者や左派民兵組織は当初、マサンバ=デバを支える立場にあ った。 マサンバ=デバは「革命国民運動(MNR)」を結成し(1964年1月)、一党体制を築いた。しかし、MNRの若年層の一部はキューバ支援により民 兵を組織し、過激化した。このことはマサンバ=デバ政権の支持者に亀裂をもたらし、民兵の代表アンブローズ・ヌマザレ イ首相(任1966-1968)は大統領との対立を激化させた。マサンバ=デバはヌマザレイを首相から解任し(1968年1月)、左派からの攻撃を受ける一方、 軍部のマリアン・ングアビ大尉とも対立を深めて孤立化した。

  1966年8月、国軍はングアビに降職を命じたがングアビ派は反乱を起こし、ムツアカを拘束した。ングアビは空挺隊司令官に任命され、反乱は収束した。

  1968年8月、マサンバ=デバはクーデター容疑でングアビを逮捕するが、逆に兵士の反乱で釈放を強要され、ングアビが実権を掌握した。 マサンバ=デバは大統領を辞任した。 ングアビ暗殺事件(1977年3月)の際に、マサンバ=デバは暗殺への関与を疑われ、処刑された。

  ングアビはコンゴ労働党(PCT)を結成し(1969年12月)、軍主導によるマルクス・レーニン主義的政策を実施するが、 実質は中道路線であった。1970年に国名を「コンゴ人民共和国」と改称した。

  コンゴ共和国の収入源である石油は国家管理下に置かれた。しかし、軍による国営企業の管理は腐敗をもたらし、粛清により人材が欠乏した。 ングアビは独立以来冷遇されてきた北部人を優遇し、南部人の反感をかった。加えて、親仏的な保守派からマルクス主義者までを包含する軍内部の路線対立も激 しく、反対派への抑圧が強化された。1971年にはアンゲ・ディアワラ中尉による反乱が発生、1973年まで続いた。 経済低迷で政権が行き詰るなか、1977年3月18日、大統領警護隊の一部によりングアビは暗殺され、ジョアキム・ヨンビ=オパンゴ将軍が後継者となった。 ングアビ暗殺を指揮したカキディディ大尉は逮捕後殺害され、暗殺事件の真相は闇に葬られた。

  1977年7月28日に、ングアビの功績を称え、国立のブラザヴィル大学がマリアン・ングアビ大学へと改名された。

  国家元首に就任したヨンビ=オパンゴは軍内部を掌握することができず、 党内左派の軍人ドニ・サスヌゲソとの権力闘争に敗れて1979年2月に解任された。 10月20日には労働党を追放され、私財没収の上自宅軟禁に置かれた。ドニ・サスヌゲソが大統領となった。

  首都のブラザヴィルの人口が15万人に達した。

  1990年7月、民主化を求める世論等により、コンゴ労働党は複数政党制に将来的に移行することを決定した。 しかし、いつ移行するのか、いつから認めるのか、具体的な事は全て棚上げになっていたため、 同年9月、労働組合の自立性を認めるか否かに関する論争を契機として、コンゴ労働組合連合が二日間のゼネストを決行した。 首都のブラザヴィルの通信網、物流は麻痺した。このため、9月末には複数政党制への即時移行を決定した。
  12月、マルクスレーニン主義を放棄することが決定された。反政府勢力は国民会議開催を要求していたが、ドニ・サスヌゲソ大統領は ここまで強く拒み続けていた。しかしながら、コンゴ共和国では9月以降、ストライキやデモが激しさを増して社会的混乱に陥っていた。 ついに国民会議開催に同意した。

  1991年2月25日、国民会議が開催された。出席者の多数を占めたのは反政府勢力であった。会議はドニ・サスヌゲソ大統領と コンゴ労働党に対する厳しい糾弾の場と化した。会議は6月10日に閉幕した。決定事項として、1年間の移行内閣が成立。 ドニ・サスヌゲソが大統領職に留まるが、軍統帥権をはじめとする実権は首相に移った。首相にはミロンゴが選出された。

  ミロンゴ首相のもとで新憲法が策定されて10月に国民投票を行う予定であったが、ずれこみ、1992年3月になって実施された。 それに伴って地方議会選挙、下院選挙、上院選挙、大統領選挙も先送りされたため、移行期間は当初の1年間では足りず、 8月の大統領選挙まで延長された。選挙が何度も延期された背景には制度の不備もあったが、地域問題も大きかった。コンゴ共和国は南北に 長い国だが、人口の殆どが南部に集中していた。8割以上が南部の各州に居住しており、これまでの大統領は皆が北部出身だった。 8月に大統領選挙があってドニ・サスヌゲソが敗れ、パスカル・リスバが大統領になった。ミロンゴ首相はドニ・サスヌゲソ の実兄とコンゴ労働党書記長を横領の容疑で逮捕させた。コンゴ労働党は、与党連合に参加していたが、ポストが少ないことを不満として離脱した。 その結果、与党連合は下院で過半数を割り、同年10月に内閣不信任案が下院で成立した。野党は野党から首相を選出する意思を示したが、 パスカル・リスバ大統領はこれを避けるために下院を解散させた。野党は反発し、野党支持勢力の強い、ブラザヴィルでは 各地でバリケードが築かれた。11月、野党がデモを行うと、軍がこれに発砲、3人が死亡した。 ここで軍が政府に介入し、与野党を一堂に集めて打開策を討議させた。 ここで下院選挙の延期と挙国一致内閣の組織という妥協を成立させた。これを成立させた中心事物のモココ参謀長の行動は、 国民から広い支持を獲得した。下院選挙は2回に分けて行われることになった。

  1993年5月、第1回下院選挙が行われ、与党連合が過半数獲得まで1議席と迫ったが、野党側が選挙に不正があったと主張し、 やり直しを求めた。そのまま第2回下院選挙が行われ、6月にヨンビ・オパンゴ内閣が成立し、野党支持の人々が築いたバリケードを強制的に撤去するとして、 撤去を始めると、首都のブラザヴィルで銃撃戦が始まった。ガボンやフランスの仲介により、8月、与野党間で妥協が成立。 再び選挙が実施された。第2回のやり直し投票は10月に行われ、第1回投票についてはフランスやEC代表団による再検討が行われることとなった。 与党はこの間に野党を迫害し、野党をメディアに出さないようにし、許可なく、野党がラジオ局を作ると、 これを破壊した。すると野党は民兵を組織。12月になると、与党の民兵が野党支持の住人を殺戮・略奪を始めた。 ごく短期間に100人以上が犠牲となった。これに反発したプール州の住民がプール州を通る鉄道を撤去。この結果、 12月初旬以降、首都ブラザヴィルへの鉄道輸送は止まり、小麦、米、ガソリンといった生活必需品が 殆ど入手できなくなった。

  1994年1月11日、政府はCFAフランの切り下げを発表した。2月に下院選挙第1回投票の裁定が下り、 与党側が過半数を確定した。野党はこれを受け入れ、2月末、ブラザヴィルからポワント・ノワールまで「和解の旅行」 を行って平和の到来をアピールした。

  1997年6月、再び武力衝突が起こってドニ・サスヌゲソが首都ブラザヴィルを制圧、 パスカル・リスバ大統領はロンドンに亡命した。

  1997年10月25日、ドニ・サスヌゲソが実権を掌握し、大統領になった。 2002、2009年にも再選されて、現在に至る。




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