松 坂 商 人
大変遅くなりましたが松坂に行ったときの続きです。
当地は商人の街としても知られています。

三井高利(たかとし)ゆかりの場所。
商人で三井といえば後の三井財閥を思い浮かべますが。
その通りで、三井、三菱、住友、安田の4財閥の一つの発祥の地です。
市指定の史跡に指定されていますが公開はされていません。
祖父母、父母の五倫塔、や高利「産湯の井」などが残っているようです。

松坂商人の館。
江戸期の屈指の豪商・小津清左衛門の邸宅を資料館として公開しているものです。
清左衛門は1653年に江戸で紙商「小津」を創業しています。
この小津は現在なお小津産業株式会社として続いています。
17世紀末から18世紀初頭に建てられて物で、木造二階建て延545uほどあり、
20余りの部屋があります。
見世の間、奥見世の間、茶の間、お家の間、表座敷、奥座敷、向座敷、があり
商談の内容、進み具合により通された座敷が異なったそうです。
また、小津で有名なのは、城下町松坂で紹介した本居宣長、そして映画監督の小津安二郎。
松坂には小津安二郎青春館があります。

屋根に見られた「うだつ」。
本来、町屋が隣り合い連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐための防火壁として
造られたものですが、江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになりました。
そして、自己の財力を誇示するための手段として、上方を中心に商家の屋根上には
競って立派なうだつが上げられる様になったそうです。
慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられているのはご存知の通りです。

左の写真は入口から入りすこし通りぬけ振り返った様子。
通路の左側には向座敷と台所、右側には勘定場、お家の間があります。
右の写真は、入ったところに展示されていた千両箱ならぬ「万両箱」です。
用材としてはヒノキや樫の木が用いられ、角を鉄板などで補強しているものが多いのですが、
これは金属の合金だそうで当時の豪商のすごさを感じます。
では一体一両とはどれくらいの価値があったのかということですが、
金の純度も色々あってなかなか評価が難しそうですがおおよそ20万円として、
万両箱では20億円にもなったのではとのこと。
驚くべき金額です!
時代劇でよく紙に包まれたものを見ますが、和紙で包まれ25両や50両を包んでいたそうです。

台所と調理場。


お家の間、表座敷、奥座敷から表座敷を見ています。

廊下と厠。

奥座敷は廊下で湯殿と内蔵に続いています。
よく時代劇に出てくる木の浴槽と異なり、浴槽の浅さと小ささには少し驚きました。
内蔵には千両箱や講札などが展示されていましたが撮影禁止でした。
講札とは
参宮街道はその名の通り参宮者が大半を占め、伊勢講を結んでいました。
講元が参宮者のための宿を表示した看板で、宿の名と講の名を表示したもので、
講の名が中央に大きく表示されたものが多くありました。
講の名には勢栄組とか太栄講とかがありました。

内蔵の外観と外に設けられた厠。
私は今までに見たこともない蔵でした。
余談になりますが明治維新に商人に御用金が割り当てられその額86万両。
三井五家に30万両、鹿島一党に15万両、小津清左衛門に6万両の順だったそうです。
三井、小津両家で実に42%を占めます。
大した財力だったのだと驚くます。
ただし、三菱、住友はこの時期どうだったのかな? と思ってしまいます。

向座敷から見える庭です。

通りを行くと趣のある看板を見つけました。
三味線を扱っている店でした。
やはり伝統のある街だと感じさせられます。

江戸時代以来、三井、小津、長井家とともに江戸店持ち豪商として長谷川家があり、
その長谷川邸です。木綿商で財を成しました。
現在この屋敷も開放されていませんが、12月の新聞に市に寄付がなされ、
屋敷とともに残された数多くの資料が来年には公開する予定だそうです。
現在もマルサン長谷川(株)として続いています。

立派な蔵と枝振りのよい松が見られました。
歴史民族資料館です。
明治43年(1910年)皇太子の行啓を記念し、翌年飯南郡図書館として、
この場所に建てられ、明治洋風の木造建築物としてその価値が認められています。
昭和53年(1977年)まで松阪市立図書館として使用されていましたが、
新たに図書館が建築され、松阪市立歴史民俗資料館にころもがえされました。
庭の様子です。
石灯籠は元禄四年辛末・奉寄進若宮御宝前・長雅と記されています。

ちょっと大きさを写真からは想像できませんが大きなものです。
ひと尋はあったように記憶しています。
他にもたくさんの立派な鬼瓦が並べられていました。


展示されていた当時の看板。
国産松坂木綿商の看板は明治の三筆と呼ばれた日下部鳴鶴が筆者だそうです。

かご。


松坂木綿は江戸時代の初期から松坂しま、菅縞として親しまれ、
洗うほどに色が冴えてくる藍染を基調とした縞柄と、
たて糸によりをかけない生糸を織り込んだのが魅力だったそうです。
品質が優れているだけではなく、デザイン性にも優れていましたので、
江戸庶民に大いにうけました。
この木綿を商ったのが、松坂商人でした。
主に松阪木綿を扱う豪商は、江戸時代前期にいちはやく江戸、あるいは京・大阪に店を構え、
その商品は年間五十数万反(当時の江戸の人口の半分)の売り上げを誇ったといわれています。
江戸時代には、贅沢(奢侈)を禁止して倹約を推奨・強制するための奢侈禁止令(しゃしきんしれい)が、
いろいろな形で出されています。
まずは、農民に対しては布・木綿に制限、ついには江戸城内でも茶坊主や下女は木綿だけとなったようです。
こんなこともあったようで木綿は庶民の必需品だったようです。
まだまだ松坂には見るべきものがあるようですが今回で終了です。