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マラウイ共和国



  かつてこの地にはサン人が居住していたが、 15世紀にチェワ族を中心とするバントゥー系の複数の部族が連合してマラビと呼ばれるようになり、 16世紀頃から19世紀末までマラビ国が存在した。マラビ国は16世紀ごろに、現在のマラウイにあるマラウイ湖周辺のバントゥー系民族により建国された。 マラビ国の領土は非常に大きく拡大し、北はトゥンブカ族とトンガ族の領土を含み、南はシーレ川 下流域まで、西はルアングワ川やザンベジ川流域まで達したといわれる。

  19世紀、マラビ国は近隣の部族であるヤオ族による攻撃を頻繁に受け、捕らえられた者は奴隷として売られた。デイヴィッド・リヴィン グストンが 1859年にニアサ湖(マラウイ湖)を訪れた後、プロテスタントの宣教師がその後に続いた。その後の1891年に、イギ リスにより保護領のイギリス中央アフリカ保護領とされ植民地となったことで、マラビ国は歴史上から姿を消した。

  1891年にイギリスの保護領となってからは、1893年にイギリス中央アフリカ保護領(1893年 - 1907年)と改称されたの ち1907年にニヤサランド(1907年 - 1953年)となった。

  第二次世界大戦後、1953年に北ローデシア(現ザンビア)、南ローデシア(現ジンバブエ)、ニヤサランド(現マラウイ)をあわせたロ ーデシア・ニヤサランド連邦(イギリス領中央アフリカ連邦、CAF、1953年 - 1963年)が成立した。これは、地下資源の豊富な北ローデシア、 製造業が盛んな南ローデシアと、黒人労働力の供給先であるニヤサランドを結びつけて経済発展を図った白人入植者の策であった。 しかし、1958年11月23日の全アフリカ人民会議(英語版)(AAPC)に出席したバンダをはじめとした急進派の独立運動がアフリカ各地で高揚した。 ニヤサランドでは1959年にローデシア・ニヤサランド連邦への反対運動を続けたバンダがグウェル(現ジンバブエ領内)に投獄されたが、いわゆ る1960年の「アフリカの年」を迎えるなかで、連邦分離の動きは止まらず、連邦の維持は困難になっていた。 1962年には連邦内の自治権を獲得し、1963年には連邦離脱の権利を認めさせ、ローデシア・ニヤサランド連邦は解体した。

  1964年7月6日、マラウイはイギリス連邦内の英連邦王国として独立を果たした。 なお、独立の直前に行われた1964年マラウイ総選挙では、全選挙地区においてマラウイ会議党の候 補以外の出馬が無かったため、マラウイは独立時点から一党制の政治が行われることとなった。 なお、それから2年後の1966年に、憲法でマラウイ会議党以外の政党結成が禁止され、一党制体制が法的に確立された。 また、1966年にマラウイは共和制を採用して現在のマラウイ共和国となり、バンダは首相から大統領へと就任した。 このマラウイ会議党による一党体制は、1993年の国民投票の結果、多党制が導入されるまでの30年近くに渡って維持されることとなった。

  1970年にバンダはマラウイ会議党の終身党首となり、翌1971年には国会でバンダを終身大統領とすることが議決された。 また、マラウイ会議党下の民兵組織であるYoung Pioneers を結成し、1990年代まで国家のコントロールを権威主義的に行った。

  バンダは、常に自身を"終身大統領ングワジ・ヘイスティングズ・カムズ・バンダ博士閣下"と呼称させる独裁者であった。 バンダへの忠誠はあらゆる場面で要求された。全ての商業ビルにはバンダの公式写真を壁に掛けることが要求され、 その他のポスターや時計、絵画など一切のものを、バンダの写真より上部に設置することが禁止された。 また、映画や演劇、学校の集会など、ほぼ全ての催し物の前には国歌が演奏されたほか、映画館においては 国歌の演奏中はスクリーンにバンダ大統領が国民に手を振るシーンが流されていた。バンダが町を訪れる際には、 地域の女性らが空港へ迎えに上がってダンスを行う必要があり、その折には、特別な服装とバンダの公式写真の掲 揚を行うことが要求された。さらに、国で唯一のラジオ放送は、大統領のスピーチと政府のプロパガンダを放送していた。 また、バンダは女性がズボンを履くことと、膝が露出するようなスカートを履くことを法律により禁止した。また、男性の場合は髪 の毛を襟首より下に伸ばすことが禁じられていた。教会の認可は政府が行 い、エホバの証人のような特定の宗教団体に所属する人物は迫害され、周辺の国へと追い出された。また 、全てのインド系のマラウイ市民は、家や職場から強制的に立ち退かされ、大きな都市のインド人居住区へと 移住させられた。さらに、移住を行うことのほか、個人資産を海外へ持ち出すことや、他国の通貨を持ち込むこと は法律で禁じられていた。そのため、資産や収入を手放さなければ、マラウイを去ることができなかった上、ほとん ど全ての財産を手放し、海外でやり直したいと考えた人々にすら、海外渡航ビザはめったに下りなかった。なお、全 ての旅行者は飛行機での出入国に際して手荷物の検査を受けた。

  全ての映画は映画館で上映されるより前に、マラウイ検閲委員会によるチェックが行われていた。 ヌードや政治的な題材など、検閲委員会により不適切と考えられた作品は当該場面の編集を受けた。 また、手紙も検閲委員会によって監視されていた。海外との手紙のやり取りの場合、開封され、読まれたうえ、 時には編集を受けていた。ビデオテープについても、検閲官によるチェックを受けるために、検閲委員会へ郵送する必要があった。 検閲を受けたビデオテープには、検閲済みのステッカーが付与されて、所有者へと送り返された。さらに、電話は傍受されており、 会話中に政治批判を行った際には通信が切断された。書店で販売される書物も検閲を受けており、ニューズウィークやタイムのよう な雑誌はページ丸ごとあるいはページの一部分が切り取られていた。

  なお、バンダ自身は不正財蓄により非常に裕福であった一方、バンダの統治期間中のマラウイは、 その大部分が世界で10本の指に入るとされる最貧国の1つであった。バンダは、数軒の大邸宅や企業、個人用ヘリコプター、 自動車、その他の贅沢品を所有していた。またバンダ大統領を非難する発言は厳し く禁じられ、これを破ったものは多くが追放や投獄されたほか、マラウイ社会主義者同盟 の指導者であったアッタチ・ムパカチのように暗殺された者すらいた。これらの行為によ り、バンダとマラウイ政府は、ヒューマン・ライツ・ウォッチとアムネスティ・インターナ ショナルから人権侵害行為を非難された。なお、1994年に大統領を引退した後、バンダは殺 人と証拠隠滅の容疑で起訴された。その後、バンダは1997年11月に南アフリカ共和国の病院において101歳で病没した。

  バンダによる独裁政治が長らく維持されていたマラウイであったが、1991年に南アフリカ共和国大統領で あったフレデリック・ウィレム・デクラークがアパルトヘイトの法的廃止を決定して以降、マラウイ国内の教会、 および国際世論からの圧力増加と国内の民主化要求が高まってきた。この結果、翌1992年にバンダは、複数 政党制を新たに導入するか、一党制をこのまま維持するかを国民投票により決めることを発表した。 そして1993年6月14日、マラウイ建国以来初の国民投票が無事行われ、国民の3分の2近い得票を得て多 党制導入が決定された。その翌年の1994年5月17日、マラウイ初の民主的かつ公平な選挙となる1994年マラウイ総 選挙が暫定的な憲法規定の元に行われた。なお、この新たな憲法では、以前に憲法に規定されていたマラウ イ会議党に対する特別権限が除かれているものであり、1995年に正式施行された。 選挙の結果、統一民主戦線 (UDF) の指導者であるバキリ・ムルジが、バンダを下して大統領へ当選した。 また、所属党の統一民主戦線は、177議席中の82議席を獲得して第一党となったものの単独過半数には届かなか ったため、 民主同盟 (AFORD) との連立与党を形成した。なお、1996年にこの連立は解消されたが、政府閣 僚のポストを得ていた民主同盟所属の数人の議員は、民主同盟所属を離党して閣僚として残留した。

  マラウィは、2回目の民主的な選挙を、1999年に実施した。ムルジは大統領二期目の就任を目指して出馬したが、 この選挙では民主同盟がマラウイ会議党と選挙協力を行い、対立関係となった。選挙の結果、ムルジが過半数の票を獲得して2004年までの任期で大 統領の二期目を務めることとなった。 トゥンブカ族やンゴニ族、ンコンデ族といった北部で優勢なキリスト教徒の部族は、南部出身でイスラム教徒のムルジが大統領へ再任された ことに対し、強い不満を持った。その結果、ムルジの出身部族であり、イスラム教徒であるヤオ族へのテロ運動が行われ、 数百万ドル相当のヤオ族の資産が盗まれたり破壊されたりしたほか、200箇所近いモスクが放火の被害を受けた。

  2001年には、統一民主戦線の議席数は96議席である一方、民主同盟が30議席、マラウイ会議党が 61議席で、残りの6議席は無所属となっていた。ただし、公的な政党としては認められていなかったものの、 この無所属議員6人は国家民主同盟 (NDA) を結成しており、野党のポジションに属していたため、ムルジは少 数与党による運営を強いられた。

  2004年5月に行われた2004年マラウイ総選挙では、マラウイの憲法規定によってムルジは出馬できな かったため、統一民主戦線からはムルジの支援を受けたビング・ワ・ムタリカが出馬した。ムタリカは、野党によ り支持されたジョン・テンボとグアンダ・チャクアンバに選挙で勝利し、大統領へと就任した。しか しながら、ムルジの所属する統一民主戦線は、1994年や1999年よりも議席数を大幅に減らして、マ ラウイ会議党に次ぐ第二党となった。そのままでは国会運営に差し障るため、いくつかの野党グル ープと連立を組み、過半数を確保した。しかしその後、ムタリカは汚職や政治腐敗をめぐって党本 部やムルジと対立した結果、2005年2月5日に統一民主戦線を離党し、新たに民主進歩党を結成した 。なお、この政党は少数与党であったために、ムタリカは厳しい国会運営を強いられた。

   2009年マラウイ総選挙にてムタリカは3分の2近い支持を得て大統領に再任され、所属する民主進歩党も過半数を単独で獲得し、安定政権となった。 2010年から1年間、アフリカ連合総会議長(第8代)を務めた。 晩年は強権的な政権運営が見られるようになり、国民からは不満の声が出た。2012年4月5日、心臓発作のために死去した。

  4月5日にムタリカが心臓発作で死去したため、副大統領だったジョイス・バンダが、 憲法上の規定により2012年4月7日に大統領に昇格した。




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