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1958年にフランスからギニア共和国として独立し、セク・トゥーレ大統領(任期:1958年 - 1984年)が就任した。 この時、宗主国であったフランスはギニアへの一切の援助を打ち切り、公共施設や道路を破壊しつくし、 国土台帳などの書類や公共施設にあった備品を全てフランス本土に持っていってしまった。そのため、 ギニアは世界最貧国に転落し、この状況を打開するためトゥーレは社会主義施策を敷き、政敵および人権論者の抑圧を行った。
1970年の11月21日から22日の夜、ギニア軍に偽装し、ポルトガル将校に指揮された200名の武装した ギニア人兵と220名のアフリカ系ポルトガル人兵とポルトガル兵がコクナリ近郊の地点に上陸した。 ポルトガル軍はLST1隻、貨物船1隻を含む標識を消された4隻の艦船より上陸した。ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党は4隻から5隻の補給船が破壊された。 その他は大統領であったトゥーレの夏の住まいに上陸し、これを焼き払ったがトゥーレは当時の大統領官邸におり無事であった。 他の兵士は2名の軍高官を捕え、市内の主要な発電所を制圧し、アミルカル・カブラルは捕まえられなかったもの のギニア・カーボベルデ独立アフリカ党の司令部を抑え、キャンプ・ボイロ(英語版)に捕えられていた26名の捕虜を取り戻した。 ギニア民兵部隊は侵攻軍との戦いでは、ほとんど戦果を上げられなかった。ポルトガル軍は トゥーレとカブラルを発見できなかったものの、少数の死傷者を出した後に撤収した。
1984年にトゥーレが死亡すると、無血クーデターによりランサナ・コンテ大佐が政権を掌握した。 コンテはトゥーレの政治路線を大きく改め、国際通貨基金や世界銀行などの国際機関からの支援を得つつ、 旧社会主義体制から自由主義体制への移行を推進した。1993年に初の大統領選挙が行われた後、 1998年、2003年に大統領選が行われたが、いずれもコンテが当選している。しかしその選挙結果や、 2001年の国民投票で大統領任期を5年から7年に延長するなど独裁色を強めたコンテの政治手法につい ては多くの議論が交わされている。
2007年1月には、コンテ政権下における政治腐敗の横行や物価上昇・財政悪化に抗議し、 大統領辞任と首相ポストの新設を要求する労働組合によりゼネストが発生。首都で発生したデ モでは市民と治安部隊、警察の間で衝突が発生し、数十人もの死者、200人以上の負傷者が生じた。 ストライキは18日間にも及び、コンテ大統領と組合間で合意が結ばれ終結が見られたものの治安は悪化。 2月には、大統領が国家非常事態を宣言、戒厳令を敷いた。その後も不安定な政情が続き、クーデター発生の可能性も出ていた。 首相の任命をめぐる政府と労組の立場は対立していたが、近隣諸国及び西アフリカ諸国経済 共同体 (ECOWAS) 仲裁ミッションの働きかけもあり、2月23日に戒厳令は解除され、労組は同27日よ りゼネストを中断することを発表。3月2日までに労組及び市民団体により推薦される首相候補の中から 新首相を任命することが合意され、アフメド・ティジャンヌ・スアレが新首相に就任した。
2008年12月22日、コンテ大統領が死去し、国民議会のアブバカル・ソンパレ下院議長が 大統領代行に就任したと報じられたが、翌12月23日、軍の一部勢力がクーデター(英語版)を起こし、 士官ら数千人の兵士がコナクリの国営テレビ局を占拠。陸軍・燃料補給部隊長のムーサ・ダディ・カマ ラ大尉は憲法停止や政府各機関の解散、軍人や文民から構成する評議機関「民主主義発展国家評議会」 (National Council for Democracy and Development)の設置を宣言。政府側による目立った抵抗はなく、 コナクリを制圧した。ただギニア陸軍軍参謀総長は「クーデターに参加したのは兵士の一部」と語り、 コナクリ近郊の軍駐屯地で反乱軍と政府軍の代表が交渉を行っていると説明。カマラ大尉もフランスの テレビ局に、
「軍内部で多数派ではない」
と語り、軍として憲法に基づく権力移譲を支持していることを明らかにした。一方スアレ首相はフラ ンスのラジオ局に、
「政府は今も実権を握っている」
と述べ、クーデターは成功しなかったと強調、軍関係者らに事態の沈静化を求めた。
24日、カマラ大尉は、
「今後2年間、陸軍が暫定的に権力を保持し、2010年12月に自由で公正な選挙を実施する。権力を握 り続ける意図はない」
との声明を発表。地元記者らに対し、自らが「暫定政府大統領として指名された」と宣言した。カマ ラ大尉と「民主主義発展国家評議会」の勢力は同日、コナクリ市内をパレード。手を振って市民に呼び掛けたところ、数千人の市民から歓迎の声が上がった。 また「民主主義発展国家評議会」は同日、国内全域に夜間外出禁止令を敷いた。スアレ首相は 24日未明に「政府は今も実権を握っている」と重ねて表明したが、その後身の安全のため所在を明らかにせず、首 相に連絡が取れない事態になるなど混乱した。
翌25日、カマラ大尉の求めに応じたスアレ首相と閣僚ら約30人はコナクリ近郊の陸軍基地に投降し、基地内でカマラ大尉と面会。ス アレ首相らは同グループへの降伏の意思を伝え、カマラ大尉の新政権を正統な政権と認めると述べた。地元ラジオ局はスアレ首相 がカマラ大尉を「大統領」と呼び、
「我々はあなたに従います」
と述べた肉声を伝えた。スアレ首相は記者会見でも同様の意思を示し、カマラ大尉の実権掌握と暫定大統領就任が確定した。カマラ大 尉はスアレ首相と閣僚らに身の安全を約束した上で、
「国を内戦に引き込む武力衝突を避けられるようにして欲しい」
と述べ、スアレ首相に無血クーデター成功への協力と新政権を支援するよう促した。 暫定大統領に就任したカマラは2009年中に 選挙を行うと公表。カマラ自身が選挙出馬を表明した。
2009年9月28日、大規模抗議集会。12月3日に側近のアブバカール・ディアキテ(フランス語版)中尉による暗殺未遂 事件でカマラ暫定大統領は頭を撃たれ重症を負う。同日に暫定大統領に就任した防衛大臣のセクバ・コナ テ大将が大統領選挙実施を引き継ぎ、2010年6月27日に投票が行われた。
2010年11月7日大統領選挙の決選投票が行われた。独立国家選挙管理委員会は野党 指導者アルファ・コンデが得票率52.52%で、ディアロ元首相の得票率は47.48%であったと発表。同年12月21日にコンデが大統領に就任した。
2011年7月19日、コナクリ市キペ地区にあるコンデ大統領の私邸が軍人の集団により襲撃される事件が発生した。
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