城 下 町 松 阪

三重県松阪市へ行ってきました。
松阪といえば思い浮かべるのはまず第一に松坂牛だと思います。
この近辺では他に近江牛、飛騨牛、神戸ビーフ、但馬牛など結構有名だと思いますが。
三大和牛と呼ばれるものがあるそうです。
三大和牛との呼称がいつ頃、誰によって命名されたかは不明で、またどの3銘柄かは公式に決まっていないそうです。
ただ、神戸ビーフ・松阪牛・近江牛、または、神戸ビーフ・松阪牛・米沢牛という組み合わせがよく見られるそうです。
松坂牛はどちらにも入っています。
しかしながら、歴史はさほど古くなく明治に入り西洋文化の影響で牛肉が好まれるようになり、
1935年(昭和10年)に東京で行なわれた『全国肉用牛畜産博覧会』で名誉賞を受賞したことから全国的に知られるようになったそうです。
近江牛は、江戸時代からすでに牛肉が「養生薬」の名目で、味噌漬や干し肉として彦根藩から将軍家へ献上、賞味されていたそうです。
とわいえ、有名なのだと改めて感じます。
写真は「牛銀」という老舗の店の本店で、狭い路地にあります。
創業、明治35年だそうです。
しかし、やはり城下町だったので牛ばかりではなく色々なものが残っています。


松坂にはお城がありました。
表門跡から石垣の間を登っていくと月見櫓あった広場に。
下の写真は石垣の上に本丸が有った広場になっています。
蒲生氏郷が1588年(天正16年)この地に築城した平山城です。
蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったといわれますが、
世は戦国時代。主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、父・賢秀は織田氏に臣従。
氏郷は武勇にも優れ、北畠氏との戦いにて初陣を飾り、伊勢大河内城攻めや姉川の戦い、
そして朝倉攻めと小谷城攻め、伊勢長島攻め、長篠の戦いなどに従軍。
本能寺の変後、羽柴秀吉に仕え、1584年(天正12年)近江国日野城6万石から伊勢国12万3千石を与えられた。
それから4年後に松坂城を築いています。
このとき、旧領の近江商人を町の中心部に呼び寄せて楽市楽座を設けたそうで、
後に大商人そして日本の財閥へと駆け上がった松坂商人、三井財閥を生んだのだと思われます。
氏郷は小田原の役の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て会津に移りました。
会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、城は氏郷の幼名にちなみ鶴ヶ城と名付け、
江戸時代の会津藩の発展の礎を築ました。
朝鮮の役では肥前名護屋へと出陣し、この陣中にて体調を崩し、伏見の蒲生屋敷において死去。享年40歳の人生でした。
氏郷移封後は城主が代わりましたが、1619年(元和5年)南伊勢は紀州藩の藩領となりました。
ここも明治に取り壊されています。

梶井基次郎の碑。
昭和初期の作家で大阪生まれ、子供時代は父が貿易会社勤務で転勤が多く東京、三重、京都など20回以上も転居している。
その中で、鳥羽尋常高等小学校、三重県立宇治山田高等学校で学んだことがあります。
志賀直哉の影響を受け、簡潔な描写と詩情豊かな小品を残すし、文壇に認められてまもなく肺結核で没した。
死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めているといわれる作家です。
作品の中に「城のある町にて」があり、記念碑が建てられたようです。

同じ場所から市街を眺めた様子です。
町並みの向こうは伊勢湾が見えます。

本丸跡広場です。
右側の木々の中に記念碑が建てられています。
写真では読めませんが「松坂開府の碑」と彫られていました。

国学者・本居宣長が12歳から72歳で生涯を閉じるまで過ごした場所です。
今は記念碑と説明文が表示されているだけです。
住居は保存と公開のため、松坂城跡が松阪公園となったところに移築されています。
公園には本居宣長記念館と宣長の書斎の名前だある「鈴屋」として住居が残されています。

本居宣長記念館の入口です。
宣長は1730年(享保15年)から1801年(享和1年)まで72歳の生涯でした。
というと徳川時代中期八代将軍吉宗の治世に伊勢国松坂に木綿商人小津家の次男として生まれました。
一旦、家業を継ぎましたが学問を好む息子の将来を案じた母は医者の道を歩ませる。
医者の学問を学ぶため京都に出たのが宣長23歳のとき。
京都で青春を謳歌。王朝文化に憧れ和歌や神道の研究に志しました。
京都滞在中に姓を先祖の姓である「本居」に戻している。理由?
28歳で松坂に帰り開業し、夜は歌会、古典講釈をする生活が始まった。
そんな中、賀茂真淵の「冠辞考」に強い影響を受けるとともに、
参宮途中の真淵に松坂で対面し弟子となり「古事記」の研究を始めます。
この時の二人の対面が佐々木信綱の名文で知られ、戦前の小学校国語読本にも載せられた「松阪の一夜」。
たった一夜の出会いが本居宣長の生涯を決定しました。
信綱が記した一部です。
真淵通称岡部衛士は、当年六十七歳、その大著なる冠辞考、万葉考なども既に成り、
将軍有徳公の第二子田安中納言宗武の国学の師として、その名嘖々(さくさく)たる一世の老大家である。
年老いたれども頬豊かなるこの老学者に相対せる本居舜庵は、眉宇の間にほとばしつて居る才気を、
温和な性格が包んでをる三十四歳の壮年。
しかも彼は廿三歳にして京都に遊学し、医術を学び、廿八歳にして松坂に帰り医を業として居たが、
京都で学んだのは啻(ただ)に医術のみでなくして、契沖の著書を読破し国学の蘊蓄も深かつたのである。
古への意を得るには、古への言を得た上でなければならぬ。
古への言を得るには万葉をよく明らめねばならぬ。
それゆゑ自分は専ら万葉を明らめて居た間に、既にかく老いて、残りの齢いくばくも無く、
神典を説くまでにいたることを得ない。
御身は年も若くゆくさきが長いから、怠らず勤めさへすれば必ず成し遂げられるであらう。
日本最古の歴史書「古事記」を正確に読むことが
日本人の本当の姿や思想を知る上で重要と考え、
以後、35年の歳月をかけ古事記伝44巻を執筆。69歳で終稿。
また、源氏物語や和歌を研究し物語りや和歌は「もののあわれ知る」ことが、
テーマであるという文学論も大成しています。

展示品です。ショーケースに納められていますので写りが悪いものもあります。
宣長は鈴コレクターで、駅鈴のレプリカなど珍しいものを多く所有していました。
駅鈴(えきれい)は、日本の古代律令時代に、官吏の公務出張の際に、朝廷より支給された鈴で、
現在残っている実物は、国の重要文化財に指定されている隠岐国駅鈴2口のみだそうです。
また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけています。

書斎のイラスト。

医者の道具類。
医師として40年以上にわたって活動しており、かつ、紀州藩に仕官し御針医格十人扶持となっていました。
十人扶持というとよく分かりませんがこれだけではとても生活できなかったようです。
宣長は昼間は医師としての仕事に専念。往診が多かったようです。

本居宣長六十一歳自画自賛像。
自分で画と言葉を書いています。
着ている着物は「鈴屋衣」という宣長オリジナルの着物だそうです。
書かれた文章は、
これは宣長六十一歳寛政の二とせといふ年の秋八月
手づからうつしたるおのかゝたなり、
筆のついてに
しき嶋の やまとこゝろを 人とはゝ
朝日にゝほふ 山さくら花

宣長の道中脇差。
一時紀州藩にも使え陣笠をかぶり脇差を差して旅をしたようです。
紀州藩といっても当時松坂は紀州藩に属していましたからね。
「古事記伝」や「源氏物語玉の小櫛」など78種206冊に及ぶ著書を残しており、
上記の展示物のほかに多くの書籍も展示されています。
古事記伝の出版にあたっては尾張藩重臣で御用人横井十郎左衛門平宏時(雅号:千秋)の尽力が、
大変大きかったとありました。
横井は宣長の尾張門下を代表する国学者だったそうで自身も出版をしています。

記念館に付属する施設として「鈴屋」(国指定特別史跡)があります。
もともと魚町にありましが、明治42年(1909年)保存と公開のため当地に移築されました。
鈴屋は宣長の祖父が隠居所として1691年(元禄4年)に建てたもので、
宣長は12歳から72歳まで住んだといわれ
この家で医者としての仕事をし、古典の講義をしたり歌会を開いたりしました。
建物正面です。

正面右側に2階が見られます。
53歳の時、2階の物置を書斎に改造し、床の間に掛け鈴をさげたことから鈴屋(すずのや)と呼ばれます。
書斎は入ることが出来ず、正面に設けられた高台から眺められるようになっています。


一階内部には入ることが出来、土間から座敷を見ることは出来ます。
台所の様子も。


建物正面右側を通り抜けると山門に出ました。
横には記念碑が建てられています。

城内で見られた紅葉です。
平地でも大分きれいになってきました。

階段を下っていくと裏門跡に出ます。

近くにある本居宣長ノ宮。
名称の通り本居宣長を祭神とし、学問向上、受験合格にご利益があるとかで、受験シーズンには参拝者が多いとか。
ながく本居神社として親しまれてきましたが、平成七年社号を本居宣長ノ宮と改称されました。

裏門跡近くにある御城番屋敷(国指定重要文化財)。
裏門跡から搦手門跡を結ぶ石畳の道路沿いに槙垣をめぐらした武家屋敷です。
城を警護する紀州藩士とその家族の住居として1863年(文久3年)建てられました。
屋敷は現在も子孫の方々が維持管理し12戸分が借家として利用。
そのうちの一戸を借り受け復元整備され公開されています。

公開されている屋敷の正面です。

入口横の縁台から座敷を眺めたところ。
二部屋です。

入口土間を通り抜けると裏庭。
左側に台所、右側に厠が付属していました。

土間の天井です。
明り取りが見えます。
このほかにも廻ったところがありますが次回に。