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この地にはかつてプント国があったという。
1890年、イタリアの植民地となった。
1941年、イタリアがイギリスに敗れ、イギリスの軍政下に入った。
1952年、エチオピアになった。
1955年のエチオピア憲法においてアムハラ語のみが政府の公用語として定められるなど「アムハラ化政策」の下でエリト リア人の権利が制限されていくに従ってエリトリア・エチオピアは互いに反目するに至り、 1958年には民族主義政党・エリトリア解放運動(ELM)やエリトリア解放戦線が結成され、1960年にはELFの結成がカイロで公式に宣言された。
1961年9月1日、戦争はハミッド・イドリース・アワテ率いる部隊がエチオピア陸軍及び警察に発砲したことから始まった。 ELFはゲリラ戦術を使用してエチオピア軍に対抗した。1962年にエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世はエチオピアへの併合を拒否する決議を 行ったエリトリア議会を軍隊で包囲した上で一方的に解散させ、エリトリアを併合した。エリトリアの首都・アスマラ近郊のカグニューに 通信基地を保持していたアメリカ合衆国はこれを黙認した。開戦後、独立勢力側の主導権 はELFが握っていたが、1970年にマルクス主義者及びキリスト教徒のELF組織員の一部は組織を離脱した。 これらの構成員が後にエリトリア人民解放戦線(EPLF)を結成し、エリトリア内戦が行われた。1974年になって、 ELFとEPLFは和解し、エチオピア政府軍に対して共同で作戦にあたることになった。
1974年、エチオピアのハイレ・セラシエはクーデターで帝位を逐われた。エリトリア出身で独立に対して理解のあった アマン・アンドムによる臨時軍事行政評議会(PMAC)の政権の後にアマン中将を11月22日に軟禁(翌日殺害)し、テフェリ・バンテ国家元首による 代行を挟んで12月12日には「社会主義宣言」を行い、翌1975年2月11日には大統領兼PMAC議長兼国家元首として政権を執ったメンギスツ政権はデルグ 政権と呼ばれるマルクス主義独裁軍事政権だった。「デルグ(derg)」とはアムハラ語で「委員会」の意で、PMAC全体を指す場合のほか 、急進派の軍部調整委員会を指す場合もある。 この革命の結果、エチオピア政府はソビエト連邦の影響下に置かれることになった。社会主義を採用することを宣言したエチオピア政府は土地の国有 化及び農業の集団化を推し進めたが、これはエリトリアで古くから行われてきた農地の分割相続と対立し、帝政崩壊の後一旦小康状態を保ったエリト リア情勢は再び不穏な状態になった。
エチオピアの帝政が崩壊後、1976年にEPLFと決裂したELFから複数のグループが分派した。一部はアラブ諸国に近いエリトリア解放戦線人 民解放軍(ELF-PLF)を形成し、一部は中華人民共和国に近いEPLFに合流した。1970年代後半には、EPLFはエチオピア政府と戦うエリトリア人武装集団の中で指 導的な地位を獲得するに至った。この時の指導者はラマダン・モハメッド・ヌール(Ramadan Mohammed Nur)EPLF書記長で、副書記長はイサイアス・アフェウェ ルキだった。1974年の革命の際にエチオピア陸軍から多くの装備を鹵獲した。 この間、帝政時代と同じようにデルグは自らの力だけでは民衆を抑えることが できなかった。各地の守備隊への補給を確実に行うため、軍は民衆に恐怖を植え付ける戦術を行った。例としてエリトリア北部のバシク・ デラでは1970年11月17日に全村民をモスクに軟禁した上でモスクを完全に破壊し、生存者を射殺した。こうした虐殺方法は主にエリトリアのイスラム 教徒居住地域、、シェエブ(メンシェブとも呼ばれる。She'eb、Mensheb)、ヒルギゴ(Hirghigo,Hirgigo)、 エラベレド(Elabered,Elabared,Elabored,Ela Beridi)、オム・ハジェル(Om Hajer)等で行われた。大量殺害はイスラム教徒居住地域に限らず別の方法で キリスト教徒居住地域や他の地域でも行われた。
1977年までに、EPLFは同時にソマリア国境付近で侵攻しエチオピアの軍事物資を接収することでエチオピア人をエリトリアから駆逐 する計画がなされていた。しかしデルグはソ連からソ連製兵器の大規模な空輸によってソマリアからの侵入を撃退することに成功した。 ソ連からの軍事援助物資を受け取った後、ソマリア・オガデン方面の作戦に使用する労働力及び装備を転用して、エチオピア軍は主導権を取り返 し独立勢力を都市から離れた奥地へ追いやることに成功した。 1978年から1986年まで、デルグは独立派勢力に対して8回の大きな攻勢をかけたが、独立派のゲリラ組織を壊滅させるには至らなかった。 1988年にEPLFがエリトリア州におけるエチオピア陸軍の本拠地であるアファベト奪取すると、 エチオピア陸軍の司令部はエリトリア北東部に撤退し、エリトリア西部の盆地から守備隊の引き上げを余儀なくされた。 この後EPLFはエリトリア第二の規模を持つケレン付近に根拠地を定めた。その間、EPLF以外の独立勢力もエチオピア軍の占領 地域を奪回していった。この紛争中、エチオピア軍は化学兵器を使用していた。また、ナパーム弾が通常の爆弾と同様に使用された。
1980年代末、ソ連は軍事援助を継続しないことをメンギスツ政権に通告した。ソ連による援助の停止で、エチオピア軍 の士気は急速に下がり、EPLFは他のエチオピア国内の反政府勢力と協力して戦線を前進させた。1990年にはエチオピア軍は 海軍基地のあるマッサワを失った(第2次マッサワの戦い)。1989年にティグレ人民解放戦線(TPLF)を中心にオロモ人民民主機構(OPDO)、 アムハラ民族民主運動(ANDM)、南エチオピア人民民主戦線(SEPDF)が合流して結成されたエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が1991年5月、 エチオピアの首都アディスアベバを陥落させるに至り戦況は決定的となった。EPLFは元来TPLFと協力関係にあったため、EPRDFと共同して作戦を敢行した。
冷戦終結以降、アメリカ合衆国はメンギスツ政権が倒れた1991年5月までの間、ワシントンにおける和平会談を促進していた。 1991年5月中旬、メンギスツはエチオピア元首から退き、ジンバブエに亡命した。エリトリアに残存するエチオピア軍を掃討したため、 EPLFはエリトリア州全域を支配下に置いた。米国は戦争終結のためロンドンでの和平会談の議長を務めた。これらの会談はEPLFを含む4つ の主要な武装集団の代表者が出席して行われた。EPLFはエリトリア新暫定政府とエチオピア政府との会談に暫定政府とは別にオブザーバ ーとして出席していた。その結果、エチオピアがエリトリア人の独立に関する国民投票を行う権利について承認する協定が結ばれた。
エリトリアの独立に関して99%を越える支持を受けた1993年4月の国民投票の結果は国際連合エリトリア国民投票監視ミ ッションによって承認され、1993年5月24日に国際的にも独立した。1993年5月28日、国際連合はエリトリアの加盟を正式に承認した。
1998年以前からバドメ付近はエチオピア軍によって占拠されていた。5月6日から7日にかけ、バドメにおいてエチ オピア側の民兵が銃撃を行い、エリトリア兵8名を殺害する事件が発生した。 エリトリア軍は5月12日からバドメを含む地域似攻撃をかけ、さらに東部に進撃したが、エチオピア側はこの地域に民兵と警察しか配置しておらず 、撤退を余儀なくされた。5月13日にはエチオピア内閣と議会がエリトリア側の侵略を非難し、即時撤退を求める声明を行った。 エリトリアはこれをエチオピアからの宣戦布告であると主張し、両国間の紛争は本格的なものとなった。エリトリア側は自国の攻撃がエチオピア側の攻 撃に対する正当防衛であると主張していたが、この措置を国際連合安全保障理事会に報告していなかった。両国の外交関係は一応維持されており、 一定の経済関係も存在していた。
正確な死傷者数は不明であるが、イギリスの外務・英連邦省は10万人としている。また、両国が国内に滞在する相手国民を追放 したことから、多数の難民が発生した。
2000年6月18日、アフリカ統一機構の調停により、停戦合意が成立した。合意の内容は以下の通りである。
・即時の停戦
・停戦監視のための平和維持部隊の展開
・エチオピア軍は1998年5月6月以前の統治地域まで撤退
・エチオピア軍の撤退ラインからエリトリア側に25kmの暫定安全保障地帯を設置する。エリトリア軍は暫定地帯に立ち入ることはできない。
7月31日には 国際連合安全保障理事会が決議1312を採択し、PKO国際連合エチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)の設置を決定した。 12月12日には両国間の包括的和平合意が成立した。内容は以下の通りである。
・両国は停戦合意を遵守し、敵対行動を取らない
・アフリカ統一機構事務総長の任命による「公平で公正な機関」が国境紛争について調査する
・中立の国境確定委員会が国境線を決定する
・両国の国家および国民が受けた損害を相手国に請求するための請求権委員会を設置する。
2002年4月13日、 国境委員会により国境確定が行われた。しかしバドメがエリトリアに帰属するとされたため、 エチオピアは異議を唱えた。このため2004年1月には国連安全保障理事会が、「国境紛争に改善が見られない」と懸念を表明し ている。11月にエチオピアは決定を原則として受け入れると発表した。しかし2005年に は再び両国間は緊張し、12月にはエリトリアがUNMEEに参加している西洋諸国に撤退するよう要求した。 しかしUNMEE参加国は大半がアフリカ諸国であったため、UNMEEの任務は継続された。
2007年10月16日、エリトリア軍のタンカーが暫定安全保障地帯に侵入する事件が発生した。 2007年7月からは損害段階における審理が開始されたが、両国の主張は平行線をたどった。2007年12月以降、エリトリアのUNME Eに対する妨害が顕著になり、物資の供給を妨げたり奪ったりするようになった。 7月には国連安全保障理事会が7月31日の任期切れとともにUNMEEを撤退させることを決議し、UNMEEは活動終了した。 安保理はエリトリアが国連軍を強制移動させたことなどの妨害行為について言及している。
2008年6月10日-13日にはエリトリア軍がジブチに侵入し、ジブチ軍人2名が死亡する事件が発生した。
2010年、エリトリアがエチオピア軍による越境攻撃が行われたと主張し、エチオピア側がこれを否定するという事件が起きた 。内陸国化しているエチオピアは、エリトリアの港湾の使用を事実上断念し、同じく隣国であるジブチの港湾を使用している。
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