有   楽   苑


前回最後に紹介しました有楽苑の入口です。
名鉄犬山ホテルの正面駐車場の前に位置します。

この有楽苑の中にある茶室「如庵」じょあん が国宝に指定されています。
現存する国宝茶席三名席の一つです。
残りの二つは京都山崎妙喜庵内の待庵、大徳寺龍光院内の密庵だそうです。

なぜ三つなのかというと、
昭和25年施行の文化財保護法施行以前の旧法では「国宝」と「重要文化財」の区別はなく、
国指定の有形文化財(美術工芸品および建造物)はすべて「国宝」とされていました。
ちなみに如庵が国宝に指定されたのは昭和11年です。
また改正により旧法で国宝と指定されていたもので重要文化財に格下げされたものはないそうです。
このため今でも国宝と呼ばれているようです。

しかし、国宝に指定されている茶室ということは早くからその価値が認められていたことになるのでは。





有楽苑は織田信長の実弟である織田有楽斎が建てた国宝茶室「如庵」を目玉に、重要文化財「旧正伝院書院」、
古図により復元された「元庵」、新しく建てられた[弘庵]という建築物と広い庭から成っています。

有楽斉とは織田長益(おだ ながます)が剃髪後名乗った呼び名です。
十四男で、お市の方は同年の姉に当たるそうです。
信長の父、信長の長男信男に仕え合戦にも参加。
小牧長久手の戦いでは信男とともに家康側で参戦、この頃から折衝役として登場しています。
秀吉の御伽衆 (政治や軍事の相談、また武辺話や諸国の動静を伝えたり、世間話の相手も務めた側近) となり、
このころ剃髪し有楽斎如庵と名乗り有楽斉とか有楽と呼ばれたようです。
千利休にも茶を学び、利休十哲の1人にも数えられ、のちには自ら茶道有楽流を創始
関が原の戦いでは東軍に属し武勲も。

しかしながら、役後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐。
このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。
大阪冬の陣まで城内にとどまり、穏健派として中心的な役割をにない和睦に導く。
夏の陣を前に自分の役割は終わったとし、京都に隠棲、茶道に専念し、趣味に生きた。
激動した時代を生き抜いた人物だと感じます。

順路に沿って歩くとまず元庵の中門。
元庵は有楽斎が大阪天満に設けた茶室を古図により復元したものです。





中門をくぐり見ろことの出来る元庵の一部です。
順路を巡るとまた違ったところから別の箇所を見ることが出来ます。





更に進むと有楽苑の文字が見える岩栖門。
文明年間(1469〜1486年)に、細川満元が京都新町頭に建立した、岩栖院の唐門とつたえられています。

唐門(からもん)は、屋根に独特の唐破風があることから呼ばれるそうです。
唐破風は弓を横にしたような形をし、中央が高く、左右になだらかに流れる曲線をもつもの。
唐門というと中国から入ってきたように思われがちですが、日本で生まれ、平安後期からのもののようです。





門を進むと旧正伝院書院。
有楽斎が建仁寺の塔頭正伝院を再興し、隠居所として建築したものを移築したそうです。
如庵と同時期に建てられたそうです。
ここでも書院の一部を見ることが出来、また別な面をあとで見ることに成ります。





広い庭に出会います。
朱色があざやかでした。





含翠門。





二股になった道を左に進むと厚い萱葺き妻入りの門に出会います。
萱門です。





門をくぐると旧正伝院書院と如庵が連なって見えます。
右の小さいほうの建物が如庵です。
如庵は何回か移築され昭和47年に当地に移築され現在に到っている。





中央の建物が如庵。
この如庵という名称は、一説によれば有楽斎のクリスチャンネーム「Joan」または「Johan」から付けられたとも云われます。





更に近づくとこんな様子。
左側は土間になって躙り口前の躙り口石は加茂川の真黒な石だそうです。
格子から内部を見ることが出来ますが撮影は禁止されています。
2畳半程度の広さで色々工夫がされているそうです。





土間の上のほうに国宝認定書が掲げられています。





庭に見られたものです。





庭から眺めた横に連なる旧正伝院書院の内部です。





萱門を出て弘庵に向かう途中にある水琴窟。
音を聞くことが出来ます。





弘庵です。
茶会を開くために昭和61年に新しく建てられました。
ここでお茶を楽しむことが出来ます。

右側の写真の大きな石は一千万円もするとか。





一番最初に見た元庵の正面と内部の一部。





これがほぼ順路に沿って見学したところです。

最初にうんちくを並べすぎたようで後半ばてぎみでした。
次は、明治村へと観光を続けました。
明治村は明治時代の建物等を移築・復元し、当時の歴史や文化を今日に伝えようとする野外博物館です。




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