江 ゆ か り の 地
今年も後一ヵ月半ほどとなってしまい、NHKの大河ドラマ「江 姫たちの戦国」も大詰め。
津にもゆかりの地があるそうで出かけて見ました。

まず出かけたところは伊勢上野。津市内にあります。
今は本城山青少年公園となってなっています。
写真は展示されていた追想図です。
江と関係するようになったのは信長の伊勢攻略作戦により、
弟の信包を長野家の後継ぎとして伊勢上野城5万石を与えたことが始まりです。
浅井家滅亡の小谷城落城後信長の配慮でここ伊勢上野に移ったのが、江・一歳のとき。

本丸跡の様子です。
建物も石垣も何も残ってはおりません。
右の写真の建物は展示室と展望台になっています。
表示には「江姫・浅井三姉妹ゆかりの地。伊勢上野城跡」と記されています。

展望台からは東に伊勢湾。
正面に知多半島、渥美半島さらに志摩半島が望めます。
西には鈴鹿の山々。

「江」の掛け軸。本当に美人だったかも知れません。
信包は7年後に津に城(安濃津城)を築き移っていますが、三姉妹も母とともに移っています。
江にも伊勢上野城の思い出は残っていたものと思われます。

本城巨松と呼ばれる松があったそうです。
周囲7M・高さ27Mあったそうで,物見に利用されたとも。
しかしながらしょうわ39年に老齢で枯死、伐採されたそうです。
最初の写真追想図にもこの松が描かれています。

二の丸跡。

更に進むとまた視界が広がり伊勢湾を望むことが出来ました。
ここを下るとしたには伊勢街道があります。
車一台が通れる通りで昔の面影を若干残しています。
江戸時代には本陣、脇陣もあり賑わったようです。
しかしお城は江戸初期の1619年に廃城となっています。

かっては津屈指の商店街であった大門。
ごたぶんにもれずシャッター街となっていました。
ここは津観音への参道みたいなものでした。

津観音正面で「恵日山観音寺」とあります。
ここは日本の三大観音の一つといわれます。
東京の浅草観音、名古屋の大須観音、そしてここ。

山門中央に置かれている「撫で石」。
弘法大師ゆかりの霊場、四国四十八箇所の中で最も難所といわれる六十番札所横峰寺よりもたらされた石といわれ、
この石を撫でたその手で、身体の悪いところを擦るとその箇所が良くなると伝えられている石だそうです。

境内の様子。

五重塔。大分色あせた感じです。

鐘楼。

本堂と祭られた観音様。
御本尊は阿漕浦の漁夫の網により出現されたという、秘仏の聖観世音菩薩さまだそうです。


天井には中央に観音様、左に馬、右に龍の絵が描かれていました。
ご覧のように門前町は寂れ、寺自体も大きくもまた古くもありません。
しかしながら華っては41棟の堂宇宙を誇っていたそうです。
かってといっても昭和20年7月でさほど古くはありません。
太平洋戦争の津大空襲により焼失しました。
現在のものは復興されたものです。
やはり三大観音といわれるだけありその歴史は古いようです。
奈良時代初め和銅2年(709年)の開山以来,室町時代には将軍足利義教が勅命を奉じ三重塔を建立、
豊臣秀吉は出陣の際に祈願を怠らなかったとも、津藩主籐堂高虎は、特に津観音に縁のある人物だそうで、
江戸時代は二代将軍徳川秀忠より幕末に至るまでの歴代将軍家、津藩主藤堂家の祈願所として特別の加護も。
城下町津の「守り仏」として、大門町という寺内町を形成し、信仰の中心、文化や歴史を育む場所として、
市民に親しまれていたそうです。



津城は安濃津城とも呼ばれます。写真は三重櫓(丑寅櫓)。
上の写真は入口から見た様子で、下の写真は城内から見たものです。
またこの櫓も昭和33年に再建されたものです。
お城そのものは明治に入り廃藩置県で多くの城が取り壊されましたが、ここもご多分に漏れず取り壊されました。


残っているお堀と石垣です。
堀水面から高く積まれて居ます。
また内側からも高い位置まで積まれて居ます。なぜかな?
残っているのは内堀で外堀もありましたが、すぐ北を安濃川が、南には岩田川が流れ、
要塞堅固な城となっています。

お堀の深さは分かりませんが幅はかなりのものでした。

城内側から石垣を見ています。
左の写真は櫓跡のようです。

城跡はお城公園となっており中央に噴水が設けられいます。
広場には藤堂高寅の騎馬像。
高寅は関が原後その功績により津城主1608年津城主となっています。
明治維新まで藤堂家の居城となっていました。
江たち三姉妹は1580年津に移り、本能寺の変後お市の方が1582年北の庄に移るまでの2年間を過ごしたようです。
各地で大河ドラマの誘致が盛んにおこなわれていますが、
津でも藤堂高寅を主人公にしたドラマをと運動をしています。
高寅は元はといえば浅井家家臣の次男として生まれ、姉川の合戦に初陣、織田家そして羽柴秀長に、そして朝鮮の役、
この頃宇和島城主となっている。
秀吉の死後、家康に接近、関が原の戦いでも武功、などがあって伊勢・伊賀22万石にその後32万石の大大名に。
晩年には眼病を患って失明,寛永7年(1630年)に死去。享年75歳。
逸話もあり、家康の遺言として「天下に大事ある時は一の先手を高虎、二の先手を直孝」
「藤堂家は末代までも伊賀・伊勢から動かしてはならない」とまで信頼されていたとか。
また幾つもの工事を担っています。
大阪城の修築、江戸城の縄張り、日光東照宮の造営、南禅寺三門建立に携わって土木工事の名手とも言われた。

公園内。

元西の丸入口。
入っていくと入徳門と呼ばれる門があります。
藩校の門だったそうでここに移されました。
この門を入ると日本庭園が設けられています。

高寅を祭った高山神社。明治に入り建立されました。
江ゆかりの地を巡るたびとして他にも四天王寺、津の海、高田本山専修寺が紹介されています。
専修寺には行きましたが他は廻れませんでした。
専修寺は次回に。